〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(3)
日野宿(ひのしゅく)をすぎるころには、早春の日はすでに暮れていた。
八王子宿・〔油屋〕三郎右衛門方に草鞋を脱いだときには、さすがに、脚がそうとうにくたびれていた。
晩飯に、めずらしく、酒を頼んだ。
給仕にきた、40すぎの色気の失せた女中に、鑓水(やりみず)村は、ここからどれほど離れているか、訊いてみた。
「町田の里とのまん中で、2里(約8km)ほどもありますかねえ」
廊下を通りかかった朋輩に、
「鑓水までは、何里あるかねえ?」
大きな声をかけた。
「しらん。行ったことがない」
そっけなかった。
横になったとき、3年前、井関録之助(ろくのすけ 16歳=当時)に、菊新道の旅籠に逗留していた〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 初代 45,6歳=当時)と〔瀬戸川(せとがわ〕の源七(げんしち 50がらみ=当時)を探らせたときのことをおもだしている。
【参照】2008年5月28日~〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七 (1) (2) (3) (4)
録之助は、岩倉岩之進などという郷士の息子に化けて、〔山城屋〕に宿泊したのであった。
そのからみで、〔狐火〕が向島に囲った妾のお静(しず 18歳=当時)とできてしまった。
お静との情事は、はるかとおい昔のことのように、もやがかかっている。
2人とも、若かった。
若さゆえの無分別な成り行きだった。
(栄泉『ふじのゆき』 お静とのイメージ)
【参照】 2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5)
ことが発覚(ばれ)て、〔狐火〕から、
「お前さんは、武家方のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ。盗人のおれが、こんなことをいうのはおかしいようなものだが、お前さんだからいうのさ。人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だがねえ、女はいけませんよ」(文庫巻6)[狐火]p160 新装版p168
(あれは、こたえたなあ)
そういえば、お静も達者なら、22歳になっている。
(栄泉『江戸錦吾妻文庫』部分 お静のイメージ)
歳月はたつのが早い。
〔狐火〕の子を産んだろうか。
自分の子種がやどっていたかどうか、なんてことは、銕三郎は考えもしない。
そのうちに、酒の酔いと12里(48km)もこなした疲れで、深い眠りに落ちた。
夜半、真っ暗ななかに、気配を感じた。
薄目をあけて、父・宣雄(のぶお 50歳)に教わっていた、暗闇透視の術を使う。
見たいところから、すこし上に視線を飛ばす術である。
【ちゅうすけ注】旧陸軍では、「暗調応」と言い、15°上を見よと教えた。赤外線めがねを開発していた米軍に勝てたはずがなかった。
しのび足で寄ってきた男の手がふとんの下へ伸びた瞬間、その腕を逆手にとって、ねじふせる。
左手の大刀の柄で、曲者の首を押さえた。
「深大寺から尾行(つ)けていたのは、おぬしだな」
低い小声で言う。
曲者は答えない。
ねじあげている腕を膝頭でおさえ、太刀を抜き、伏せている曲者の目の前に刃を向けた。
「見えるか? 見えまい。これから、刀をぶらぶら動かす。おれの目にも見えないから、おぬしの顔のどこを傷つけるか、おれにもわからぬ。もしかすると、鼻を斬り落すやらもしれない。いや、首すじを斬るかもしれぬ。そのときは、あきらめて死んでくれい」
「助けてくだせえ」
悲鳴をあげた。
「深大寺で掏(す)った紙入れをだすか?」
「それは---」
「では、太刀を、動かす」
「紙入れは捨てたからないけど、金は返します」
「よし」
銕三郎は、曲者の帯を抜き、着物ははぎとってから、
「部屋の隅で控えていよ。動いたら斬る」
廊下のはずれの行灯をもって戻ると、男は部屋の隅で、首からさげた袋と下帯一つでふるえている。
20歳にもなっていない若者だった。
「名はなんという?」
「〔からす山〕の寅松(とらまつ)」
「齢は?」
「17」
ばっと、太刀を一閃、寅松の首に下げている袋の紐だけを切った。
寅松の顔の色がなくなった。
「着ろ」
着物と帯を放る。
「おぬし、和泉橋通りの大橋どのの家へ、掏った金を返しに行く度胸はあるか?」
しばらく思案してから、うなずいた。
「よし。では、帰れ」
「あの、おさむれえさんの名を教えてくだせえ」
「なんのために? ここで別かれたら、お互い、他人だ。おれの名前など、必要あるまい」
「大橋さんに金を返しにいったときに、この宿でのことも言わねえと---」
「そうか。おれは、長谷川銕三郎。いまは、火盗改メのお頭・本多紀品(のりただ 54歳 2000石)さまのお手伝いをしておる」
「長谷川てつ三郎さまでやすね?」
「言っても書けまいが、銕三郎の〔銕〕は、金偏に夷(えびす)の〔銕〕だ。宿の者に気づかれないうちに、消えよ」
「それでは---」
「寅松。縁があったら、また逢おう。おれの住まいは、南本所・三ッ目通りだ。困ったことがあったら訪ねてこい。10日後には、江戸へ戻っていよう」
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