カテゴリー「020田沼意次 」の記事

2012.05.31

田沼主殿頭意次への追罰(2)

田沼意次(おきつぐ 69歳)の追徴について、天明7年10月2日の『続徳川実紀』は、ずっと後年にまとめられた故もあり、かなり穏当な語句でまとめている。

○二日 田沼主殿頭意次へ仰せ下されしは、勤役中不正の事ども相聞へ、如何の事におほしめしぬ。前代御病臥のうち御聴に達し御沙汰もありし事により、所領の地二万七千石を収納し致仕命ぜられ、下屋敷に蟄居し、急度慎み在へしとなり。

家治(いえはる 享年50歳)の喪が発せられてから24日後、実際に没してから30日もたって、前将軍の遺言の形での追罰であった。
臨終の病室には入ることを拒否された意次である。
ほんとうに遺言なのか、あるいは死後にご三家と一橋治済(はるさだ 37歳)が共謀してつくりあげた遺言かもしれないが、意次としては、それは腹でおもっても口にはだせなく、悔しいおもいをしたろう。
口にだしたら、将軍家に対して不敬であるということで死罪になっていたかも。

翌日、10月3日の『続実紀』――

○三日 岡部美濃守長備、遠江国相良城請取、且警衛すべきよし命ぜらる。

なんと手まわしのいいこと。
事前にしっかり打ち合わせていたことがこれで露見したではないか。
――
岡部備前守長備(ながとも 27歳 和泉国岸和田藩主 5万3000石)は、意次が加増をうけたときに藩内のもっとも豊饒な地1万石をあてられ、爾来、田沼を恨んでいた。
そこのところを定信(さだのぶ 30歳 老中首座)か治済が利用した。

岸和田藩側の準備がととのい、相良へ達したのは11月24日であったらしいが、2500人のひと騒ぎでも起きそうなほどの、たいそうな行列で乗りこんだらしい。

参照】2006年12月4日[相良城の請け取り
2006年12月4日[『甲子夜話』

このあと、相良城の取りこわしが始まった。
せっかくの城が一草もない平地にされた。

ちゅうすけに閃めいたのは、これである。

相良の3万石ほどの豊穣な地は、しばらく幕府直轄であったが、やがて、一橋家の10万石分のあてがい封地のうち、甲府で3万石と公称されていた痩せ地と交換されたのである。

一橋田安清水の三卿は幕府から一卿あたり10万石ずつあてがわれていたが、これは領地ではなくあがりだけが取り分であった。
だから城はなく、陣屋をおいて管理していた。
家臣も幕臣の派遣であった。

そう、城はなく――というより、あってはならないといったほうが正確であろう。

城があっては封地にできない――つまり、痩せ地を豊穣な地と交換(?)しようとおもったら、城は邪魔なだけなのである。

一橋治済はそこまで読み、意次憎しの一念の定信の耳に悪魔のささやきを入れたのではなかろうか。

もし、類推があたっているとすると、治済定信は、私利私怨のために日本の美――文化を破壊した非道の主ということになるが。

いや、証拠はいまのところ、ない。
徳川宗家あたりから、いつの日か、文書があらわれるのではなかろうか。

相良城が小さくはあるがどんなに美しい平城であったか、平岩弓枝さん『魚の棲む城』(毎日新聞社 のち文春文庫)からご想像いただこう。

参照】200719[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (
 

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2012.05.30

田沼主殿頭意次への追罰

この10数年、いくつかの成人学級で長谷川平蔵――鬼平を冠したクラスを5年から10年つづけ、単発のスピーチはたぶん100ヶ所を超えるほどこなした。

リスナーは当然、鬼平ファンであるが、小説の鬼平と史実の平蔵を混同していたので、そこをはっきりと区別するように――つまり、池波鬼平に副(そ)いながら、当時の江戸という大都市の町並み、人情、犯罪、さらには幕府の職制と習俗について解説した。

もっとも受講者が驚くのは、ちゅうすけ田沼意次は賄賂政治家ではなく、商業資本化していた経済構造にしたがい、日本の税制を農に商を組みこんだ先見性の高い幕閣であったと説明した瞬間であった。

