山本周五郎さん『栄花物語』
山本周五郎さん『栄花物語』(新潮文庫 1972.9.30)の主人公は、田沼意次だとするのは、文庫の解説者の山田宗睦さんにかぎらない。
文庫の底本になっている『山本周五郎小説全集5』(新潮社 1968.8,30)の解説を書いている土岐雄三さんも、
『栄花物語』は、徳川中期、後に田沼時代と呼ばれた時代の中心人物、老中田沼意次を柱にした長編であるが、これも『樅の木は残った』と同様、所謂伝統的史実を排して、意次を商業資本経済に移行しはじめた当時の先見的執政者として描き、汚職、収賄の権化とまで伝えられた先覚者の孤独さを主題にしている。
小説には、こんなくだりも描かれている。柳営中で、若年寄の継嗣・意知(おきとも)が佐野善左衛門政言(まさこと 30歳代後半? 新番組 500石)に斬りつけられたとの報を知らされた時である。
彼は頭の中で、はっきりとあの足音を聞いた。眼に見ることはできないが、紛れもなく自分に追いついて来る、あの確かな足音を。
足音の主は、政敵・松平定信(さだのぶ 27歳 白河藩主 11万石)である。
ついでに言っておくと、その後、政権をにぎった定信派の手によって抹殺されたのか、捏造されたものは論外としても、意次のちゃんとした史料はほとんどといっていいほど残されていない。
にもかかわらず、山本周五郎さんは、この作品中で、田沼意次の誕生日を享保4年(1719)3月12日としている。
どんな史料に拠ったのだろう?
天明4年(1784)の65回目の誕生日、神田橋内の屋敷に家族一同が集まって、祝いの宴をもよおすが、激しい雷雨があったことにしているから、『武江年表』の記述にあわせたかと推察してみたが、同『年表』にはそのような記載はなかった。
3月24日の意知に加えられた凶事の暗示を、雷鳴に托したかったのかもしれない。
それはともかく、この宴で、山本周五郎さんも小さなミスを冒す。
西尾隠岐守忠移(ただゆき 39歳 遠州・横須賀藩主 3万5000石)と井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 38歳 越後・与板藩主 2万石)に嫁した2人の娘の顔もみせたとあるが、西尾忠移の内室だった意次の三女・千賀は、菩提寺・勝興寺(新宿区須賀町)の霊位簿によると、10年前の安永3年(1774)11月23日に没したことになっている。
2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の墓]
このことは、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴア書房 2007.7.10)も、うっかり筆をすべらせている。
もっとも、 『寛政譜』などには、内室の没年までは記されていないから、誤るほうが当たり前かもしれない。
こういうことは、市井の暇人のほうが、気が利く。
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コメント
『栄花物語』の新潮文庫の第1刷は、上記のように1972.9.30だが、ぼくが持っている講談社版ハード・カヴアー作品集は、あるつまらない事情で、書棚から容易に取り出せない。
それで、文庫を求めた。なんと2006.7.25までの34年間に、52刷! 山周人気は根強い。
しかし、田沼への捏造はなかなかにあらたまらない。
投稿: ちゅうすけ | 2007.11.05 15:28
「城下町相良区史」では、田沼意次の誕生日を享保4年(1719)7月28日としています。機会があれば、著者の川原崎氏に教えていただきます。
投稿: パルシェの枯木 | 2007.11.05 21:22
>パルシェの枯木 さん
川原崎さんは地元・相良の郷土史家ですから、根拠があっての享保4年(1719)7月28日生説だと思います。機会があったら、お元気ないまのうちに、出典を聞きだしておいてくださいますか。
山本周五郎さんのは、小説ですから、ブログに書いたように、意知の刃傷事件の伏線としての3月12日設定でしょう。
投稿: ちゅうすけ | 2007.11.06 05:56