徳川将軍政治権力の研究(5)
深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかなかった田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)』を引用しながら、推測している。
『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。
宝暦(ほうりゃく)8年(1758)10月7日の項---。
(この1ヶ月前の9月3日、田沼意次は、側衆の身分のまま、評定所の詮議に出座し3奉行の筆頭役である寺社奉行の次に座して諸事を審議し、寺社奉行と同様の資格で発言するよう、将軍・家重から下命されている)。
一 田沼主殿殿江申込と存候処、羽目之間にて吟味役江逢候ニ付中之間ニ扣居、相済候跡へ罷出、此間被仰聞候義因幡守(青山因幡守忠朝 ただとも 寺社奉行 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)・伊賀守(鳥居伊賀守忠孝 ただたか 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)承候処、石徹白一件金森兵部少輔(頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)方ニ而裁許之義長門守(本多長門守忠央 ただなか 当時、寺社奉行 遠州・相良藩主 51歳 1万5000石)へ聞合之節、長門守同役江相談義伊賀守者成程覚罷在候、留ニハ留落シ候哉相不見へ不申候得共、伊賀守宅か河内(井上河内守正賢 まさよし 当時寺社奉行 岩城国平藩主 2万6000石 宝暦6年大坂城代 宝暦8年:34歳)殿宅之内伊賀守宅と覚候寄合ニ而咄シ有之、最初ヲ不存候事故長門守方ニ而存候事候間相談ニも及間敷之処、一通咄候而挨拶申遣候事之由長門守申候と覚罷在候、留ニハ落候故見へ不申候へ共、慥ニ覚罷在候由申聞候、因幡守ハ是も留ニハ落候哉見へ不申候得共、寄合ニ而候哉、
御城ニ而候哉、評定所ニ候哉、何レニも一寸咄ハ有之事様ニ覚候旨申聞候、右之通伊賀守ハ慥ニ覚候趣ニ相聞候、両人共ニ留ニハ落候哉見へ不申由申聞候段申候、左候得者咄も有之事と被存候、其趣ニ候ハハ、弥長門守ハ引分伺候分へ入候而可然候、今日相模守(堀田相模守正亮)殿へも被談候御退出後又々可被申聞候、扨引分候伺書出シも早く出来候様致度ものニ御座候、御用日続キ候共、又者御用日跡ニ而成共、続キ候而寄合も有之、早々上リ候様可然被申候ニ付、随分其心得ニ罷在候、最早下附は出来可申候、相懸りへも可申談旨申候
(江戸城本丸の御用部屋付近図 緑○=羽目の間 青○=中の間
深井雅海さん『図説・江戸城をよむ』原書房 部分)
I氏が添えてくださった<読み下し>文---。
一 田沼主殿どのへ申し込むべくと存じ候処、羽目の間にて吟味役と逢い候に付き中の間に控え居り、相済み候跡へまかり出づ、この間仰せ聞けられ候義因幡守(青山因幡守忠朝 ただとも 寺社奉行)・伊賀守(鳥居伊賀守忠孝 ただたか 寺社奉行)に承り候処、石徹白一件金森兵部少輔(頼錦 よりかね)方にて裁許之義、長門守(本多長門守忠央 ただなか 当時、寺社奉行)へ聞き合わせの節、長門守同役へ相談義伊賀守はなるほど覚え罷りあり候、留(記録)には留め落し(書き漏らし)候や相見え申さず候えども、伊賀守宅か河内(井上河内守正賢 まさよし 当時、寺社奉行 岩城国平藩主 2万6000石 宝暦6年大坂城代 宝暦8年:34歳)どの宅の内、伊賀守宅と覚え候寄合にて咄シこれあり、最初を存ぜず候ことゆえ長門守方にて存じ候こと候間、相談にも及ぶまじきの処、一通り咄候て挨拶申し遣し候ことの由長門守申し候と覚え罷りあり候、留には落ち候ゆえ見え申さず候へども、たしかに覚え罷りあり候由申し聞け候、因幡守はこれも留には落ち候か見え申さず候えども、寄合にて候や、御城にて候や、評定所に候や、いずれにも一寸咄はこれあり事様に覚え候旨申し聞け候、右の通り伊賀守はたしかに覚え候趣に相聞き候、両人ともに留には落ち候や見え申さざる由申し聞け候段申し候、左候えば咄もこれある事と存ぜられ候、その趣に候はば、いよいよ長門守は引き分け伺い候分へ入れ候て然るぺ゛く候、今日相模守(堀田相模守正亮 老中首座)どのへも談ぜられ候て、御退出後またまた申し聞けられるべく候、さて引き分け候伺、書き出しも早く出来(しゅったい)候様致したきものにござ候、御用日続き候とも、又は御用日跡にてなりとも、続き候て寄合もこれあり、早々上リ(たてまつり=提出し)候様然るべくと申され候につき、随分その心得に罷りあり候、もはや下附は出来申すべく候、相懸り(同役)へも申し談ずべき旨申し候。