もちろん、ちゅうすけは経済や税制の専門家ではないが、田沼に対して行った松平定信(さだのぶ))のあまりにも幼稚で偏狭な処置にいきどおりさえ覚えているため、つい、いいすぎとみられることもあった。

賄賂政治家説は、定信派が自分たちを良と思わせるるために、田沼を対極の悪の権化のように――日本3大悪人の 一人と当時の人びとに思いこませるように工作していた気味がある。

(余談だが、この国のいまの政府・与党のやり方にもそれは使われている。たとえば、小沢氏に対する金権政治家といった印象を貼りつけるためのマスコミ操作。あるいは原発をめぐっての世論操作など)

謀略で政権を手にした定信が、ご三家、一橋治済(はるさだ)と組んで、天明7年(1787)10月からおこなった相良城の取りこわしと田沼の封地の2万7000石の追徴召し上げも、政権交代の反動にしては酷すぎる。

家重(いえしげ)、家治(いえはる)が与えた5万7000石のうち、病気による辞表提出すぐの2万石没収、そして1ヶ月たらずおいての2万7000石追徴であった。
理由が、賄賂の悪習を煽り私服をこやしたというのである。
賄賂と贈与の境界づけはむつかしい。
こちらが要求していなければ贈与とみるぺきであろう。

とくに、幕府上層部のばあいはこの区別がはっきりしない。
というのは、封建的領主(藩主)とはいい条、幕府は絶対的権力をもって各藩に、藩外の築堤や修理などの巨額のご用を申しつけることができた。
各藩としては、幕府権力者へ1000両の贈与をしても、2万両のご用お手伝いを逃がれられれば、藩は1万9000両近く助かったことになる。

倫理感の問題ではなく、算術の引き算の問題であった。

もちろん、田沼がそれをやったというのではなく、幕府の制度からきている悪習であった。

そういった根本の問題はおいて、田沼から4万7000石をとりあげるなら、それに値するものを受けとったという証拠をあげて罰するべきである。
封地の4万7000石は、田沼個人のものではなく、300人からの藩士の生活の問題であった。

相良城の取りこわしにいたっては、まったく 田舎(でんでこ)芝居であったといえようか。
いや、もっと悪い。取りこわしを拝命した藩にとってはおもわぬ大金を浪費させられた。

参照】2007年11月27日[一橋治済

4年半前の上の文章を読んでいて、突然、相良城を徹底的に取りこわしたわけが閃いた。
そうか、それでは、跡形もなくこわさないとなるまい。

これまで、そのことに推理をおよぼした人は誰もいなかった。

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2012.05.17

江戸・打ちこわしの影響(5)

全国的な市中・打ちこわしの発端となった大坂の騒擾の間接的な要因は、前年の将軍・家治(いえはる)の死にもあるらしい。

病気の前に、都中央図書館で『新修大坂市史 第4巻』(大阪市 1990)を確認しておいた。
しかし、地下鉄の広尾駅から都中央図書館へのなだらかな坂道が退院後は無理とおもえた。

都中央図書館から住まいに近い区の図書館経由で借り出しを申請をすると、本によっては館内閲覧に限定されることがある。
そうなったら病躯にちょっと無理をさせ、区の図書館でコピーをとるより仕方がないかと覚悟していたが、なんと、世田谷区の中央図書館から都合がつき、病室でじっくり読むことができたのである。

自宅まで借りだせれば、範囲ページを指定し、家人に拡大コピーをたのめる。
(加齢とともに老眼もすすみ、見開きA4のページをA3に拡大して手元に置くようにしている)

天明4年の大坂の打ちこわしのことはすでに紹介している。
このころは病気発見の前で、都中央図書館へよくかよっていた。
(電車賃が大変だった、なにせ、無料閲覧のブログなんだもの)

参照】2012年1月14日~[庭番・倉地政之助の存念] () () () (

さて、大坂の天明6年(1786)の状況だが、天候不順で収穫は全国平均、例年の3分の1しかなく、翌7年の正月には米価は3倍に高騰していたが、買占め・売り惜しみを奉行所へうったえると、例によって米商人に買占め・買いだめの遠慮の布告をだしただけで、町人がわには「粥をすすれ」との返事であったという。
(このあたりは、いくらなんでも幕府役人のセリフとは信じかねる)


