カテゴリー「219参考図書」の記事

2009.09.24

『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

_120誘眠剤がわりに、ふと手にとった『現代語訳 翁草(おきなぐさ) 上・下 』(教育社 1980.6.25)に、
(もしかしたら、これに、禁裏賄役人の不正の顛末が---)
とおもい、眠りをやめて調べたが、それらしい気配はない。

翌日、図書館で、吉川弘文館『日本随筆大成』の借用を申し込んだ。
翁草』は全6巻というすごい量だったが、目次を瞥見していくうちに、
「あった」

本文は以下、原文のままあげるが、鳶魚翁のネタ本と断じてもよさそう。
もっとも、『翁草』の著者・神沢貞幹(ていかん)自身が諸書から書き写しており、元本の書名を記していないから、軽々にきめるわけにはいかない。
しかし、内容はすこぶる、近似している。

 禁裏御賄役人処刑

禁裏御賄の儀は御所々々大抵御分量有て御代官小堀数馬方にて、月々の御勘定を仕上る帳面を作り、町奉行へ差出し、町奉行に於て是を算当(サントウ)して相違なければ、其帳面を所司代へ差出し、所司代より関東へ言上有るなり。

然に月々臨時の御物入多く、禁裏御物成(ナリ)銀にては、始終御不足なる故に、余銀を以て御取替被置、其秋の
御収納は、直(スグ)に其冬より、春迄の御賄料となれ共、無程御遣ひ切りと成ゆゑ、また余銀にて御取替に成。

畢竟御取替と申は、名目計にて、御不足の分は足し被進、実は渡り切りなれ共、名目を御取替と唱ふる事なり。
斯る温和(オンクハ)なる御風俗に誇りて、御賄掛りの役人、不廉直多く、先年も余り過分の御物人の節、公儀より少し其御汰有之けるに、結句其翌月猶御人用増ける侭、愁(ナマジイ)に御綺(イロヒ)有ては益御入用累(カサナ)るにより、其後は一向其御さたにも及ばず、是上々に実に御不足ならんは如何せん。

全く左には非ず、役人の私曲重畳して、何方よりも察当なきに乗じて、思ふ優に挙動、讐ば諸の御買上げ物に、二重証文を売人に書せ、若干(ソコハタ)高直(ジキ)の証文を以、御勘定に立る、其身の栄耀歓楽は云べからず。

下司の者迄も十手(ジウシュ)の指す奢超過して、関東に聞え、安永三年京町奉行山村信濃守始て上京の節、台命を奉って罷登られ、所司代土井大炊頭へ奉書を以て御下知有之、御賄頭を始、御賄掛りの者共、悉く召捕れ、夫々揚屋へ入れ、一々糺明せらる処に、一言の申披(ひらき)無之、重立候者共牢内に於て死刑に処せられ、或は流刑に滴せられ、下司の軽きに至迄、追放国中払等に成り、而して関東より御勘定役人余多登り、更に御賄方を勤む。

御賄頭には江戸御勘定御目見の者を被任、其余は支配勘定以下の軽き役人を差登せられ、夫々欠役を勤め、此御吟味掛り、山村信濃守井禁裏御附天野近江守立会、是を頭取て支配し、総て京都御入用事の取極りを相兼、是迄江戸へ相伺ひし小事は、向後京都に於て評定を遂げ執計べしとて、与力同心にも、此掛役人出来、一味吟味相済ぬ。

今般坐せられたる御賄方の名前左記。但科書焼失故爰に略す。

 安永三甲午年八月二十七日

        於牢屋敷死罪
 田 村 肥 後   津 田 能 登  服部左衛門
    存命に候得ば同罪 西 池 主 鈴 吟味中死
        遠 島
 高屋遠江 藤木修理 山本左兵衛 山 口 日向 関 目 貢
        中追放
 渡辺右近 本庄角之丞 世続右兵衛 久保田利兵衛 佐藤友之進
 小 野 内 匠
  其外洛中洛外井江戸構余多、
  死罪の者伜は遠島、十四歳迄親類預け
  遠島の者の伜は中追放、右同断
中にも遠島、高屋遠江は、三味線に長じ、且猿楽の能を善し、度々御能をも勤め、皆人堪能を称しける。
前巻に記せる如く、左こそ島人の賞翫他に異ならめと、思ひやる計なり。


さて、昨日の『幕末の宮廷』とあわせると、この件は、ほとんど経過・結末が見えてしまう。
京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳)がからんだという史料がでてくる気配はきわめて薄い。

残念だが、銕三郎(てつさぶろう 27歳)に事態の収拾を命じなければ---。

ついでに記す。
神沢貞幹は、京都町奉行・与力の家へ養子へ入った。東・西いずれか未詳。病弱を理由にはやばやと奉行所を辞職、『翁草』の執筆に専念。
前編成立の時は、宣雄・銕三郎が入洛した明和9年(1772)、貞幹63歳のときと。

後編の成立は、平蔵宣以が江戸で゛火盗改メの任についていた寛政3年。

        ★     ★     ★
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幕末の宮廷

219参考図書 | | コメント (9)

2009.09.23

『幕末の宮廷』 因幡薬師

_130_2つい最近、発見した史料というのは、下橋敬長『幕末の宮廷』(ワイド版東洋文庫 2007.9.25)である。

じつは、図書館から通常版を借りだして、つぎのくだりを発見し、あわてて、三省堂に問いあわせた。
版元・平凡社にはワイド版の在庫しかないとのことだったので、清水の舞台---やむなく、注文した。

問題のくだり---。

安永の御所騒動は、松原通鳥丸東入町因幡薬師の御堂に、菊の御紋を附けた紫縮緬の幕が張ってあったのを近衛家の家来が不審に思って尋ねたところ、
「朝廷からの御寄進じゃ」
と答えられ、いよいよ不審に思って御主人の関白内前公に伺われたのが発端で、吟味の末、ロ向役人の寄進と判明し、それから段々口向役人の不正矯奢の事実が露顕に及び、とうとう百何人というものが一時に処刑になり、重いのは死刑・流罪、軽いのは追放となって落着を告げた。

これは全く内前公の果断によったので、処刑せられる方では酷くこれを怨み、遠江守などは死刑に臨んで、「誠に心外の至りである、われわれの怨みばかりでもこの後七代近衛家へは関白を遣らぬ」と罵りました。まさかその怨念の為でもありますまいが、内前公の後二代は関白になられず、三代目の忠煕公が関白になられた時、「もう高屋の妄執も晴れたかいなア」と申したようなことです。


