〔橘屋〕のお雪(6)
御厩(おうまや)の渡しは、大川の対岸の石原町の舟着きとを結んでいる。
いまからなら、四ッ目の〔盗人酒屋〕は、看板には、まだ、時間がある---南割下水ぞいに、四ッ目通りへ急いだ。
「銕っつぁん。ここだここだ」
という声の主は、なんと、岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)であった。
隣に、お雪(ゆき 23歳)が寄りそっている。
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が飯台の向かい側に腰をおちつけると、
「まだ、見つりませんのですよ」
お雪が、自分の杯をほしてから、飯台ごしに渡し、なれた手つきで酌をしながら言った。
まわりの耳もあるから、さすがにお勝の名は伏せている。
このあたりの気づかいも、2年ごしの客座敷の商売で身についている。
「毎日、ご足労をかけて、申しわけなくおもっております」
銕三郎も、なぜだか、〔小浪〕でお勝の所在がしれてしまったことは隠した。
【参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)
「ほんと、お雪さんには、文字通りの足労だぞ、銕っつぁん。なにしろ、片道小1里(4kmたらず)を3往復だからな」
「すまぬ。で、見込みはどんなものかな?」
空とぼけた。
うそが下手な左馬之助は、お雪の顔としめしあわせた目くばせのあとで、
「あと、4、5日はかかるかもな」(清長 お雪のイメージ)
「そうか。頼むよ。ところで、左馬さん。録(ろくのすけ 19歳)が、お雪どのが帰ってこないと心配していた。音沙汰だけはしてやったほうがいい」
「それも、そうだな。じつは、3往復目のおわりを、秋葉権現の隣りの料亭〔大七〕あたりにしているもので、あそこからだと、小梅村へ戻るより、押上の春慶寺のほうが近いので、な」
「それでは、明日にでも、お元どのに、お雪どのの下着のたぐいを運ばせよう」
「なん刻(どき)ごろかな?」
「なん刻ならいい?」
「えーと、 午後の2回目の探索から帰ってくるのは---七ッ(午後4時)かな、お雪さん?」
「そうね---長谷川さま。お元さんに洗いものをお願いしていいですか?」
「春慶寺では、洗いものまではむりでしょうからね」
(お元(もと 32歳)こそ、いい面(つら)の皮だ)
銕三郎は、そのおもいも口にはしなかった。
お元は、日本橋室町2丁目の茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんえもん 47歳)が女中に産ませた子・鶴吉(つるきち 7歳)を、小梅村の寮で乳母として育てている。
源右衛門の女房・お才(さい 42歳)は家付きむすめで、鶴吉に家業を継がせることになるのを嫌い、香具師の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)に依頼して襲わせた。
いろいろあって、井関録之助が用心棒として住みついたはいいが、お元とできてしまった。
銕三郎も、そのほうが録之助のためにいいと、みとめてしまっている。
中年増の後家が、男なしですむはずはないし、片や録之助は、貧乏ご家人が妾に産ませた子なので、父親の家には身のおき場所もない。
家禄を継げるはずもない代わりに、身持ちがどうのこうのと小普請与(くみ)頭に言われはしないが、精があまっている若い男のこと、道をふみはずさないともかぎらない。
まあ、両人には適切な解決策であった。
おまさ(12歳)が、新しい酒を運んできた。
「銕兄(にい)さん。お父(と)っつぁんが、薩摩芋の梅干和え、召しあがりますかって---?」
「ちょうど、空きっ腹{だ。急いで頼む。ほかに2、3品---」
「おまさ坊、ことらにも2人前---」
左馬之助が、お雪の意向をたしかめてから、便乗した。
「おまさ坊じゃなく、おまさって呼びなおしてくださったら、ご注文をとおします」
「おまささん、お願いします」
とっさに、お雪が言いなおした。
2人の呼吸は、早くも、ぴったりあっている。(清長 おまさのイメージ)
薩摩芋の梅干和えに、はいっている百合の根が香ばしかった。
お雪が板場へ入り、おまさの父親で亭主の忠助(ちゅうすけ 45がらみ)につくり方を訊いている。
〔橘屋〕へ帰ったときに、板前に教えるつもりらしい。
(なるほど、こう気がまわるのでは、主人の忠兵衛どのも目をかけるわけだ。昼間逢ったのでは、真夜中にゆらゆら歩きをするとは、とてもおもえない)
これまで銕三郎は、お雪のお茶目な面しかみていなかった。
しかし、〔橘屋〕の女中頭のお栄(えい 36歳)から、夜行のことを聞かされ、お雪のまったく別の面をしったのだが、こう気がまわるのでは、嬰児を流したことも精神にこたえたろろ---同情するかたわら、左馬之助の相手としての評価もしていた。
(左馬は、まだ、免許をとっていない。女房などはまだ早かろう)
「左馬さん。お雪どのとは、どうなんだ?」
「どう? ---とは、どういう意味だ?」
「夜のことだが---」
「言ってもいいのか?」
「まあ---」
「だいたい、夜明け近くまで、眠らない」
「う---」
(左馬は勘違いしている。ゆらゆら歩きのことを確かめたのだが、出事(でごと 交合)のことを答えている。ま、抱きあっていれば、ゆらゆら歩きもでまい)
板場から戻ってきたお雪が、
「芋を線切りにしてから湯煮するのがコツなんですって。その芋のいくらかとを裏漉しにしたものと、梅干も裏漉しにして摺り鉢でよく摺るんです」
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