こんな矢先の(天明)七年正月四日、江戸表から大坂へ一万石の回米令が達せられた。しかもこれは当年四月に予定されている徳川家斉の新将軍宣下の儀式のときに入用に備えるものというのである。これを聞いた町民は平成でありえず、当然いろいろ不穏に噂が乱れ飛んだ。これに対して奉行所では、一万石くらい別段たいした量ではないから、これが米価の値上がりの原因になるはずがない。それにもかかわらず、これを理由に値段をつり上げようと浮説を流したり買い占めをしたりするのは不届き至極であると、高圧的な言い分で町民の不満を押さえ込もうした。町奉行あたりには飢えに苦しむ貧しい町民の気持ちは全くわからなかったのであろう。(147ページ)


このときの大坂東西の町奉行を書きだしてみる。

西町奉行
佐野備後守政親(まさちか 57歳 1100石)
 天明元年5月26日 堺奉行ヨリ
 同 7年10月6日 寄合

東町奉行
小田切土佐守直年(なおとし 49歳 3000石)
 天明3年5月19日 駿府町奉行ヨリ
 寛政4年正月18日 (江戸)町奉行

並べてみると、どちらも「粥をすすれ」などと不遜な言辞を弄するような仁とはおもえない。
与力あたりが行きがかリでつい 吐いたか、町人のほうが聞き間違えたかともおもうが、触れ書に書き留められていたと記しているものものあるので、首をかしげている。

記録ではほかに、『北区誌』(大阪市北区役所 1955)にもこんな記事が記されている。


天明七年五月十一日夜は、天満伊勢町茶屋吉右衛門の居宅を襲って家作諸道具を破壊したのを発端として、翌十二日には市内各所に押買い・狼籍が起り、銭百文を出して二升、三升の米を押買し、もし応じないときは米穀を引出し、あるいは店舗を破壊するという有様であった。
木津勘助(万治三年十一月歿、年七十五才)の事蹟は必ずしも明らかでないが、当時不作で米の値は上り、貧民は粥もすすれぬという騒ぎがあり、貧民たちはまず堂島の米市場を襲い、ついで中之島の蔵屋敷にせまり、叫喚が高まった。
このとき福岡藩筑前屋敷の廂の上に両脚を踏むばって上ったのが木津勘助であった。両手を左右にひろげ、腹の底から絞り出した大音声で、
「勘助餅の勘助ぢゃァ、あとは安心せい、この首を獄門に懸けて引受 けたぞ。」
と叫んだので、これに勢をえた群衆は白昼に市中至るところの米倉を襲ったが、この罪科を負うて勘助は二カ月の間、獄にあって、三カ月目に死罪を行うべきところ、生涯の流罪として流されたのが木津の勘助島であった。


西町奉行・佐野豊前守がこの年の10月に解職になったのを、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房)は、騒擾(そうじょう)の責任をとらされたというより、むしろ、田沼派であったために粛清されと断じている。

参照】2010年9月24日[佐野与八郎の内室] (

たしかに、松平定信派による「田沼派干し」の気味はある。
大坂西町奉行まで勤めた人物を罷任するのは政争の末にはよくあることだろうが、その人物を3年後に1ランク下の先手・鉄砲(つつ)の組頭に就けさせるというのは、これみよがしの降格といえた。

あまりにも没義道な人事で、松平定信(さだのぶ)の人情を解さない狭隘な性格の発露とみる。

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2012.05.16

江戸・打ちこわしの影響(4)

7年半近く、1日も休まずにつづけてきたので、ちょっと休ませていただく。

4,5日前の当ブログで、打ちこわしの暴徒を指揮した若衆髷(まげ)の若者と坊主頭のことを7年前に『夕刊フジ』の連載で紹介したが、出典を忘れたと陳謝した。

参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み

出典がわかった。
太田南畝(蜀山人)『一話一言』であった。
たしか『燕石十種 第1巻』(中央公論社)に収録されているはず。

じつは、昨日、そのことを思い出し、3.11で足の踏み場もないほどすごいことになっている書庫にさがしに入った。
探しているときには、相手はおんなのように隠れるものであろうか。
8冊そろっていたはずなのに、第1巻の姿が消えていた。