これが史実だとすると、女スパイが不正の端緒をつかんだのではなく、公卿(くぎょう)家筆頭の近衛家に近侍していた者が見つけたことから、購入金額の墨入れ(金額加増)が露見したことなる。

諸田さんは、女スパイ・利津(りつ 21歳 初婚)を(高屋)遠江守康昆(こうこん 40歳 再婚・子持ち)に嫁がせ、慈愛の人物のように造形しているが、近衛家への恨み言を読むと、ちょっと違うようにもおもえる。

鳶魚翁と諸田さんは、遠江守を流罪としているが、『幕末の朝廷』は死刑にあげているから、いちがいに信じてはいけないのかもしれないが、露見の端緒はなっとくできるのだが---。

もし、近衛家の家臣が、長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)が西町奉行に在任中に紫縮緬の幕を見つけていたら、手柄は宣雄のものになっており、山村信濃守良旺(たかあきら 46歳=安永3年 500石)はその後、江戸の町奉行の席につけなかったかもしれない。

ことは、鳶魚翁の女スパイものの出典さがしからはじまったのだが、おかしなところに漂着してしまった。
それで、さらに出典さがしがつづいたのだが、その結果は明日。

それよりも、個人的な興味を記す。
ちゅうすけは、幼・少年期を、日本海側の城下町・鳥取ですごした。
それで、一件の端緒となった因幡薬師に関心が湧き、『都名所図会』をあたってみた。

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(因幡堂平等寺 『都名所図会』)

鳥取市を貫通している千代(せんだい)川の河口の津が、賀露(かろ)港である。

長徳3年(997)というから1000年も前の平安時代の中ごろか。
因幡国・賀露津の海面(うみづら)に、夜ごとに光るものがあった。
国司・(たちばな)行平(ゆきひら)卿が漁人に命じて網をひかせたところ、身の丈6尺2寸(186cm)の薬師仏があがった。
7年後の長保(ちょうほう)5年(1004)4月7日に、行平卿の居館の烏丸(からすま)高辻に忽然と飛来してきたという。
4月7日というのが、なんとも憎いではないか。

そこで館を仏閣につくって安置したのがはじまり。
代々の天子の厄年には毎日勅使が薬師詣でをして祈祷を捧げたともいわれている。

で、後桃園天皇の安永3年(1774)は17歳、なにかの厄だったのであろうか。

それを口実に、賄方役人・飯室(いいむろ)左衛門大尉たちが菊花の紋章入りの紫縮緬の幕を奉納、その購入代金を10倍にも水増ししたりしたのであろうか。


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(山村信濃守良旺の個人譜)


ちゅうすけ追記】2009年9月28日の[MIXI の日記]

がん封ジお守り


「赤は安産、青は開運、紫はガン封ジでございます」
お守りの布の色である。
聞いた瞬間、義兄の顔が浮かんだ。
彼は83歳で、手術できない部位に膵臓がんが発見され、余命数ヶ月と宣告されている。

場所は、京都市下京区松原通烏丸東入ル 因幡堂町728
因幡薬師の本堂前。

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解説してくださったのは、大釜住職の夫人(あとで話してわかった)。

もちろん手遅れだし、快癒はすまいが、その日までの義兄の心の支えになればと、500円を献じた。

と、夫人は、そのお守り仏前に供え、鐘をうち、念仏をとなえ、祈願してくださったのちにぼくへ手渡し。

これまで、100ヶ社寺ほどでお守りを請いうけたが、祈念してからわたされたの初めてである。

因幡薬師へ参詣した次第は、

『幕末の宮廷』 因幡薬師
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/09/post-85ec.html

[御所役人に働きかける女スパイ](3)
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/09/3-5be3.html

ブログ 鬼平がらみの取材の1行程。

もし、がん告知をされている近親者やご友人に贈るなら、
祈念料と郵送料こみで1000円も送れば、手配してもらえようか。

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[御所役人に働きかける女スパイ] () () () 

『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

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2009.09.22

[御所役人に働きかける女スパイ] (3)

三田村鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧『敵討の話 幕府のスパイ政治』 1997.4,18)、この史実めいた記述に触発されて創作されたらしい諸田玲子さん『楠の実の熟すまで』(角川書店)から引いている。

鳶魚翁は、徒(かち)目付・中井清太夫(せいだゆう 150俵 5人扶持)と西町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら 45歳=安永2年 500石)が相談の結果、姪(めい)・利津(りつ 21歳)を地下(じげ)官人に嫁がせることにしたと書いているが、詳しい手だては省略している。


スパイの嫁入りによって、捜索を遂行する打合せ万端を済まし、信濃守は委細を所司代土井大炊頭へ上申し、江戸から来ている隠密御用の面々を、帰東させることにした。

中井清太夫は、隠密御用の面々とともに、五十三次の駅路恙なく江戸に帰り、安永三年(1774)の若春を迎えた。女スパイは、清太夫が退京すると間もなく縁談整い、禁裏御賄役人の妻となった。


_130あった事件を伝えるにはこれでもよかろうが、小説となると、そうはいかない。
だから諸田さんは、そこのところを、いろいろ工夫している。


縁談はどうなってしまったのか。進行もせず、詳細も知らされぬまま宙ぶらりんでいるのは蛇の生殺しさながら。利津は毎日のように墓参に出かけ、祖父の墓に向かって、大役を無事、果たせますように……と両手を合わせた。
もしや計画が頓挫したのか。いっそこのまま立ち消えにならぬものか。かすかな願いを抱きはじめた頃、京から商人がやって来た。

「こちらの娘はんのことで、折り入ってご相談がおますのどすけど……」
商人は老舗の骨董屋「かずらや」の番頭で、多兵衛と名乗った。懇意にしている茶の湯の宗匠から利津の話を聞き、知り合いの堂上(どうしょう)家へ問い合わせたところ、京仕込みの娘ならぜひとも取り持ちたい縁談がある、話をつけてきてくれと頼まれた……というのが口上だった。間に入った武家の名はいっさい口にしない。

「娘はいてますけど、京仕込みというほどでは……」
「いえいえ。こちらの娘はんは堂上家の奥に仕えてはったそうで……。いえ、ちょっとかてかめしまへん。これもご縁どっさかい、あんじょうまとめてやると大納言さんが仰せにおます」

