カテゴリー「199[鬼平クラス]リポート」の記事

2011.11.01

平蔵の先祖の城址ウーキング

いささか遅れ気味だが、先月2日の午後に静岡[鬼平クラス]が行った、長谷川平蔵の先祖が城郭屋敷としていた小川(こがわ)城址を訪ねてのウォーキング報告。

長谷川家のそもそもが藤原鎌足であるのは周知のこと。
寛政重修l諸家譜』も「藤原氏 秀郷流」とある。

静岡[鬼平クラス]の中林正隆さんによる系統図では、

藤原鎌足--8代--藤原秀郷(ひでさと)--5代孫--
-下川辺四郎政義(下野国)--小川次郎左衛門政平-

秀郷は大百足退治の俵藤太(たわらのとうた)の別名でも知られている。
秀郷稲荷を都下の府中市でみつけたことはすでに報じた。

参照】2011年4月1日[長谷川家と林叟院] (

また、下川辺家あたりまでの系図は、ハンドル名「居眠り隠居」さんからも報告がされている。

参照】2011年3月31日[長谷川家と林叟院] (

政平--大膳亮長教(大和・初瀬→駿河・小川)--5代孫--
-長谷川(小川)藤兵衛長重(今川家臣・塩買坂で戦死)-政宣(法栄長者)

参照】2011年3月31日[長谷川家と林叟院] (


クラスは、JR焼津駅からバスで小川西下車。
地元在住のクラスメイトの大久保典子さんの先導で熊野神社へ。
この社は、小川城主であった長谷川元長が大永6年(1526)紀伊にのがれ、熊野三社を勧請して帰り、社殿を造営して奉斎以来この神を産土神とした。

参照】2008723[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] () 

10分ばかり歩いて小川城址。

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(発掘調査されたあと宅地として分譲され、中心部は遊歩道。城址)


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(説明板を読む)


クラスの村越一彦さんからコピーをいただいた『焼津市史研究』(第2号 2000.年3月 焼津市)に掲載された大塚 勲さんの講演記録「北条早雲と長谷川氏」から引用すれと、

法永長者といえば小川に「長者屋敷跡というのがありましたが、これが法永長者の館跡とされています。
明治のはじめに作成された地籍図には「城ノ内」と記された一区画が堀で囲まれていた様子がうかがえます。
そこでこの地籍図をもとに昭和54年(1979)から断続的に発掘調査が行われました。
その結果「城ノ内」は南北140m、東西90mの方形敷地で、敷地は堀で区切られた2つの曲輪で構成されていて、周囲の堀は幅15~16m、深さは浅いところは1m、深いところでは2.6,mであったことがわかりました。

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(小川城址 前掲誌)


この「小川城 発掘報告書」(焼津市 2003)に、

長者屋敷 小川の西北にあり、三ヶ名(さんがみょう)不動院の前、田中の古土囲あり、長谷川次郎左衛門尉正宣の屋敷跡なり。

これを真にうけ、不動院探しで大いに迷った経緯は、以前に記し、誤謬をクラスの安池欣一さんが正してくださったことも報告した。

参照】2011年4月17日[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪2011年5月15日[長谷川豊栄長者の屋敷跡

このブログは、多く方々のご援助でつづけられているようなものだ。感謝。


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(三ヶ名の不動院の沙弥壇)

今回の再訪では、SBS学苑の片野さんのご尽力で本堂まであげてもらうことができた。

つづいて、小川城の出土品を展示拝観のために、焼津市歴史民族資料館を訪れ、片山学芸員から明時代の窯のものとおもわれる皿や容器の説明などを聴いた。
豊栄長者が海外との交易によっても富をきずいていたことが発掘・展示品からも裏付けられたといえそう。

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(小川城址から発掘された磁器類 上掲『小川城』より)

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(焼津市歴史民族資料館で片山学芸員から解説を受ける)


ウォーキングは1万歩に近かった。

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2011.08.19

銕三郎が盗賊をつくった?

8月7日(日曜日)午後のJR静岡駅ビル・SBS学苑パルシェでの[鬼平クラス]の報告。

テキストは聖典の文庫巻16[霜夜(しもよ)]。
クラスの市川さんからお借りしたビデオのタイトルは[うんぷてんぷ]。

ストーリーは少し変わってい、高杉道場の同門で、剣技には見どころがあった池田又四郎(17,8歳)が、突然、行方しれずになったが、20t数年ぶりに見つけてみると、盗賊の一味にくわわっていた。

又四郎銕三郎(てつさぶろう 23,4歳 のちの平蔵)の前から姿を消したのは、銕三郎が義母・波津(はつ)を殺害する決心をし、又四郎長谷川家の養子となって家名をつぐようにたのんだところ、断ったばかりか、「それはいけませぬ」と制止した。

それで、銕三郎は義母殺害の計画はあきらめ、又四郎によそよそしくしたのを、銕三郎に性的なあこがれをもっていた又四郎は見放された受けとり、悲観・出奔したのであった。

銕三郎が義母の殺害を企んだのは、嫡子である自分を廃嫡し、縁続きの永倉家からなまくらな亀三郎を養子にむかえようとしたから---という設定。

いく度も断っているように、史実と小説は別ジャンルのものである。
小説は、作家の想像力、創作力の産物である。

しかし、鬼平---長谷川平蔵は実在した人物である。
しかも、徳川幕府きっての火盗改メであった。

池波さんも、その史実をしって創作意欲をもやし、代表作の一つとしてシリーズを書きつないだ。
もちろん、いまのような人気をえたには、中村吉右衛門さんをえた映像化チームの功績も大きい。