続燕石十種』(中央公論社)のほうは6冊そろって無事だったので、「長谷川平蔵殿」が書かれている四壁庵茂蔦『わすれのここり』を読み返すべく、病室へ移した。

参照】2009年11月30日~[おまさが消えた] () (

若衆髷は、このところずっと紹介している竹内 誠さん『寛政改革の研究』(吉川弘文館)にも引用されている。


騒動の最中に、ある噂が市中にひろまった。打ちこわしの先頭に、いつも前髪姿の若者が一人おり、獅子奮迅の活躍をしているという噂である。しかも若者は「美少年」であり、「太刀」で飛鳥のごとく飛びまわったという。「其の勢ひ中々人力にてはあるまじく、天狗の所為なるべし」と評判もっぱらであった。


まるで牛若丸と弁慶といったところだ。


一般に一人ひとりでは無力に民衆が、強大な権力に真正面から立ち向かうとき、その反抗のエネルギーを具現する象徴的な人物が必要であった。しばしばその人物に、超能力を有する美しい若者があてられた。民衆の集団行動を奮起高揚させるには、こうした稚児崇拝思想はおおいに役立った。( 『寛政改革の研究』)

竹内先生もたまには、現実から飛翔し、史実の幻影に夢を托してみたくもなろう。

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2012.05.15

江戸・打ちこわしの影響(3)

昨日、引用させていただいた竹内 誠さん『寛政改革の研究』(吉川弘文館)は、刊行日2009年7月10日.となっていて、ごく 最近の著のように見えるが、ご三家の会合の年月日の表が発表されたのは、同著「あとがき」によると、ほぼ40年前、国史の専門誌『史海』に「寛政改革の前提――天明の打ちこわしと関連して――」と題してであったと。

おおっ……とおもいつき、深井雅海さんの研究「天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割」が徳川黎明会の徳川林政研究所の『研究紀要』に掲載された号をあらためた。
昭和56年度(1981)――ほぼ、10年ほど後であった。

ということは、深井さんは竹内さんの研究に触発されて史料発掘と考察とすすめたともいえないこともない。

学問的にはまったく脈絡はないのだが、もうひとつ、おもいつき大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店)の刊行はと、奥付をあたった。
単行本は1991年、現代文庫は2001年であった。
(単行本と重ねて文庫も購入しているのは、書斎でちょっと調べたり旅先に携行したりするためである。それほど深く触発された。重ねて文庫も購っているのは、ほかには宮崎一定さん『論語の研究』ぐらいかな)

さて、本旨にもどり――

寛政改革の研究』で竹内 誠さんは、これは「水戸家の記録を分析した菊池謙三郎氏の実証的業績(「松平定信入閣事情」(『史学雑誌』)26編1号)だがとことわって、田沼意次の老中解任から松平定信の老中就任までの10ヶ月間の幕府内部の動きを日づけ順に展開している。

天明6年(1786)
 8月27日  田沼意次、老中解任さる。
 10月24日 一橋治済、水戸治保宛書簡にて、実直にして才力のある者を老中に推薦したき意を表す。
 閏10月6日 一橋治済、尾張宗睦・水戸治保宛書簡にて、松平定信を老中に推薦す。
 12月15日 御三家より大老井伊直幸らに対し、定信老中推薦の意見書を提出す。

天明7年(1787)
 2月朔日 大奥老女大崎、江戸尾張邸訪問の節、内々に定信老中の件、拒絶の趣を伝う。
 2月28日 御三家登場の節、老中より正式に定信老中の件、拒絶の回答あり。

(5月20日~24日、江戸・打ちこわし
 5月24日 御側申次本郷泰行、解任さる。
 5月29日 御側申次横田準松、解任さる。
 6月9日  大奥老女大崎、尾張宗睦宛書簡にて、定信の老中就任承諾の趣を内報す。
 6月19日 定信、老中就任す。寛政改革始まる。


さらにつづけて補うと、
 7月17日 本多忠籌、御側となる。
 9月1日 井伊直幸、大老解任さる。

天明8年(1788)
 3月28日 水野忠友、老中解任さる。
 4月3日 松平康福、老中解任さる。
 4月4日 松平信明、老中就任す。


天明7年5月の江戸・打ちこわしの最終日に御側取次・本郷大和守泰行(やすあき 43歳 2000石)が、同月29日に横田筑後守準松(のりよし 53歳 9500石)が罷免されたことで、田沼派の敗色が決定的となった。