縁談の仲立ちを申し出ているのは、武家伝奏(てんそう)を務める広橋家だという。武家伝奏は幕府と朝廷の間を取り持つ重い御役で、主の広橋兼胤は大納言、利津が行儀見習いに上がっていた堂上家より格上である。兼胤は、広橋家の雑掌、つまり実務を行う家臣の一人を利津の仮親とすることで、すでに先方と話をつけているとのことだった。

「なんと言うたかて、相手はお公家はんどす。こないな良縁はめったにおへん」
番頭は値踏みするように家のなかを見まわした。公家が郷士の娘を娶るのは持参金が目当てだ。
広橋家の狙いも過分な謝礼だろう。仲介した商人もおこぼれに与る。


骨董屋の番頭やら、茶道の宗匠やらといった仲立ちの脇役を創作して、楠葉郷から京洛までの筋道を敷いている。小説家も空想力がなければつとまらない。


「そらもう願ってもおまへんけど、娘はこのとおり、茎(とう)が立ってまっさかい……それに、あれこれおましたよって、先方はんのお気に召しますやろか」
待ってましたとばかり飛びつけば怪しまれる。万太郎はまず尻込みをして見せた。

番頭はぐいと身を乗り出す。
「そのことなら心配はいりまへん。先方はんかて事情がおます」
先方は昨年、妻女を亡くしていた。歳は三十二、六つになる男児がいる。子供の養育のためにもできるだけ早く後妻を迎えたいと願っているという。
「先方はんちゅうのはどないな……」


嫁入り先は、昨日記した高屋遠江守康昆(こうこん)となっている。
鳶魚翁はそこまでは書いていない。
ただ、高屋遠江守の名は、処罰者の中にみられる。


牢屋敷に於て死罪、田村肥後守、津田能登守、飯室左衛門大尉、存命に侯へば同罪、
吟味中死、西池生鈴。
遠島、高屋遠江守、藤木修理、山本左兵衛、山口日向守、関目貢。
中追放、渡辺右近、本庄角之丞、世続右兵衛、久保田利兵衛、佐藤友之進、小野内
匠。
其外洛中洛外並江戸構余多。
死罪の者倅は遠島、十四歳迄親類預け。
遠島の者倅は中追放、右同断。


ただ、両書とも、隠密探索の端緒については触れていない。
だから、読み手には釈然としないものが残る。
ところが、腑(ふ)に落ち、膝をたたく資料を見つけた。


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幕末の宮廷

『翁草』 鳶魚翁のネタ本?


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2009.09.21

[御所役人に働きかける女スパイ] (2)

三田村鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧『敵討の話 幕府のスパイ政治』 1997.4,18)から、引用している。

女スパイの嫁入り

内命を受けて赴任する山村信濃守は、一切を胸底に収めて、黙々として着京した。

内命の次第を知っているのは、幕閣からの通達によって、所司代土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主 7万石)ただ一人だけだ。

参考】2009年9月4日[備中守宣雄、着任] (
2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (

山村は同僚の東町奉行酒井丹波守にさえ漏さない。
もとより隠密の御用なのだから、手付きの者にも言わない。組下の与力・同心には、いずれも数代京住の輩ゆえ、いかなる縁故があって、御所役人へ漏洩せぬとも限らぬ。

ちゅうすけ注】このことは、銕三郎の禁じ手の一つでもあったことは、これまでに記した。
探索の要員としては江戸から、前職・目付の下役だった腕利きの徒(かち)目付、小人目付を内々に上京させたという。


そうだから、隠密御用で入洛した連中は、夜陰人静まった頃でなければ山村信濃守のところへ忍んで来ることをしないほどであった。

こうして、着任後の半年を、江戸から隠密御用で来ている人々と共に、懸命な捜索につとめたけれども、何の甲斐もない。さすがに山村信濃守も手段方法に尽き果てて、命令の仕様もなく、隠密方も工夫才覚が断えて、献策する者もなくなってしまった。


ここで、女スバイ案が登場する。
京都と大坂を結ぶ水路の淀川ぞいで、いまは枚方市にとりこまれている楠葉の里の出身の徒目付・中井清太夫の名は、上掲・[小川町の石谷備後守邸] (2)にあげておいた。
鳶魚翁の筆を借りると、


今度上京した御徒目付中井清太夫、この清太夫は河内楠葉の郷士の倅で、親父仁右衛門が利口な当世向きの男だから、如才なくその向々へ取り入って、倅清太夫を御普請役(四十俵五人扶持)に採用してもらった。
微禄にもせよ、河内の在郷から、大名衆にでも抱えられることか、新規お召出しというので、天下様の御家来、御直参にあり付いたのだ。

才覚者の仁右衛門の倅だけに、清太夫も才走った上手もの、身上も富裕だから、賄賂も惜しげなく遣う。
たちまちに御徒目付(百俵五人扶持)に進んだ。御徒目付は骨の折れる役で、その代り働き振りも見せられる。
御用向きが広く、何と限らず勤めて出なければならぬから、この場は御目付支配の中での大役で、励み場といった。


鳶魚翁は、見てきたような書きぶりだが、さて、原典どおりなのか。
その原典がなにだったのかは、不明である。


清太夫も、今度の上京には御勘定(百五十俵、御目付と同等で、この役からお旗本の列に入る)の格式であった。

清太夫の故郷河内の楠葉に、実弟中井万太郎がいる。この万太郎に、当年二十一歳になる娘、美人でもあり怜俐なものであった。

その頃にしては、嫁期を逸していた。

言い分のない女なのに、なぜか縁遠い、その縁遠いのを疵にして、持参金を多く付け、御所役人へ嫁にやる。
公家の諸大夫などという連中は、江戸の御家人と、貧乏は御同様だが、根性の綺麗でないことは比較にならない。

女房喰いは、ほとんど常習になっている。
田舎の物持から来る持参嫁は大喜び、彼等が咽喉を鳴らす代物だ。

清太夫は姪(めい)女に、伯父が一期の浮沈、中井一家の興廃、さては大切な隠密御用の次第を委細に申し含めて縁付ける。

これは女探偵の嫁入り、妻になって夫の悪事を探る。思えば人倫を破壊する運動だ。
差し当って、伯父が姪女を残虐するのだ。


鳶魚翁も、清太夫の案は人道にもとるとは非難しているが、[御所役人に働きかける女スパイ]の初所載は『随筆 江戸の噂』(春陽堂 1926)だから、冗談めかしていうと日本人はまだ『007ロシアから愛をこめて』(1957)の洗礼をうけていなかった。