誤読をおそれず、現代文に置き換える。
田沼主殿頭意次どのへ面会を申しこもうと思っていたところ、城中の羽目の間で手前・阿部伊予守正右は、吟味役に逢ったので、中の間に控えることにした。
御用を終えられた主殿頭どのが見えたので、まかりでて、先日(10月3日 [徳川将軍政治権力の研究(3)])で申しつかった件を報告した。
それは、金森兵部少輔(頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳 奏者番)の領内で起きた、白山中居(ちゅうきょ)神社の神主側と社人側とのいわゆる石徹白訴訟を相談された、当時の寺社奉行・本多長門守忠央(ただなか 遠州・相良藩主 51歳 1万5000石)は、同役の青山因幡守忠朝(ただとも 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)どのと、鳥居伊賀守忠孝(ただたか 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)どのへ事の次第を報告したかどうかを確認するようにとの件である。
この件について、鳥居伊賀守忠孝どのは、記録には書きとめられていないが、自分の屋敷だったか、いまは大坂城代になっている井上河内守正賢(まさよし 当時、寺社奉行 岩城国平藩主 2万6000石 宝暦6年大坂城代 宝暦8年:34歳)どのの邸宅だったか、記憶は定かでないが、そう、自分の屋敷に寄り合った時だったように思うが、話しを聞いたような記憶がある。
あれは、本多長門守どのが受けた相談事であるし、そもそもの事の起こりを承知していなかったから、相談にもおよぶまいということだったような。まあ、一通りの報告でしたな。
いや、記録されていないから、確かなことはいいかねるが、記憶の隅にひっかかっているようなと。
青山因幡守忠朝どのほうも、記録されていないことゆえ、寄り合いでだったか、城中でだったか、評定所でだったか、しかとは憶えていないが、簡単に聞いたような気がするとのこと。
以上のとおりで、鳥居伊賀守どのはたしかに聞いたといっておりますが、両人とも、記録には落ちているといっております。
でありますから、本多長門守は引き分け(中止?)伺い分へ入れてよろしいかと、
その引き分け伺いですが、書き出しも早くできるよういたしたいものです。評定所でのご僉議(せんぎ)の御用日がつづいても、御用日の跡になっても、つづいての寄り合いもありますゆえ、そうそうに提出してしかるべきかと。もう、引き下げはできないでしょう。同役へも、その旨申しておきますと申しのべた。
【不明】「引き分け」と「下附き」の裁判用語の意味不明。小学館『古語大辞典』にも記載がない。
ところで、これまで引用した『御僉議御用掛留』は、国立公文書館内閣文庫蔵「濃州郡上郡一件御僉議御用掛留」によっているが、これを書きとめた寺社奉行・阿部伊予守正右は、徳川の重臣・阿部本家、家康に仕えてから数えて八代目当主---名流の藩主らしく、30歳の若さで奏者者、4年後には寺社奉行兼帯という重用ぶりである。
『御僉議御用掛留』は本人の直筆というより、祐筆の手になるものとおもうが、感情を抑えた事実のみを書き残そうとする態度は立派。もし、直筆とすると、なおのこと立派。
のち、西丸の老中を経て本城の老中へ。
もし、領国・福山の有志の方から、正右侯の人となりでもコメントしていただけるとありがたいのだが。
(『御僉議御用掛留』の引用はあと数日つづく予定)
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