この対戦を譜代派と新興派、農本派と商業派の政治的覇権争いとみる見方以上に、賄賂政治の敗北という倫理感の勝敗とする説も少なくはないし、それはそれで正論であろうが、その裏側には一橋治済(はるさだ 38歳)のどす黒く異常な権力欲の術策にのせられた喜劇とみては冷静さを欠いていようか。


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2012.05.14

江戸・打ちこわしの影響(2)

長谷川平蔵(へいぞう 42歳)という幕臣を、天明6年(1786)から同7年に置き、空想してみている。

この時期の、平蔵その人の業績の史料はほとんどない。
時代を連想させる脇役たちのものは、そこそこ公けになっているし、手元にも若干だがある。

将軍・家治(いえはる 天明6年8月25日薨ずる。享年50歳)
養子・家斉(いえなり 14歳=天明6年)

尾張大納言宗睦(むねちか 54歳=同上)
紀伊中中納言治貞(はるさだ 59歳=同上)
水戸宰相治保(はるもり 35歳=同上)

一橋家民部卿治済(はるさだ 37歳=同上)
田沼壱岐守意致(おきむね 48歳=同上 2000石 西丸側用取次)

参照】2012414~[将軍・家治(いえはる)、薨ず] () () () (

田沼主殿頭意次(おきつぐ 68歳=同上 相良藩主 老中)
松平周防守康福(やすよし 68歳=同上 浜田藩主 老中主席)
井伊掃部頭直幸(なおひで 58歳=同上 彦根藩主 大老)

横田筑後守準松(よりとし 53歳=同上 9500石 側用取次)
本郷大和守泰行(やすあき 43歳 2000石)
小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳=同上 7000石 西丸側用取次)

参照】2012 年3月4日~[小笠原若狭守信喜] () () () () () () () () () 

松平越中守定信(さだのぶ 29歳 白河藩主)

ここにあげた中の幾人かは、権力をめぐっての抗争にかかわっていた。
それを平蔵は、田沼派に与(く)みするようなかたちで公務をこなしながら、人生を横目でみて楽しんでいた。

竹内 誠さん『寛政改革の研究』(吉川弘文館)に目を通していて、61ページに掲げられているリストの意味するころのすごさに、双眸(ひとみ)がすいつけられた。

尾張藩の記録で、天明6年10月――すなわち、幕府が将軍・家治の死を公表してから5ヶ月間のご三家の当主たちの鳩首会談の頻度をしめしたもので、まあ、よくものこっていたと安堵するとともに、きっちり整理された精勤ぶりにも感心し、田沼派追い落としが着々と準備されていたことにも寒気をおぼえた。

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それぞれの藩邸に交互に寄りあっていた回数の多さも驚きだが、もっと注意をひいたのは、尾張家の祐筆の手になるとおぼしい記録、

「殿様(尾張侯)、水戸様、御退出より紀州様へ入られ、暮れ六時すぎ御帰」

当時、老中の江戸城退出は午後2時だから、三家はその前に城を出ていたろう。それから暮れ六ッすぎまで話しあいをつづけている。
おそらく、多人数におよぶ人事案まで話しあわなければ、3時間という時はつぶせまい。

三家といえば、将軍に次ぐほどの重要人物たちである。
それほどのキー・メンが時間をかけて人選しなければならないポストといえば、老中、側用人、所司代、大坂城代、三奉行あたりまでであろうか。

もちろん、話しあいの記録はほとんど表にでていないが、越権ごとともいえる話しあいがおこなわれていたことを田沼意次たちは気づいていたろうか。

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2012.05.13

江戸・打ちこわしの影響

ここ旬日、江戸始まって以来の不祥事といわれている市中うちこわしを、平蔵( へいぞう 42歳)がかかわったとおもわれる則面から記述した。

正面からとらえた詳細は、多くの史書に記録されているからである。

_150いまは終了してしまった静岡のSBS学苑〔鬼平クラス〕でともに学んできた一人――安池欣一さんから贈られたコピー、竹内 誠さんの労作『寛政改革の研究』(吉川弘文館 2009.07.10)に[寛政改革の前提]というブロックがもうけられ、