この事件を小説にした諸田玲子さん『楠の実の熟すまで』(角川書店)は、さすがに女性の目で、いまと゜きの若い読者には愛のない結婚は受け入れられまいと、ヒロインの女スパイ・利津(りつ 21歳)と、入婚相手の御所役人・高屋遠江守康昆(こうこん 40歳)のあいだに、慕情といつくしみのこころをかよわせている。

参照】2009年8月10日[ちゅうすけのひとり言] (36


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幕末の宮廷

『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

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2009.09.20

[御所役人に働きかける女スパイ]

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ここ、1ヶ月ばかり、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、京都西町奉行に任じられた父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)に先行して上洛し、あれこれ策を練っている様子を書いてきたのは、三田村鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧『敵討の話 幕府のスパイ政治』 1997.4,18)に刺激を受けたことによるとは、これまでもたびたび打ち明けた。

それが、ある史料を目にしたために、鳶魚翁の物語が信じられなくなったのである。
もちろん、その史料によって、平蔵宣雄が密名をうけたことも、銕三郎がそのために駆けまわったことも打消しはしない。
ただ、両人には運がついてまわっていなかったとおもうだけである。

参照】2006年7月27日[町奉行 山村信濃守良旺(たかあきら)]
2009年7月11日[佐野与八郎政親] (

まず、↑をくりック。、ちゅうすけの、宣雄への密命拝命説は、かなり以前からのオリジナルなものであることをご納得いただきたい。


これから、1週間ばかりかけて、運がついていなかったことを明かしていきたい。

まず、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ]をかいつまんで引用しながら、理解を深めるために注釈を適宜おぎなっていこう。


山村信濃守の発途

明和七年(1778)、京都の町奉行は、東が酒井丹波守(二条南神泉苑西)、西が太田播磨守(二条城西千本通角)であった。

太田は昨年から仙洞御所(せんとうごしょ)御造営御用を承って、二年越しでようやく御出来になり、その方が御用済みになったので、月番も勤めるようになった。
これで、東西両町奉行ともに、公事訴訟を取り扱う常態に復しましたが、それまでは、二人で負担する京都町奉行を、一人で引き受けていたのですから、勢い手が回らないわけにもなります。

参考】東町奉行・酒井丹波守忠高個人譜
西町奉行・太田播磨守正房個人譜 (補1) (補2

ちゅうすけ注】造営の東洞院(とういん)へおはいりになるのは、明和8年(1771)12月に退位された第117代で最後の女帝となった後桜町天皇であった。
洞院の改修費は、もちろん、幕府の負担である。
この方が皇位におつきになったのは、先皇・桃園天皇が22歳の若さ、在位15年で崩御されたとき。
皇子は5歳と幼なかったので、異母姉で第2皇女(24歳)が後桜町として皇位つかれたのである。
8年間、禁裏をお守りになり、13歳の英仁(ひでひと)弟君・後桃園天皇に譲位され、東洞院へお移りになった。


明けて明和八年(1779)---新帝(後桃園天皇)は、幕府の名代をはじめ、諸大名からの慶賀を受けさせられる。

引き続いて御即位の御式も挙げさせられる中の賑い事の紛れに一年を過し、安永元年(1772)になってしまった。

ちゅうすけ注】安永への改元が、明和9年(1780)11月16日。平蔵宣雄の京・町奉行への発令はその1ヶ月前。
また、銕三郎は、改元を京都で知った。

西の町奉行太田播磨守は、安永元年九月、小普請奉行に転任し、跡役の長谷川備中守は、わずか十箇月勤めて、二年(1773)六月に病死した。

七月になって山村信濃守が就任。

東は酒井丹波守が明和七年(1770)の六月から勤役していたが、安永三年(1774)三月に死去したので、赤井越前守が跡役になった。

ちゅうすけ注】禁裏・地下(じげ)官人の不正の探索は、東の酒井丹波守には知らされていないことになっている。
また、丹波守の歿前に、事件の捜査は終了し、処刑がのこっているだけであった。


山村信濃守は、名を良旺(よしはる 鳶魚のまま 正しくは、たかあきら)といって、信州木曾御関所預、交代寄合山村甚兵衛の分家で五百石、早く御小姓になり、御先手頭から御目付を経て、京都町奉行になった人だ。

山村信濃守が赴任の際に、幕閣は特に内命を授けた。
「近年禁裡御所方御賄入用莫大にして、年々御取替高多く、是全く御所役人共、非分の義有い之と相見え侯得者、其方宜敷相純すべき」旨を命ぜられたのであった。

京都町奉行が、禁裏役人の私曲増長を怪しく眺めながら、三、四年も手をつけずにおいたのを、山村信濃守に機密を授けて、いよいよ宮培の内の罪悪を評発しようとするのだ。

ちゅうきゅう注】天皇家が幕府から与えられている知行は10万石。
うち、7万石ほどを宮家や5摂家、公卿、公家、地下官人たちへ割りふり、禁裏の祭事や生活に使える分は3万石前後である。
物品の購入をつかさどっているのは、業者と接触する口向(くちむけ)役人の賄方と勘使(かんづかい)で、その計算書を代官所が点検、予算を超えた分は、幕府が立替えて払っておき、禁裏へ貸した形をとる。
禁裏は、翌年の3万石から返済をするきまりになっているが、返済額が大きいと、借り越しとしてつけておく。
この借り越しがどんどんふえ、大きくなってきていたので、そこに不正の臭いが濃くなってきていた。
しかし、代官所では、不正の事実を発見できなかった。

もちろん、代官所が点検した計算書は、町奉行所の承認をうける。
山城代官・小堀数馬邦直(くになお 44歳=安永元年 600石)の小堀家は、代々、山城の代官に任命されており、役宅は二条城の西にあった。

参照小堀数馬邦直個人譜

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幕末の宮廷

『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

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2008.11.03

『甲陽軍鑑』(3)

_100甲陽軍鑑(1)にあげた[ちくま学芸文庫]の現代語訳は、内容はすばらしいのだが、残念なのは、本篇[上巻に相当]のみらしいことである。
訳者・佐藤正英さんに、ご苦労ではあるが、つづいて末書([中巻]{下巻]に相当)もお訳しいただくことを望みたい(それには、[上巻]の売れ行き次第であろうから、当ブログにアクセスしてくださっている鬼平ファンの方がたも、注文・購入にご協力していただけると、版元も企画をすすめるであろう---冗談のような、補足を。当ブログにはアフリエイトはついていません。文庫が売れ行きとはまったく無縁です)。

