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2006.04.26

長谷川平蔵の裏読み

「その必要はない。太刀などを抜いては、かえって暴徒を興奮させることになる」
鎮圧に出動する組下たちの刀剣を改めましょうか、といってきた与力を、長谷川平蔵はとめた。

天明7年(1787)5月のこと。この月の12日に大坂ではじまった米商の打ちこわし騒動が、全国にひろがる勢いをみせ、20日には江戸へ飛び火、3日間というもの昼夜をわかたず荒れまくった。

ふつうなら100文で1升買えた米が3倍値上がりし、3合しか買えなくなった上に、米商が売りおしんだのだ。

はじめは町々の米商方の戸を破って押し入り、米を道路へぶちけていたが、やがて富家も暴徒の対象となった。
火盗改メを勤めていた堀 帯刀の組(先手・弓の1番手)の手にあまる、暴虐無人の暴れ方であった。

たまらず幕府は、先手34組の中の長谷川組(弓の2番手)を先頭に10組へ鎮圧動員を発令。

その中の1組…鉄砲(つつ)7番手の安部平吉信富(1000石。58歳)組の与力・松山某(60歳)は、「手向えば斬り捨ててよろしい」との幕府からの付言を重くみ、組下の腰の大小を点検、錆びている刀身やなまくらは取りかえさせた。

つたえきいた出動各組も、松山与力のこころくばりを見習った。長谷川組の与力もそうするべく平蔵へうかがったところ、冒頭のような返事がかえってきたのだ。

平蔵はにやりと笑みをうかべて、こうつけ加えた。
「安部どのの組の、松山とか申す与力だがな、戦場へでも出陣する気なのだろうよ。バカな。橋下に巣くっている無宿人や裏長屋の食いつめ者たちが強訴半分、気ばらし半分でやっていること。われらが姿を見かければクモの子が散るように逃げるだけだ」

それよりも…と声をひそめて、
「暴徒を陰で扇動、進退を指令している若衆髷(まげ)の男と、そやつを護衛している坊主頭がいるそうな。わが組のねらいはこの2人のみ。捕らえたら、思いもかけない裏があきらかになるはず。ほかの無宿人たちは蹴散らすだけで十分」

ところが事前に各組の分担を決めておいたものだから 暴徒たちの激戦区である日本橋、京橋、芝地区は担当にはならず、察知したかのように、若衆髷と坊主頭は、平蔵の前には姿を見せなかった。

この米屋打ちこわしは、田沼意次政権を引き潮に乗せたように凋落させ、松平定信の出番を早めた。

松平内閣が成った1年後、平蔵に連れられた京橋・竹河岸の料亭で、くだんの与力がおそるおそる、
「昨夏の騒動のときの若衆髷と坊主頭を長官(おかしら)は、白河さま(定信)の手の者とお読みになっていたのでございましょうな?」

「これ。めったなことを申すでないわ---。
ただな、密偵たちの報告から、あの者たちの指図ぶりを推察してみたが、とても暴徒のものとは思えなんだ。
足軽大将のやる指揮だった」

つぶやき:
反田沼派の陰に一橋侯(治済。はるさだ)がいたことはよく知られている史実である。

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