第一 改革の前提
      ――天明の打ちこわし――
 はじめに
 一 天明末年の政争
 二 政争前の法令検討
 三 将軍側近役の解任と江戸うちこわし
 おわりに

第二 天明の江戸打ちこわしの実態
 はじめに
 一 分析史料の紹介
 二 被逮捕者の分析
 三 打ちこわしの対象と動機
 四 打ちこわしの主体勢力
 五 江戸と近在農民との関係
 六 反権力・反田沼意識
 おわりに

ほとんど50ページ――このブロックの7割強があてられている。
労作全体からいうと11パーセントのページ数である。

打ちこわしは、都市で生活をしている下層住民の、米よこせ的な騒擾(そうじょう)であったが、それまでの江戸が経験したこともないほど大規模な騒ぎでもあった。

同著によると、その区域は府内4里(16km)四方、北は千住から南は品川まで、米穀店をはじめ油商、質屋などの富商が狙われた。

町奉行所が逮捕・吟味した「下書」から一例をひいて、深川六間堀町に店借りをしていた彦四郎(31歳 提灯張り渡世)は、近年の米価の暴騰で妻子を養いがたくなっていたが、20日の夜、同じ店借り人8人と、深川森下町の家持ちで米乾物類店・伝次郎宅へ押しかけ合力を強要したがうけいれられなかったので、建具家財を打ち壊したために翌日召し捕えられたと。

5月20日の事件というので、大坂からの指令とか事前の密議などがなかったか、調書を念いりに読んでみたがその気配はない。
共犯の7名は獄中で病死とあるが、はげしい拷問のすえの衰弱死とも想像できる。
それほどはげしく責めるられたら教唆者がいればその名を吐いていたかもしれない。

もう一例――。
三田3丁目に住んでいた清吉(39歳 人宿寄子)は、たまたま遠出をしていた湯島で打ちこわしの現場に出会い、おもしろそうなので加わり、逃げそこない不運にも捕縛された。
こういう偶然の参加者も少なくなく、捕り方がくると、ほとんどは一目散に逃げおうせた。

打ちこわしへの参加者は24組5000人にもおよんでいる。
5000人の参加者で刑をうけた者は42名、うち5名は逃走中で処刑はされてない。
また、同書のどこにも、反田沼の旗印をかかげた騒擾組はいない。

にもかかわらず、

「田沼意次政権から松平定信政権へという幕府内部の政権交替を促進し、かつ決定づけた点からして、単なる飢饉による米騒動=経済的平等化闘争として位置づけるのみでなく、客観的には、きわめて政治的色彩の濃い世直し的反封建権力闘争としてとらえる必要があろう」(72ページ)

いや、冷害や旱魃、虫害、洪水などの自然災害による飢饉、米価の高騰は、全部が政権の責任というものではない。
為政者が問われるのは、そうした自然異変による損害としもじもの痛みをどう軽減したかであろう。

打ちこわしという事態についてのちゅうすけの関心は、打ちこわしを権力闘争に巧みに利用した――というか、もしかしたらそれを仕かけたかもしれない者がいたかどうかにある。

要するに、史家たる才能が薄いのであろう。


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2011.09.13

老中・田沼主殿頭意次の憂慮(4)

「ただいまのところ、この部屋には10代が1人、40代が1人、全部の平均年齢は29歳、若いです」
桜色の腰丈の閨衣(ねやい)の右膝を立てた奈々(なな 18歳)が、石谷(いしがや)市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)の声色を真似た。

「客を神さまとおもえば、そのようなもの真似は慎んだほうがいい」
笑いながらたしなめ、片口から酌した。

田沼意次 おきつぐ 67歳)さまって、そんなにこわいお人なん? 於佳慈(かじ 34歳)さまはおやさしい」
手みやげをとどける奈々への応対はそうであろう。

「もしかすると、こわいのは、田沼侯ではなく、於佳慈どののほうかもしれない。田沼侯は理と情(じょう)をきちんとわけてお使いになる。於佳慈どのは、まま、情が先ばしる」
平蔵(へいぞう 40歳)は、3年前の正月の夜のことをおもいだしたが、里貴(lりき 38歳=当時)がらみの事件であったから、奈々には話さなない。