_100_2小和田哲男さん『甲陽軍鑑入門』(角川ソフィア文庫)に、末書[上巻]に「信玄公五ッの御作法」の一部が収録されているので、非才をかえりみずに現代語訳を試みる。

信玄公五ッの御作法は、

1. 天命を晴信(法名・信玄)公は大事になさっていた。
例を記すと、武田の家は、新羅三郎公から晴信まで27代、弓矢をとって誉れのなかったお方はいなかった。さらに27代目の晴信公においては、その武名・勇名は、とりわけ、高くなった。
晴信公は31歳で法体におなりになり、機山・信玄・徳栄軒と、禅知識のように3ッの名をおつけになったわけは、代々久しく武田一門の地獄をおもんぱかられ、天道を大事におおもいになったからである。

2. 国持ちの大将衆と通じあうと、、こちらのお使い衆にその国の絵地図を描かせ、山・川・城のもよう、山の樹木の茂り具合、川の水位のあんばい、瀬の変化の仕よう、道路事情とその難所を土地のものから聞き取って報告させ、熱心に研究なさった(中略)。

_100_3ちゅうすけ注】『孫子』は[地形篇]を設けて、将たるものは地形をよく知り、それぞれの特性に対応した戦術を立て、さらには臨機応変すべきことを説いている。信玄が、絵図を描かせ、山・川の状態を報告させているのは、将たるものの務めであろう。
盗賊のお頭も、押しこみ先の家族や従業者の人数や間取りのほか、取引の動き、退路の確保など、配下の逃避の万全を調べつくしておかないと、手下衆もしたがってこまい。

3..戦陣にあたっては、動員部隊の規模、部隊の編成、合戦の陣形と始め方、退(ひ)くころあい---そういった戦いのすべてを、信玄公は秘密裡にすすめられた。最高軍議で発言できたのは、馬場美濃内藤修理山県三郎兵衛高坂弾正の4人にかぎられていた。
その軍議を傍聴できのは、土屋右衛門尉小山田兵衛尉曽根内匠三枝勘解由左衛門真田喜兵衛の5人にかぎられていた。

ちゅうすけ注】『孫子』は、
「兵者詭道(きどう)也
戦争は、敵をだますことである---と喝破している。古来から「謀(はかりごと)は密なるをもってと尊しとなす」とも、「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)に廻(めぐらす)」ともいうごとく、軍略・作戦は絶対極秘でなければならないし、無情のものでもある。信玄の軍議の参加者がごく少数の重臣中の重臣にかぎられていたのは、むぺなるかなといえよう。
盗(おつとめ)みの計画も同然である。

4.武家に生まれ、武士の道を大事とおもっておられ、忠節・忠功にはげんだ者をそれ相応に賞された。一方で、功のない者には賞はなかった。その扱いの違いは、天と地ほどであった。
大身・小身にかかわらず、功のあった者への賞されようは、他国とはくらべものにないほどおこころがこもっていたから、これを見聞きした者がいずれも、忠節・忠功にはげむような仕組みにこころがけられていたのである。

ちゅうすけ注】〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が、銕三郎(てつさぶろう 23歳)の問い、
「『軍鑑』からなにを学ばれましたか?」
に、即座に、
「一つは、将たるものの器量、一つは、働きに対する褒章の公平。一つは、人の強弱、重軽、信不信の見分け方、一つは、10戦ったら、勝ちは3っでも多すぎる。要は負けないこと」
と応じた、「働きに対する褒章の公平」が、これにあたてるのかも。

参照】[『甲陽軍鑑』 (1)

5.源信玄公は、物頭(ものがしら)を仰せつけた人に、一ッことをいく度もお尋ねになった。つねづね、なんについても、くどいぼと念をいれてお問い質(ただ)しになるのは、お館ではもちろん、ご普請場、あるいは配下の衆の親・兄弟の健康についても、いろいろとご質問になるのが、癖---というのは、それに及ばない者の負け惜しみであろう。
信玄公は、そうなさることで、その者の考えていることを聞きだしておられたのであり、また、親への孝行に意をつくしているかどうかを観じておられたのである。
とりわけ、役付の者---20人衆頭、・中間頭、小人頭までにも、そのようであったが、実は、その人物の知力、実の有無、忠・不忠のこころ、強弱、肌あい---などの各人各様の気質を、ご自分の目でたしかめておられたといえよう。

_100_4(おれは、まだ、おに及ばないところがある---)
銕三郎が、そう感じていたのを、おは観じとり、
(このおのこ(男)は、うまく育てば、とてつもない大器になる、見とどけたいものだ)
下腹のあたりが、熱くなっていた。
男に対して感じた、初めての経験であったから、おは、内心、あわてた。
しかし、表情にはださず、双眸の奥を光らせただけであった。

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2008.11.02

『甲陽軍鑑』(2)

甲陽軍鑑』から学んだことの第一に、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)は、
---将たるものの器量。
をあげた。
たしかに、東海道・六郷の渡しで逢った〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)お頭の器量は、将たるにふさわしい大きさ、肌あいの柔軟さであった---もっとも、そのときは、銕三郎(てつさぶろう 22歳=当時)は、煙草をすすめてくれた小柄な40男が喜之助とはしらなかったのであるが。

参照】[明和4年(1767)の銕三郎] (9)

孫子』にはなんとあったか?
冒頭に、こうある。

将者、智信仁勇厳也。

将たるものは、英智にすぐれ、部下に信頼されており、部下へのおもいやりが篤く、どんな事態にも勇気を忘れず、掟(規律)を守らせる厳しさを備えていなければならない。

蓑火〕のお頭が、言いつけを破った〔伊庭いば)〕の紋蔵 (もんぞう)を放逐したのも当然の処分である。
紋蔵にしたがって膝元を去っていった4人が火盗改メに捕縛されるのを、拱手して冷然と見ていたのも、うなずける。

しかし、〔中畑〕のおを、いくら盟友とはいえ、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)へ譲りわたしたのは、どういう考えからであろう。
は、そのことには答えなかったから、銕三郎もあえて、深追いしなかったが---。

