『翁草』 鳶魚翁のネタ本?
誘眠剤がわりに、ふと手にとった『現代語訳 翁草(おきなぐさ) 上・下 』(教育社 1980.6.25)に、
(もしかしたら、これに、禁裏賄役人の不正の顛末が---)
とおもい、眠りをやめて調べたが、それらしい気配はない。
翌日、図書館で、吉川弘文館『日本随筆大成』の借用を申し込んだ。
『翁草』は全6巻というすごい量だったが、目次を瞥見していくうちに、
「あった」
本文は以下、原文のままあげるが、鳶魚翁のネタ本と断じてもよさそう。
もっとも、『翁草』の著者・神沢貞幹(ていかん)自身が諸書から書き写しており、元本の書名を記していないから、軽々にきめるわけにはいかない。
しかし、内容はすこぶる、近似している。
禁裏御賄役人処刑
禁裏御賄の儀は御所々々大抵御分量有て御代官小堀数馬方にて、月々の御勘定を仕上る帳面を作り、町奉行へ差出し、町奉行に於て是を算当(サントウ)して相違なければ、其帳面を所司代へ差出し、所司代より関東へ言上有るなり。
然に月々臨時の御物入多く、禁裏御物成(ナリ)銀にては、始終御不足なる故に、余銀を以て御取替被置、其秋の
御収納は、直(スグ)に其冬より、春迄の御賄料となれ共、無程御遣ひ切りと成ゆゑ、また余銀にて御取替に成。
畢竟御取替と申は、名目計にて、御不足の分は足し被進、実は渡り切りなれ共、名目を御取替と唱ふる事なり。
斯る温和(オンクハ)なる御風俗に誇りて、御賄掛りの役人、不廉直多く、先年も余り過分の御物人の節、公儀より少し其御汰有之けるに、結句其翌月猶御人用増ける侭、愁(ナマジイ)に御綺(イロヒ)有ては益御入用累(カサナ)るにより、其後は一向其御さたにも及ばず、是上々に実に御不足ならんは如何せん。
全く左には非ず、役人の私曲重畳して、何方よりも察当なきに乗じて、思ふ優に挙動、讐ば諸の御買上げ物に、二重証文を売人に書せ、若干(ソコハタ)高直(ジキ)の証文を以、御勘定に立る、其身の栄耀歓楽は云べからず。
下司の者迄も十手(ジウシュ)の指す奢超過して、関東に聞え、安永三年京町奉行山村信濃守始て上京の節、台命を奉って罷登られ、所司代土井大炊頭へ奉書を以て御下知有之、御賄頭を始、御賄掛りの者共、悉く召捕れ、夫々揚屋へ入れ、一々糺明せらる処に、一言の申披(ひらき)無之、重立候者共牢内に於て死刑に処せられ、或は流刑に滴せられ、下司の軽きに至迄、追放国中払等に成り、而して関東より御勘定役人余多登り、更に御賄方を勤む。
御賄頭には江戸御勘定御目見の者を被任、其余は支配勘定以下の軽き役人を差登せられ、夫々欠役を勤め、此御吟味掛り、山村信濃守井禁裏御附天野近江守立会、是を頭取て支配し、総て京都御入用事の取極りを相兼、是迄江戸へ相伺ひし小事は、向後京都に於て評定を遂げ執計べしとて、与力同心にも、此掛役人出来、一味吟味相済ぬ。
今般坐せられたる御賄方の名前左記。但科書焼失故爰に略す。
安永三甲午年八月二十七日
於牢屋敷死罪
田 村 肥 後 津 田 能 登 服部左衛門
存命に候得ば同罪 西 池 主 鈴 吟味中死
遠 島
高屋遠江 藤木修理 山本左兵衛 山 口 日向 関 目 貢
中追放
渡辺右近 本庄角之丞 世続右兵衛 久保田利兵衛 佐藤友之進
小 野 内 匠
其外洛中洛外井江戸構余多、
死罪の者伜は遠島、十四歳迄親類預け
遠島の者の伜は中追放、右同断
中にも遠島、高屋遠江は、三味線に長じ、且猿楽の能を善し、度々御能をも勤め、皆人堪能を称しける。
前巻に記せる如く、左こそ島人の賞翫他に異ならめと、思ひやる計なり。
さて、昨日の『幕末の宮廷』とあわせると、この件は、ほとんど経過・結末が見えてしまう。
京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳)がからんだという史料がでてくる気配はきわめて薄い。
残念だが、銕三郎(てつさぶろう 27歳)に事態の収拾を命じなければ---。
ついでに記す。
神沢貞幹は、京都町奉行・与力の家へ養子へ入った。東・西いずれか未詳。病弱を理由にはやばやと奉行所を辞職、『翁草』の執筆に専念。
前編成立の時は、宣雄・銕三郎が入洛した明和9年(1772)、貞幹63歳のときと。
後編の成立は、平蔵宣以が江戸で゛火盗改メの任についていた寛政3年。
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[命婦(みょうぶ)、越中さん]
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