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2012.05.12

天明7年5月の暴徒鎮圧(4)

ここまでおつきあいいただいた鬼平ファンの中には、あの若衆髷(まげ)の扇動者とその男を護衛している坊主頭はどうなったとお訊きになる向きもあろう。

参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み

このエビソードは、じつは『夕刊フジ』の連載のために調べた。
架空の話ではない。
ところが、今回、あらためて調べなおそうとしたら、原典が見つからない。
3.11の地震で崩壊した書斎を修復もしないで、なんとかスペースをみつくろいパソコン机を置いていたが、それもそのままにして入院、手術。
あと、緩和ケアーをすすめやすくするために、家族の居住区に小さな仕事場兼病室をしつらえて移った。
史料を保管している書庫は元のところのままなので、手元には数少なくしか置いていない。

しかも、ちゅうすけ自身は病気の進行で体力が激衰し、このブログのコンテンツを5行書いては横手のベッドに寝ころんで息づかいが正常に回復するのを待ってはまたパソコンに向かう。

今回、弓の2番手と6番手が詰めた伝通院組の担当区割りの打ちこわしには姿をみせなかったということにしていただきい。


言い訳はこのくらいにして、打ちこわしが徳川幕閣に与えた影響について触れたい。

再度の依頼で恐縮だが、5年前、2007年8月31日の当ブログ[先手組に鎮圧出動指令]を再見していただけないだろうか。

このところ、騒擾(そうじょう)の経緯をめぐっていささか新記述を加えているので、5年近く前のコンテンツとドッキングしていただくと事態がはっきりしてこよう。

事態――そう、天明7年(1787)5月の江戸城内の気配である。

参照】、2007年8月31日[先手組に鎮圧出動指令

この風聞書が徳川宗家に保存されていたことから、御庭番に隠密を命令したのは、田沼意次とその派の横田筑後守準松、本郷大和守泰行らに距離を置いていたただひとりの側衆・小笠原若狭守信喜と推理している。(深井雅海「天明末年における将軍実父一橋治済の政治」)

家斉(いえなり 15歳)とともに本城へ移った用取次ぎ・小笠原若狭守信喜(のぶよし 69歳 7000石)については、入院中の3月にけっこう長く言及した。

参照】201234~[小笠原若狭守信喜] () () () () () () (

5年前に小笠原信喜に登場してもらったときには、天明の政変にこれほど大きな影響を及ぼした幕閣とは予想もしていなかった。

いまではすっかり手垢にまみれた「想定外」という言葉が、ちゅうすけにとってはこのご仁にぴったりといえる存在になっている。

田沼意次(おきつぐ 69歳)が不本意な依願免職の形で身を引いたこのとき、本城で田沼派の首領格として派閥をささえていた横田筑後守準松(のりとし 54歳 9500石)を、信喜が追い落としたのである。

江戸の打ちこわしの収束策の検討の場で、横田準松が少年将軍・家斉へ事態を正しく奏上していなかったと責め、免職をいいわたしたのであった。

これは、一橋治済の暗躍によりご三家の要望として、松平定信(さだのぶ 30歳 白河藩主 11万石)を老職にくわえるように老中会議へ送ったところ、徳川一族の者を幕閣にいれてはならぬという九代将軍・家重(いえしげ)の遺志に反するとの、家重の意向の拡大解釈を理由に拒否されていたのを粉砕す地雷となった。

小笠原信喜は、庭番による打ちこわしの風聞書も、打ちこわし頭取格の男が目安箱へ投げいれた意見書も横田準松へ何気ないふりで手わたしていたのであるから、その内容を家斉に告げなかったのは、たしかに責められてもしかたがない。

横田の失脚により、打ちこわしの約1 ヶ月たらずののちの6月19日に定信は宿願の老職となることができた。


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