ただ、備前・岡山の浪人あがりの栄五郎(えいごろう 30がらみ)という名がおの口から洩れたことからの推測だが、その浪人の智力と胆力、それに剣の腕を〔蓑火〕が買っているらしい。
殿さま栄五郎〕とまで、尊称されているそうな。
軍者(ぐんしゃ)が3名になったようなものである。
3名はならび立たないと、昔から言われている。

それと、おは、お(かつ 27歳)のことで、珍しくドジをふんだ。
銕三郎がいた渡船場の茶店〔小浪〕で、うっかり、料亭〔平岩〕を推測させる地名を口走ってしまった。
引きこみにはいっていたおの所在を捜していた、銕三郎に〔平岩〕が発覚(バ)れた。
は退(ひ)かざるを得なかった。
は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕もしくじっている。

参照】〔平岩〕の引きこみ失敗---[〔うさぎ人(にん)〕の小浪] (7)
[蓑火(みのひ)のお頭] (8)

は、自分から責(せ)めをとって身を退(ひ)くことを〔蓑火〕へ申し出たのであろう。
蓑火」の喜之助としても、掟ての手前、認めるしかなかった。

の言っていた、

---一つ。働きに対する褒章の公平---と。

〔公平〕ということでは、罰もそうでなければなるまい。
しかし、おの才智をおしんだ蓑火は、盟友〔狐火〕の勇五郎に、預けるような気持ちでゆずったのではなかろうか。

「これからも、逢えますか?」
と訊くと、おは、
「私のほうから、お願いします。〔狐火〕のお頭からも、長谷川さまとの連絡(つなぎ)を絶やさないように、申しつけられております」

は、綾瀬川河口の木母(もくぼ)寺に近い墨田村の、かつておが囲われていた寓居に住むようにいわれたらしい。
は、どこかの料亭に職をえるだろうが、あそこから通える料亭というと、木母寺境内の〔植木屋〕半左衛門---略して〔植半〕か〔武蔵屋〕清五郎であろう。

_300
(木母寺境内の料亭〔植半〕と〔武蔵屋〕)

しかし、〔平岩〕の女将・お(のぶ 45歳)が、すでにしゃべりまくっていると、どことも手びかえるであろう。
(明日にでも、女将に逢って口止めしておかねば。そうだ、ついでに、こんどのお(なか 34歳)の月一の紋日に、連れていってご馳走になることを約しておくかな。近くの隅田川の芦の茂みに舟を入れて、春画のとおりのことをやってみて、おを喜ばしてやるか)

_360
(栄泉『墨田川』 イメージ)

結句、おは、銕三郎の口ぞえで、墨田川際の寺島村から渡しで渡った対岸・橋場の船宿〔水鶏(くいな)屋〕に通うことになった。

参照】[お静という女] ()<

_100ちゅうすけ注】『甲陽軍鑑』にご興味がやお湧きになったら、大和田哲男さん『甲陽軍鑑入門』(角川ソフィア文庫 2006.11.25)をおすすめする。江戸初期から最近までの『甲陽軍鑑』の史料性についての変化、読みどころなどがやさしく説かれていて、さすが---とおもわせる。
大和田さんの長谷川家についての史料を駆使しての考察もすばらしいが、これは、日を改めて紹介しよう。

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2008.11.01

『甲陽軍鑑』

「『甲陽軍鑑』のおさらえ講の講中だったそうですね?」
あいさつを交わしおえたところで、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)がきりだした。

_100(りょう 29歳)は、涼しげな瞳に笑みを添えて、
中畑(なかばたけ)村の庄左衛門さまをお訪ねになったそうですね」
その、深い渕のように澄んだ双眸は、視線を合わせた者のこころを吸いこむようであった。
肌は、青いといえるほどに透き通った白さであった。
(これは、まさに魔性のおんな。男だと腰が引ける。おなごなら、安心してよりかかるであろう)
銕三郎は、視線をそらさなかった。(歌麿 お竜のイメージ)

庄左衛門(しょうざえもん 55歳)は、甲州八代郡(やつしろこおり)、駿州への往還の中道ぞい、中畑村の村長(むらおさ)である。
銕三郎はこの春先に、甲府勤番士・本多作四郎玄刻(はるとき 38歳)の先導で、その村を訪ねた。
の生い立ちと、捨郷した理(ことわ)りを追うためであった。

参照】2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5)  (6)
とくに、(7) (8)

銕三郎は、巨盗の首領・〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳)の手くぱりで、お(りょう)と対面している。
勇五郎は、〔蓑火(みのひ)の喜之助(きのすけ)と浅草・今戸一帯の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう)との紛争の火種が、銕三郎の仲介(なかだち)で片づいたので、おとのつなぎを、〔小浪〕の女将・小浪(こなみ 29歳)にまかせて、上方へ去った。
とうぜん、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 52歳)もしたがった。

小浪は、なんと、対面の場所として、向島・三囲稲荷社の北側の料亭〔平岩〕を指定したのである。

_360
(向島・三囲稲荷北隣の料亭〔平岩〕 尾張屋板)

〔平岩〕には、おの相方・お(かつ 27歳)が座敷女中として引きこみにはいっていたが、銕三郎が、警告したため、〔蓑火きつねび)一味は、押しこみをあきらめ、おを引きあげさせた。

「おどのが、〔蓑火〕一味の軍者(ぐんしゃ)を退(ひ)いて、〔狐火〕のお頭のもとへお移りになるのは?」
それには答えず、おは、
「わたしに、『甲陽軍鑑』についての、どのようなことをお訊きになりたいのでしょう?」
「『軍鑑』には、軒猿(のきざる 忍びの者)たちのことは書かれておりませぬな」
「書き手の高坂弾正(だんじょう 昌信)さまの役目ではなかったからでしょう。あの者たちは、真田安房守昌幸 まさゆき)さまがとりしきっておられましたから---」

「『孫子』には、たしか、[用閒篇(間者の用い方)]がありましたな」
「ありました。機山(きざん 信玄の別の法名)さまもとくとお読みになっておられたとおもいますが、『軍鑑』は、弾正さまがお書きになったものですから---」

参照】2008年10月1日~[『孫子 用間篇』 (1) (2) (3)

