お静という女(5)
屋敷を出がけに、母親・妙(たえ 41歳)に呼び止められた。
「殿さまからのお言いつけを伝えます。若いのだから夜遊びもいいけれど、お目見(めみえ)前のことゆえ、くれぐれも深入りをしないようにとのことでした。とりわけ、女の人を助けようなどとうぬぼれるでないと、釘をさしておけと、それは、きつく、おっしゃいました」
「心得ました」
屋敷から1丁の菊川橋のたもとの船宿〔あけぼの〕は、父・平蔵宣雄(のぶお 48歳 先手・弓の8番手・組頭)がたまに使っている。
「高橋(たかばし)で買い物をするあいだ、待ち舟をしてもらい、橋場でも待ち舟し、木母寺(もくぼじ)の舟着きまで、いかほどかな?」
〔あけぼの〕の女将は、銕三郎の顔をおぼえていて、
「長谷川の若さまのことですから、200文(6400円)ぽっきりにおまけしておきましょう。待ち舟賃は、舟頭へのおこころづけいうことにいたしまして---」
高橋で降りて、常盤町3丁目の呉服太物の〔槌屋〕で、ことしの柄の浴衣をみているうちに、男女対(つい)の色ちがいの柄が目にとまった。
(大人げないな)
おもったが、お静が憂い顔をくずして喜びそうだと、つい、求めてしまった。
万年橋をくぐり、橋場へ向かう舟の中で、
(あまいぞ、銕三郎)
自分につぶやく。
(手前=大川 左下=万年橋・小名木川 「霊雲院」の部分
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
(癒(いや)し屋)
という言葉が、口からこぼれた。
そういえば、銕三郎が14歳の時に、三島宿で初穂をもいだお芙沙(ふさ 25歳前後=当時)は、後家になったばかりだったが、亡夫がかなり年長だったので、初めてという少年との出会いを望んでいた。
(歌麿「歌満くら・後家の睦」 芙沙とのイメージ)
18歳の銕三郎の子を宿した阿記(あき 21歳=当時)は、婚家の姑にいじめられたこともあるが、自らが選んだ男との出来合いに満足していた。
(国芳「江戸錦吾妻文庫」 阿記とのイメージ)
お静もきのう、最初の交わりが終わった時、歎声をもらした。
「お金のやりとりなしで、自分の気持ちにしたがった時って、こんなに高まるのですね。ふつうのむすめが好きな男の人とする時の自然な感じは、きっとこうなんでしょう、初めて知りました」
梅雨前の大川の、川面(かわも)すれすれに、燕が反転して飛び去った。
(そういう廻(めぐ)りあわせの男なのかもしれぬ。要するに果報者なのだ、おれは---)
自嘲ではなく、ほのぼのとしたものが胸に満ちた。
「若。橋場です」
船頭が声をかける。
「しばらく、待っていてほしい」
銕三郎は、砂尾不動院前の料亭〔不二楼〕で、ありあわせのものを折箱につめてもらった。
木母寺への舟着きにつけた。
梅若塚のあるこの寺号は、「梅」の字を「木」と「母」にひらいたものと聞いている。
境内に、〔武蔵屋〕と、植木屋半右衛門が料理屋に転じた〔植半〕という有名店があるので、舟でやってくる上客のために桟橋が設けられている。
(木母寺 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)
お静の妾宅は、木母寺の南、水神宮と並んでいる。
50歳をすぎている船頭には、4文銭5枚に15文をそえてわたした。
きのう、お静から用心棒代としてもらった2分(半両)は、元禄二朱金が1枚に減っていた。
「用心棒、参りました」
大声で言うと、
「裏です」
と返ってきた。
裏へまわると、手ぬぐいを姉さんかぶりにしたお静が洗たくをしている。
ゆうべ、銕三郎が寝着に使った浴衣を洗っているらしい。
(歌麿 「洗たく」 お静のイメージ)
(そうなんだ、お静は、母親が病没してからは、魚師の父親のために家事を引き受けていたのだ)
お静の家事のこなしぶりを見るのは、昨夕の食事づくりとともに、すがすがしく、快(こころよ)い。
銕三郎の肌に触れたものということで、小女・お里に触れさせないで、お静が自分の手で洗っているこころ根も感じとれた。
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