命婦(みょうぶ)、越中さん
「どないどす、この命婦(みょうぶ 高位の女官)はんの絵---?」
町絵師・北川冬斎(とうさい 40歳前後)がひろげた。(『都風俗化粧伝』より)
「うん、冬斎はん、ようでけた」
ほめたのは、〔左阿弥(さあみ)〕の2代目・角兵衛(かくべえ 40がらみ)。
「2代目。どういうことです?」
銕三郎が訊いた。
銕三郎がお目当てにしている御所かかわりのおんな客が、化粧(けわい)指南師・お勝(かつ 31歳)のところへ目論見どおりに現れないから、いっそ、直(じか)に女官をあしらってみては---と冬斎に描かせたkのだと角兵衛が釈明した。
「長谷川はんが、いつやったか、命婦(みょうふ)はんのなかに、越中はんと呼ばれとぅる立役(たちやく)がいてはるらしいいうて、笑わしてくれはりましたやろ」
「粽(ちまき)司の〔川端道喜〕の10代目どのから聞いたのです」
【参照】、2009年8月30日[化粧(けわい)指南師・お勝] (7)
それで、4板刷りの〔化粧読みうり〕を飾る絵にしたい---と。
〔化粧読みうり〕は大当たりで、1ヶ月のうちにすでに3板刷りまで出た。
読み手であるおんな衆も次のが刷られるのを待っているが、お披露目枠の申しこみが7板刷りまでうまっているという。
それだけ、効き目が大きいというわけであった。
角兵衛によると、早くも柳の下の2匹目の泥鰌をすくおうと、手くばりをはじめた者もいたらしいが、〔左阿弥〕がかんでいると分かって手をひいたらしい。
4板目のお披露目2枠を買ったのは、次の2店舗であった。
〔山城屋〕は、角兵衛に枠代を倍払っても---とでも申し出たのであろう、2度目であった。
倍払ってももおつりがくるほどの効き目に、味をしめたのであろう。
もっとも、枠をきまった値段以上で取引きするのは〔左阿屋〕の勝手である。
銕三郎には、決めた分だけがきちんとはいればいい。
枠がうまらなかったら、角兵衛が枠代を負担する。
下の枠は、これまでどおりに、〔紅屋〕と〔延吉屋〕が居座っていた。
3板目も4板目も、角兵衛は律儀に自分の手数料を差し引いた、6両(96万円)を銕三郎へ渡した。
【参照】2009年8月27日[化粧(けわい)指南師・お勝] (4)
「彫り師や刷り師への払い分も2代目がとり仕切ってください」
銕三郎がいうと、
「いえ。これは、長谷川さまが案じなさった商売ですよって、わずらわしゅうても取り仕切っていただかな、あきまへん。代人やったら、おひきあわせしますよってに---」
どういうわけか、角兵衛が固辞した。
彫りとか刷りとかの実の手がおよぶことにはかかずらわりたくなかったのかもしれない。
「空気を売るにひとしい」と銕三郎が表現した、お披露目(広告)枠の手数料だけをやっている分には、火傷(やけど)をしっこないとふんだこともあろう。
「どないしまひょ」
冬斎の催促に、銕三郎は、
「いや。直かに女官を誘うのは気がすすみませぬ」
断った。
2代目も、あっさりと承服した。
【ちゅうすけ注】明治以前の命婦の定員は7名。皇子・皇女を身籠ることもあったから、立役はいなかったろう。
たぶん、話をおもしろくするために、〔道喜〕の10代目がふつうの官女(女嬬 じょじゅ 諸道具掛)
あたりを位あげして話したのだ。
なお、越中ふんどしは、甲冑を着たとき、前結びのほうがべんりなので考案された。
ふだんはうしろ結びであった。
当時の至上は、絹の6尺をお召しであったと。
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『幕末の宮廷』
『翁草』 鳶魚翁のネタ本?
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