_100_2「もとへ戻して、『軍鑑』からなにを学ばれましたか?」
「一つは、将たるものの器量、一つは、働きに対する褒章の公平。一つは、人の強弱、重軽、信不信の見分け方、一つは、10戦ったら、勝ちは3っでも多すぎる。要は負けないこと」
「戦策ではなかったのですか?」
「それは、いつも異なりますゆえ---」
あいかわらず、おの表情は静かなままである。(『甲陽軍鑑』ちくま学芸文庫 佐藤正英・校訂/訳 2006.12.10)

〔平岩〕の女将・お(おのぶ 45歳)があいさつに入ってきた。
長谷川さま。このたびは、たいそう、お気にかけていただいたそうで、危うく難を逃れることができました。お礼の申しあげようもありません」
「え? 拙がなにか---?」
「今戸橋の〔銀波楼〕のお(ちょう 51歳)女将さんから、教えられて、もう、驚くやら、安堵するやら---」
「いや。〔平岩〕どの。お手配なさったは、火盗改メ・本役のお頭・本多采女紀品 のりただ)さまです。お礼はあちらへ---」

「どうぞ、存分にお召しあがりください。せめて、お召しあがりいただくことで、万分の一ほどもお報いできればと---」
女将は、そう言って下がった。
も、つづいて、頭を下げた。
「お(かつ 27歳)が危なかったところを、お救いくださったこと、あらためてお礼を申しあげます」
「いや。それより、おどの。〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳 初代))のお頭を、よくよく助(す)けてあげてください」
銕三郎は、ついつい、口にしてしまつた。
というところを、〔狐火〕に代えたのであった。

参照】2008年10月29日[〔うさぎ人(にん)・小浪(こなみ)] (7)


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2008.10.03

『孫子 用間篇』(3)

銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、なおも『孫子』[用閒篇]にとりつかれている。

凡軍之所欲攻撃、城之所欲攻、人之所欲殺、必先知其守将左右謁者門者舎人之姓名、令吾閒必索知之。

これから攻めようとしている相手の軍隊にしても、攻め落としたい城にしても、暗殺したい重臣にしても、必ず、それらを守っている者や側近たち、謁見を取りしきっている者たち、門番の面々、雑役者などの詳細---姓名を事前に調べ、こちらの間諜によく教えこみ、その者たちの性格---たとえば金銭欲の度合い、女色への強弱、不平不満の有無などを探りだすこと。

ここで、ちゅうすけは、はたと、おもいあたった。
池波さんは、戯曲から小説に転ずるに先だって、『孫子』[用閒篇]を熟読していたにちがいない---と)。

というのは、池波さんに、『鬼平犯科帳』連載の前に、忍者ものの連作がある。

年賦をくってしらべてみると、まず、1960年(昭和35)上半期の直木賞を与えられた『錯乱』(新潮文庫『真田騒動』に収録)がそうだ。
英米スパイ小説だとスリーパーものと呼ばれる系統のもので、探索先に何年も十何年も、いや、2代3代と潜伏していて、ある日突然スパイとして目をさまして活動するという仕組み。

_100池波さんの忍者ものの長篇として、ぼくたちは地方紙に連載された『夜の戦士』(角川文庫)、『週刊新潮』に連載された『忍者丹波大介』(新潮文庫)を記憶している。

_100_2池波さんに忍者もの執筆の刺激をあたえたものとして、親しかった司馬遼太郎さんの、1959年に刊行された『(ふくろう)の城』(新潮文庫)や、同じ1959年に刊行されて忍者ものブームに火をつけた山田風太郎さん『甲賀忍法帖』(講談社文庫)なども見逃せない。

ついでに記しいておくと、短編集『忍者群像』(文春文庫)も、工夫を凝らしたそれぞれの筋書きが、いかにも池波さんらしいし、このあとの『鬼平犯科帳』の白浪ものの原型としても、『孫子』[用閒篇]の応用篇としても読める。

_100_4ただ、ちゅうすけは、最近、『孫子』[用閒篇]を熟読して、池波さんはこれを『鬼平犯科帳』の密偵たちの創作に適用しているようにおもえてならないのである。

それで、造語の達人・池波さんの盗賊用語を集めてみた。
用語が執筆順につくられていった過程を並べて、考察・推理してみるのも、ファンとすれば『鬼平犯科帳』研究の一つの楽しみであろう。

真(まこと)の盗賊のモラル
 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 一、つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
 一、女を手ごめにせぬこと。
           [1-4 浅草・御厩河岸]
仕事(つとめ)   [1-4 浅草・御厩河岸]

狗(いぬ)      [1-1 唖の十蔵]
勘ばたらき     [1-1 唖の十蔵]
手びき       [1-1 唖の十蔵]
急ぎ盗(ばたらき) [1-3 血頭の丹兵衛]
急ぎ仕事      [1-3 血頭の丹兵衛]
お盗(つとめ)    [1-3 血頭の丹兵衛]
かための盃     [1-3 血頭の丹兵衛]
盗賊宿       [1-5 老盗の夢]
盗(つとめ)ざかり  [1-5 老盗の夢]
鼠盗(ねずみばたらき)[1-5 老盗の夢]
遠国盗(おんごくづとめ)[1-5 老盗の夢]
急場の盗(つとめ) [1-5 老盗の夢]
つとめやすみ    [1-5 老盗の夢]
泥棒稼業(しらなみ)[1-5 老盗の夢]
盗(おつとめ)    [1-5 老盗の夢]
盗金(つとめがね) [1-5 老盗の夢]
貸しばたらき     [1-7 座頭と猿]
色事(いろごと)さわぎ[1-5 座頭と猿]

おさめ金(がね)) [2-6 お雪の乳房]

首領(かしら)   [3-2 盗法秘伝]
盗人宿       [3-2 盗法秘伝]
お目あて細見   [3-2 盗法秘伝]
女盗(にょとう)   [3-3 艶婦の毒]

引きこみ      [4-2 五年目の客]
ならび頭(がしら)  [4-7 敵]

支度金(したくがね)[5-2 乞食坊主]
盗金(あがり)    [5-3 女賊]
押し込み      [5-4 おしゃべり源八]
ひとりばたらき    [5-5 兇賊]

狐火札       [6-4 狐火]
連絡(つなぎ)    [6-4 狐火]
蝋型(ろうがた)錠前[6-4 狐火]