参照】2011年4月13日~[中屋敷の於佳慈] () () (

「利ィやったら、誰かて、こだわります」
「------?」
「儲けですやろ?」
「その利ではない。道理の理だ」
「理屈の理ィ---うちの、にが手や」
突然、奈々が話題を変えた。

くせである。
おもいついたら、忘れないうちに口にしてしまうのだと、けろりという。

「今日、おいでになった神保さま---お偉いお家の方みたい---」
「ほう。お客としてみえたことがあったか」
「ううん」
「では、偉いとか偉くないとか、何をもって判断したのだ」

奈々は、小川町に表神保(おもてじんぼう)小路という通りがある。都には姉小路(あねがこうじ)とか万里小路(までがこうじ)とかいうお公家の屋敷がある。
小路に家の名前がつくほどならえらいにきまっているはずだといいはった。

「たしかに神保小路は、今宵きた神保家から数代前に分家した神保なにがしのひろい屋敷があの道に面してあったのでそう呼ぶようになったと聴くておるが、だからといって、別に偉いわけではないと説明したが、奈々は納得しなかった。

本郷の壱岐殿坂(いきとのさか)は唐津の殿さまから、小石川の安藤坂は安藤飛騨守さまの名からとっているといいはった。

「そういわれてみると、〔季四〕にも招いたことがある建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳=当時)どののご一族の本郷のお屋敷の前は建部坂と呼ばれているの」

参照】2011年6月14日~[建部甚右衛門と里貴] () () (

(そうだ、思い出した、建部坂には、12年前に遺跡を相続して小普請入りした時、9の組支配の長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)のお屋敷に伺った。建部家のはす向いが長田家であった)

参照】20091212~[小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)] () () (

あの翌年、平蔵は西丸の書院番士として出仕し、長田支配に礼の言上に訪れたのが最後の面談となり、翌々年に不帰の人となった。

建部坂上からちょっとのところに屋敷のある盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 40歳 600俵)とも呑んでいない。

(浅野大学長貞(ながさだ 39歳 500石)を誘って不景気ばらいをするか。それにしても、
奈々の脈絡のない思いつきにつられで、あれこれおもいだす)


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2011.09.12

老中・田沼主殿頭意次の憂慮(3)

3日後に、本城の徒(かち)の1の組頭・石谷(いしがや)市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)からの書状を同朋(どうぼう 茶坊主)がとどけてきた。

今宵、13の組の組頭・神保(じんぼう)四郎左衛門長孝(ながたか)どのといっしょに会いたい。場所はどこにても---としたためられていた。

同朋を本城へ遣いにだし、神保(37歳 1100石)の屋敷の所在を訊かせた。
石谷清茂の住いは、先宵、田沼老中の木挽町(こびきちょう)の中屋敷での別れぎわに、元飯田町と聴いてあった。

小川町一橋通りと返ってきた。

すぐに松造(よしぞう 34歳)を呼んでもらい、〔季四〕と〔黒舟〕へ行かせた。

馬場先門東詰で落ちあい、鍛冶橋下で待っていた屋根舟で深川の冬木町寺裏舟着きまでのあいだに、これから行く茶寮〔季四〕は、田沼侯の息がかかっている店だと吹きこみ、小川町一橋通りの南端にあった茶寮〔貴志〕が元の店というと、神保長孝が、
「覚えていますが、いわくがありそうな店構えでしたから、あがったことはありませなんだ。10年ほど昔の謎が解けるのが楽しみです」
さすがに6000石の大身の従弟をもっている家柄らしく、諸事に通じているところをさりげなくみたせたが嫌味はなかった。

ついでに記しておくと、従弟の左京茂常(しげひさ 21歳)は、去年、父の茂済(しげずみ 39歳)が療養を理由に致仕したのをうけて家督したばかり、無役であった。

出迎えた若々しい奈々(なな 18歳)が、眉をおとし鉄漿(おはぐろ)なのに、神保長孝が、
「---?」
妙な顔をしたので、
「おばだった〔貴志〕の女将が去年亡くなったのです」
それきりで、説明をひかえた。

