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2007.08.25

徳川将軍政治権力の研究(9)

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかなかった田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、推測している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

宝暦8年(1758)10月10日の項(前回の引用分10月7日から3日後)。

一 相模守(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿御廻り之御入懸ケ可有御逢旨、春阿弥(山本 同朋頭)申聞、御入懸ケ新番所前溜江出候処、(中略)右序ニ御内々伺候、石井丹下(本多伯耆守正珍 ただよし 田中藩主の用人)詰り之処、金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)家来宇都宮東馬(江戸用人)外用事ニ而参候節、領分之義青木次郎九郎(安清 やすきよ 美濃郡代)江頼候義、雑談ニ申候ヲ伯耆守(本多正珍)江咄仕候、其節合之挨拶ハ無之由申候、右之通ニ候得者、通例者相尋候而引合之趣朱書等ニも仕候義ニ御座候得共、此儀者矢張其儘にて書上可申哉、御内々伺候由申上候処、先ツ其通りニ可致候、夫ニ付主殿へも御談候事も有之、今日可被成御談候由被仰候ニ付、右之評議ハ昨日主殿頭も承知ニ候由申上候処、左候ハハ可被御談候、其趣も可被仰哉と被仰候ニ付、左様可被成由申上候、丹下ハ先ツ其通仕置可申哉申上候処、其通可致旨被仰候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 相模守((堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主)どの御廻りの御入り懸けにお逢うあるべき旨、春阿弥(山本 同朋頭)申し聞け、御入り懸ケ新番所前溜へ出で候処、(中略)右序でに御内々に伺い候、石井丹下(本多伯耆守正珍 ただよし 田中藩主の用人)詰まりの処、金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)家来宇都宮東馬(江戸用人)外の用事にて参り候節、領分の義を青木次郎九郎(安清 やすきよ 美濃郡代)へ頼み候義、雑談に申し候を伯耆守(本多正珍)へ咄に仕り候、その節合の挨拶はこれなき由申し候、右の通りに候えば、通例者は相尋ね候て引合之趣朱書等にも仕り候義にござ候えども、この儀はやはりそのままにて書き上げ申すべきや、御内々に伺い候由申し上げ候処、先ずその通りに致すべく候、それにつき主殿へも御談し候こともこれあり、今日御談なさるべく候由仰せられ候につき、右の評議は昨日主殿頭も承知に候由申し上げ候処、左候わば御談なさるべく候、その趣も仰せられらるべきやと仰せられ候につき、左様なさるべき由申し上げ候、丹下は先ずその通仕置申すへきやと申し上げ候処、その通致すぺき旨被せ仰せられ候。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

恒例の行事である、老中首座の堀田相模守正亮 まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)どのの、正午の本丸内のお廻りの、最後のところで逢って話を聞こうとおっしゃっている旨、同朋頭の山本春阿弥(はるあみ)から伝言があった。それで、最終コースの新番所前の溜まりのところでお待ちしていた。(中略)
ついでなので、内々に伺ったこと。
老中を免ぜられた本多伯耆守正珍(まさよし)の用人・石井丹下(たんげ)を詰問したところ、郡上八幡藩主の金森兵部少輔頼錦 よりかね 51歳)家臣で江戸用人・宇都宮東馬(とうま)がほかの用事で来訪したとき、領内の一揆について美濃郡代・青木次郎九郎安清 やすきよ)へ頼んだことを、話のついでに聞いたので、そのことを主人・本多正珍の耳へ入れたと。ただ、宇都宮東馬は、この件についてわが藩主へ特別に頼んだということではなかった。
そういうわけなので、通例ですと、尋問して結果、この儀は引き合い(とりあげない)の旨を朱書きにするところですが、そうはしないで、そのまま書き上げてたほうがよろしいか、内々にお伺いすると申しあげたところ、まず、その通りにするように。
それについてだが、田沼主殿頭意次へも話すこともあるので、今日、話してみると仰せられたので、この評議は、昨日、田沼主殿頭どのもご出席の上で承知なされていると申しあげたところ、それならば、田沼主殿頭からお上へ達するであろうが、その点は聞いているかとお問いかけなので、そうなされるであろうと申しあげた。
で、石井丹下のことは、まず、そのまま書き上げるように仕置きするべきでしょうか、と申しあげたところ、そうしなさいと仰せられた。

この時点で、田中藩主・本多伯耆守正珍は、すでに、老中を罷免されている。
『寛政譜』正珍の個人譜に記されているところでは「御むねに応ぜざるにより」とだけあり、<御旨>の内容はわからない。

『徳川実紀』も、宝暦8年9月2日の条に、

宿老本多伯耆守正珍がはからふ事ども御旨にかなはずとて職ゆるされ。鴈(かりの)間の座班にかへさる。

とあり、「10月28日条参照」と割注されている。で、その日の条。

此日前の宿老本多伯耆守正珍在職の日。金森兵部少輔頼錦が封地の農民等。領主の命令をいなみ。不良のふるまひはつのりしに。頼錦もとより正珍にちなみあれば。内々とひはかりし事ありし時。頼錦が家士等正珍の家士等とひが事どもはからひしをも。正珍聞きながらふかく糾明もせず。同列にもかたらはず。等閑にすて置きしにより。あらぬ浮説さへ出来たり。かれといひこれといひ。重職の身ににげなき事とて逼塞を命ぜらる。
(このあと、若年寄・本多長門守忠央(ただなか)や勘定奉行・大橋近江守親義(ちかよし)などの罪状が記されているが、それは後日に)。

家士同士がやった「ひが事」とはなにかが明記されていない。まあ、推察では、図られたということであろうか。

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