隠居金(いんきょがね)[7-2 隠居金七百両]
助(すけ)ばたらき  [7-3 はさみ撃ち]
女だまし       [7-3 はさみ撃ち]
現役(いきばたらき)[7-3 はさみ撃ち]
流れ盗(づと)め  [7-3 はさみ撃ち]
たらしこみ      [7-4 掻堀のおけい]
ききこみ       [7-4 掻堀のおけい]
盗み細工      [7-5 泥鰌の和助始末]

独(ひと)りばたらき[10-1犬神の権三]
盗(つと)めばたらき[10-1犬神の権三]
密偵(てのもの)  [10-1犬神の権三]
こそこそ盗(つと) [10-5むかしなじみ]

嘗役(なめやく)  [12-7二人女房]

ながれづとめ    [14-2尻毛の長右衛門]
固めの盃(さかずき)[14-2尻毛の長右衛門]
口合人(くちあい) [14-2尻毛の長右衛門]

鍵師(かぎし)   [15-1赤い空]
畜生ばたらき    [15-1赤い空]
蝋型(ろうがた)  [15-1赤い空]

盗金(ぬすみがね) [16-1影法師]
嘗帳(なめちょう)  [16-3白根の万左衛門]

ひとり盗(づと)め  [18-2馴馬の三蔵]

引退金(ひきがね) [21-5春の淡雪]
盗(つと)め人(にん)[21-2瓶割り小僧]

これらの用語---「盗(つと)めばたらき」を「忍びばたらき」のごとくに、「盗み」を「忍び」に置きかえ、閒者と共通するものを探してみるのも一興である。

ちゅうすけ注】「忍びばたらき」の一例は、『忍者群像』収録の[<[寝返り寅松]]p86。

ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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2008.10.02

『孫子 用間篇』(2)

竹中先生ッ!」
雪駄(せった)を脱ぐのももどかしげに、銕三郎(てつさぶろう 23歳)が、教場の間へ飛びこんできたのを、読んでいた儒書から目をあげた竹中志斎(しさい 60歳)師が、とがめるように見据えた。
長谷川。騒々しいぞ。なにごとか?」

_360

「先生ッ。解けましたッ! 祝い酒ですッ、やりましょう!」
「落ちつけ。なにが解けたのじゃ?」
「[用間篇]ですッ! 『孫子』ですッ!」
「貸した『孫子』の[虚実篇]は、先日、戻してもらったが---?」
「違うんです。父から借りた[用間篇 第13]です」

志斎師は、銕三郎がどんと畳に置いた徳利を目にとめ、とりあえず、賄(まかな)いの老婆へ声をかけた。
「お種さんよ。酒の肴をつくってしてくれ。するめか小肴の陽干しを焼いたのでいいから---」
酒は志斎師の大好物である。

銕三郎は、自筆の[用間]の解義と、原文を師の文机に並べた。

因閒(いんかん)有り。内閒(ないかん)有り。 反閒(はんかん)有り。 死閒(しかん)有り。 生閒(せいかん)有り。 五閒倶(とも)に起こりて、其の道を知ること莫(な)きは、是(こ)れを神起(じんき)と謂(い)う。人君(じんくん)の葆(たから)なり。生閒とは、反(かえ)り報ずる者なり。因閒とは、其の郷人(きょうじん)に因(よ)りて用うる者なり。内閒とは---(以下略)

こちらは、銕三郎の解義である。

「間者には、5つの用い方がある。
以前からその地に住んでいる者を諜報者として取りこんだ間者を[因j間(いんじゃ)]という。
買収されたり、色仕かけで転んだ相手国の官吏が[内間(ないかん)]である。
相手国の間者に偽のネタをつかませるて逆利用すれば[反間(はんかん)]となる。
亡命を装って相手方へガセネタを売り込んむのを[死間(しかん)]というのは、いずれガセネタと判明されれば殺されるからである。
相手方へ侵入して情報をさぐりとり、無事に戻ってきてつぶさに告げる隠密が[生間(せいかん)]である」

長谷川。このくだりが抜かしてあるが---?」
志斎師が指摘した。

(有因閒 有内閒 有反閒 有死閒 有生閒) 五閒倶起 莫知其道 是謂神起人君の葆也

「間者同士が、お互いをしらないように相隔(へだ)てておけ---という意でございましょう? それはいいのです」
「どうも、長谷川の言っていることは、よう、分からん」
武田信玄公の軒猿(のきざる)たち、乱波(らっぱ)たちの使いようが見えてきたのです」

杯を置い志斎師がしみじみと言った。
長谷川は、自分が好きなことになると目がないからのう。儒学でも、このように熱が入るといいのじゃが---」
「先生。自分が好きなことをすすんでやり、それで伸びるのは、だれにとってもいいことではありませぬか?」
「それはそうじゃが、好きなことばかりやってはいられないのが世の中というものでな」
「先生は、儒学がお好きなのでございましょう?」
「儒学は好きじゃが、お前たちを教えるのが苦痛なのじゃ。はっ、ははは」
「申しわけもございませぬ。はっ、ははは」

いいご機嫌で帰ってきた銕三郎に、母・(たえ 43歳)が告げた。
「納戸町の於紀乃叔母どのから、明日にでも、立ちよってはくれまいか、と---」
「なにごとでございましょう?」
「使いの者は、しらなげでしたよ」
 
部屋へ戻っても、銕三郎がすることは、『孫子』[用間篇]のつづきの解義をつづけるだけであった。

王侯や将軍がもっとも親密にしなければならたいのは間諜である。また、報償ももっとも厚くすべきである。報告もきわめて秘密裡にうけること。
報告をうける側---王侯や将軍は、冷静かつ透徹した分析力をもっていないと、間諜の使い方を誤ろう。
おもいやりがなければ、間諜もその気になって働かない。
報告の中からことの軽重・真虚を選(よ)りわける判断力がなければ間諜を使っている意味がない。
それほどに、間諜の使い方、接し方、統率の仕方はむずかしい。
もし、間諜にすすめさせている秘密事項がほかの者に洩れたら、かかわったものはすべて死罪にして秘密をまもらなければならない。

故三之親、莫親於閒、賞莫厚於閒、事莫密於閒。非聖不能用閒、非仁不能使閒。非微妙不能得閒之実。密哉密哉 母所不用閒也。閒事未発閒、閒与所告者、皆死。

_100
信玄公や右府信長)公は、軒猿(のきざる)や細作(さいさく)たちに厚い恩賞を与えていたろうか?)
(〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)は、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)にどれほどの分け前をわたしているのであろうか?)

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)

ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣などの周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下層の幕臣たちの生きざを示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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