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2007.08.26

徳川将軍政治権力の研究(10)

えんえん、郡上八幡藩の農民一揆にこだわっているのは、理由(わけ)が2つある。
1つは、この事件の評定所での再吟味を示唆した田沼主殿頭意次(おきつぐ)は、その再裁許をめぐって評定所へ出座、これを契機に幕政に発言権を強めていったといわれていること。
長谷川平蔵父子宣雄宣以 のぶため)の才幹を認めて引きたてたのが田沼意次だからである。

もう一つは、その田沼意次の提案になる再裁許で、老中職を免じられた本多伯耆守正珍(まさよし)が領知していた田中城は、長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が今川時代に城主だった因縁による。

その郡上八幡藩の農民一揆の評定所での再吟味の次第を、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、背景を記述している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。
もっとも、『徳川将軍政治権力の研究』 は、題名どおり、側衆たちが将軍の威名を借りて権力をふるっていく視点で考究されており、たとえば、本多伯耆守正珍が、なぜ、失脚しなければならなかったかといった、政治の裏の事情は明かされていない。これは、類推するしかない。

さて、宝暦8年(1758)年10月15日の『御僉議御用掛留』。この日分は2条あり、まず、先頭分。

一 非番箱出候ニ付中之間へ出候処、左衛門尉(酒井左衛門尉忠寄 ただより 老中 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)殿五人江可有御逢旨仰被候由三阿弥(奥山 同朋頭)申聞、溜りへ相模守(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿・左衛門尉殿御出、五人出候処、金森兵部少輔(頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)一件之内、此間書上候内、本多伯耆守(正珍)家来石井丹下吟味書之内、此上尋候而申上義有之候、委細者主殿殿江御談被置候、後刻同人可被申候間可承候、明日寄合も有之候間、被仰聞候旨被仰聞、奉畏候旨申候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 非番箱出で候につき中の間へ出で候処、左衛門尉(酒井左衛門尉忠寄 ただより 老中)どの五人へお逢いあるへき旨仰せられ候由、三阿弥(奥山 同朋頭)申し聞け、溜りへ相模守(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座)どの・左衛門尉どのお出で、五人出で候処、金森兵部少輔(頼錦 よりかね 郡上藩主)一件の内、此の間書上げ候内、本多伯耆守(正珍)家来石井丹下吟味書の内、この上尋ね候て申し上ぐべき義これあり候、委細は主殿どのへ御談じ置かれ候、後刻同人申さるべく候間承るべく候、明日寄合もこれあり候間、仰せ聞けられ候旨仰せ聞けられ、畏まり奉り候旨申し候。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

非番ながら箱出なので中の間へ詰めたところ、老中・酒井左衛門尉忠寄(ただより 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)の伝言を同朋頭の奥山三阿弥(さんあみ)が持ってきた。それで、評定所・五手掛の5人が溜まりの間で、酒井左衛門尉忠寄侯、堀田相模守正亮侯にお逢いした。
用談の向きは、郡上藩主・金森兵部少輔(頼錦 よりかね)にかかわる一件(農民一揆と石徹城 いとしろ)の内でも、(10月10日にうかがってすぐに)先日書き上げた中にある、本多伯耆守(正珍)家来・石井丹下(たんげ)の吟味書について、さらに尋問してご報告するべきことがあれば、委細は田沼主殿頭どのへお話しおきいただけば、のちほど同人から承ります。幸い、明日、寄り合いがありますれば、お仰せの趣は慎重に承りますと、申しあげた。

ここに名の出た、酒井左衛門尉忠寄は、郡上八幡藩の農民たちが、藩相手ではラチがあかないと参府した代表たちの駕籠訴を受領した老中で、この一件の推移には大いに関心をもっていた。

なお、『寛政譜』の個人譜を読むと、領内の農民に慕われていた模様である。その善政ぶりはあらためて調べてみたい。

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