『鬼平犯科帳』のもう一つの効用
小説『鬼平犯科帳』が学術的な面へも功績をもたらした点をひとつあげる。
森山源五郎(300石と廩米100俵)という筆のたった幕臣がいた。長谷川平蔵が死の床にあったとき、火盗改メ代行をもぎとった仁だ。
そう、老中首座・松平定信へとりいり、文字どおり「もぎとった」のだ。
なぜそういえるか、って? せっかく火盗改メになったのに、1年ちょっとで塩入大三郎(100石と廩米100俵)にその役をもっていかれたときの大仰な残念がりようでわかる。
罷免された経緯を手をまわして調べあげ、老中の戸田侯(美濃大垣藩主。10万石)の存在をつきとめた。侯は館林藩主の五男で、大垣藩へ養子に入った人。
そこで森山のいい分……塩入は母親が館林藩の重職・松倉某のむすめだった縁をたくみに利用し、松倉から戸田侯へ働きかけて成果をえたというのだ。
自著『蜑(あま)の燒藻(たくも)』で、塩入大三郎を気が強いだけの総身に知恵がまわりかねる大男で無芸無学とこきおろす。
この部分だけ読むと、塩入というのは森山が書いているとおりの仁かな、とつい思いこむし、事実、これまで幾人もの学者が『蜑の燒藻』を珍重・引用してきた。
前任者の平蔵についても、火盗改メ在職8年のあいだに「さまざまの計りごとをめぐらした」と非難。
『鬼平犯科帳』ほかで平蔵の人柄と立派な業績をすでに知ってしまっているぼくたちとしたら、森山には自分の意にそまない者はバカとかよこしまなこころの持ち主とこきおろす習癖があるとしか考えられない。
『蜑の燒藻』で口ぎたなく罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけられている人たちについても、はたして森山のいうとおりの人物だったか、疑ってかかったほうがいい。
小説『鬼平犯科帳』が学術的にも貢献したとするのは、森山の記述内容、とりわけ人物評価の真偽をめぐり、平蔵がリトマス試験紙の役割を果たしたからだ。
人物論は立場立場で毀誉褒貶(きよほうへん)がわかれるのはいたしかたがないとはいうものの、森山のように自分だけが清廉潔白の士であるかのように主張するのはいかにもあざとい。
そういえば森山が火盗改メに任命されたのだって、和歌の縁を通じて定信に働きかけたからで、他人のコネ活用をとやかくいえた義理ではないはず。だいたい森山は人の長所を認めることができないようだ。先手組頭―中間管理職としてこれでは下がついていくまい。部下は長所を見てやってこそ慕ってくる。
和歌の縁といったのは、森山は冷泉家の門人で、中秋の名月の夜に定信が催す観月の歌詠みの会に、小禄の幕臣ではひとりだけ参加させてもらっているからだ。
平蔵に短歌づくりの素養がないからといって、それとは無関係の火盗改メの仕事ぶりにまで批判の矢を向けるのは見当ちがいもはなはだしい、というもの。
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