「先宵の相良侯の---」
いいかけた石谷清茂に首をふると、
「いや、耳打ちしたのは、神保どのだけです。組頭15人の年齢を調べるとなると、独りでは無理で。さいわい、神保どのは安永5年(1776)から今の職に就(つ)かれてい、たいていのことはご承知なのです」

石谷組頭としては、田沼老中が先手組頭の横田源太郎松房(よしふさ 42歳 1000石)に命じてつくらせた組頭の平均年齢を割りだす脅迫観念にとりつかれていたらしい。

調べた結果によると、本城の徒組頭15人中の最長老は59歳、最若年は32歳、平均は48歳。30代は3人、40代3人、50代が9人と、
「若こうござる」
わかりきった結論であったが、
「ご苦労でした。ちなみに、西丸の3人の平均は52歳、最長老は61歳、最若年はわれの40歳、あとの一人が50代でござる」
暗記(そらん)じてみせたが、皮肉は通じなかった。

「ご老中にはこの結果を呈上いたしたから、西丸・若年寄の井伊兵部少輔直明 なおあきら 39歳 与板藩主)侯へは、長谷川どのからいまの西丸分を副えて、おとどけくだされ」
「承知つかまつった」

宴がおわり、黒舟でお茶の水道橋下と牛込門下まで送るというと、
「今宵の諸掛りは、3等分し、2口は手前のところへ---」
「承知つかまつった」


神保長孝は、
「若女将は、誰の持ちものですかね?」
「さぁて---じかにお訊きになったら---」
「もし、ご老中に知れたら、左遷ものでしょうな」
「たぶん---」


1_360
2_360
3_360
(神保四郎右衛門長孝の個人譜)

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2011.09.11

老中・田沼主殿頭意次の憂慮(2)

「不作というより、北の国々では飢饉というほうがあたっている」
老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)が、端麗な顔ににあわず、吐いて捨てるようにうめいた。

それぞれの藩がふだんから備蓄米をたくわえておけば、農民の飢餓はいくらかは避けられたはずといいたかったのであろう。

領内の仕置は、それぞれの藩にまかせてきているのである。
幕府は、各藩から税をとりたててはこなかった。

それなのに人というのは勝手なもので、悪いことはお上のせいにしてしまう。

「先手組は、ご府内で騒動がおきた時の備えに、江戸から外へ出すわけにはいかない。代官支配地から鎮撫の要請がきたら、20組ある徒組に出役(しゅつやく)してもらうやもしれない」

意次のこの言葉に、平蔵(へいぞう 40歳)は、
「あっ」
合点がいった。

出役となったとき、合戦ではないのだから鎧兜(よろいかぶと)で出かけるわけではない。
しかし、暴徒は竹槍や棒ぐらいはもっていよう。
こちらも鎖帷子(くさりかたびら)や鎖袴(くさりばかま)着用で防護しなければ、:怪我がふせげまい。

いまの組子で、そんな戦時用の着衣まで手持ちしている者はほとんどいまい。

徒士の70俵5扶持という俸禄には、そういうときの備えの代金も入っていよう。

ちゅうすけ注】70俵を平時の物価に換算すると年70両(1120万円)。
5人扶持は1日に米2升5合---1升100文(もん 4000円として1万円、年365万円)。もちろん、出陣となれば5人の荷物もちを従えろが表向きの扶持であった。

(本丸の徒(かち)1の組の頭・石谷市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)どのと西丸の徒頭で最も若手のわれが呼ばれたのは、出役に備えておけ、ということか)

そうはいっても、いまの西丸は徒組は3組しかのこされていず、平蔵の第4の組のほかは、前にも記したとおり、

第3の組頭 
 沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 55歳 800石)

第5の組頭
 桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)

地方への出役となると、平蔵の組が指名されるのは分かりきっていた。

しかし、わずか3組のために、西丸の若年寄・井伊兵部少輔直明(なおあきら 39歳 与板藩主)を同席させるであろうか?

ちゅうすけの推理は、それから1年後に的を射たが、それはその時までお預けとしておこう。

組へ戻り、30人の徒士たちに、半年のあいだに鎖帷子と鎖袴を手あてしておくようにいいつけ、武具屋へも帷子の下へ縫いつける金網づくりの職人を探すように命じた。

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