史実は、もうすこし調べられてもよかった。
池波さんに言っているのではなく、池波さんの取材を補助した人がいればそのリサーチャー、連載をもらった編集部の池波さん担当だった人、いまさらながら---『寛政重修諸家譜』を確認するくらいのことはしてほしかった。

あるいは、長谷川平蔵家の菩提寺である戒行寺の過去帳---;霊位簿も調べに行ってほしかった---なんて、ぼく自身もじかに見てないから、大きなことはいえない。

じつは、戒行寺に記念碑を実現した一人---釣 洋一さんからデータをいただいた。

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(釣 洋一氏による戒行寺長谷川家の霊位簿の一部。赤○=波津)


寛延3年(1750)7月15日歿 とある。
銕三郎は延享3年(1746)の生まれだから、5歳のときに死別したことになる。

参照】2006年5月18日[長生きさせられた波津
2007年4月20日[寛政重修諸家譜] (16

ということは、永倉家からの養子うんぬんもありえないばかりか、『寛政譜』には、亀三郎に該当する人物がいない。

だから、廃嫡もなければ、養子の話もありえない。

ただし、小説での池田又三郎の出奔の原因は別につくれば、ストーリーはほとんどそのままに生かせよう。
霜夜]の主題の一つは、妻の妹とできてしまい、その妹が盗賊の世界から足を洗って生きているのを助けるために、自分が属していた〔須の浦(すのうら)〕の徳松(とくまつ)一味を殺害するところにある。

交わったおんなを救うために斬り死にするのも、美しい、共感をよぶ死に方であろう。

これとは別に、池波さんがこのストーリーを組みたてるのに、『江戸名所図会』を巧みに使っているのを、下の3点をながめながら、聖典を読かえしていただきたい。

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湊稲荷 塗り絵師:ちゅうすけ)


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寒橋(明石橋) 塗り絵師:ちゅうすけ)


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砂村元八幡宮 塗り絵師:ちゅうすけ)


池田又四郎にまず斬って棄てられる盗賊一味の2人の素性のリサーチ---
〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛(くへえ)

〔栗原(くりはら)〕の常吉(つねきち)


参照】2008年7月13日[池田又四郎(またしろう)]


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2011.07.17

元盗賊〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛

まる2週前の3日(日曜日)、恒例・静岡の[鬼平クラス]は、文庫巻16[見張りの糸]がテキストであった。

梗概(あらすじ)はあらためて記すまでもないとおもうが、東海道の出口、芝田町6丁目、三田八幡宮の鳥居脇の茶店〔大黒屋〕が、盗賊〔むじな)〕の豊蔵(とよぞう すでに歿)の弟で、〔稲荷いなり)〕の金太郎(きんたろう 50がらみ)の盗人宿の一つであることをつきとめ、彦十が手柄をたてた。

さっそくに、その見張り所として、向いの仏具店〔和泉屋〕の2階が借りられた。

この〔和泉屋〕は店名が示すとおり、上方の出身で、15年ほど前に江戸へきて、いまの店を開いた。
主人は忠兵衛(ちゅうべえ 70歳近い)、息子は源四郎(げんしろう 40歳すぎ)とその女房お(ゆみ)、使用人は太助(たすけ 40代半ば)---だが、素性は上方から中国筋へかけて盗(つとめ)ていた〔堂ヶ原どうがはら)〕一味であった。

そのことを鬼平へ告げたのは、かつて鬼平の亡父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が京都西町奉行だったときに与力として支えた浦部源四郎で、その後、〔堂ヶ原〕一味にはさんざん煮え湯をまされていたという設定。

この物語は、『鬼平半科帳』の連載が『オール讀物』で始まってから9年半、101話目にあたる(長編の各章を1話と計算して)。
それだけに、レギュラー、準レギュラーの与力、同心、密偵たちのディテールは記述する必要がないほど読み手がこころえてい、その分、物語はテンポよくすすめられ、400字詰原稿用紙で100枚にもおよぼうかという中篇になっている。

---が、この篇でちゅうすけがこだわったのは、見張り所を火盗改メに用立て、しかも盗みから15年も前に足を洗っていた忠兵衛親子を、結末で処刑の場へ送ったらしい点。

盗みから密偵に転じた者は、〔相模(さがみ)〕彦十、〔小房こぶさ)〕の粂八(くめはち)、伊三次いさじ)、おまさ、〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう)、〔関宿せきやど)の利八(りはち [山吹屋お勝])、 〔帯川(おびかわ)〕の源助(げんすけ [穴])、〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛(もへえ [穴])など40人にものぼる。

ほかにも、老齢でゆるされているのが〔浜崎はまざき)〕の友五郎(ともごろう [大川の隠居])、 〔猿皮さるかわ)]の小兵衛(こへえ [はさみ撃ち])など。

法の適用にあたって「一事両様」ぶりで江戸町人の喝采をえていたのが火盗改メ長官(おかしら)・長谷川平蔵なのだから、〔和泉屋〕の店主こと〔堂ヶ原〕の忠兵衛の処置になにぶんの手ごころが加えられてもよかったと感じたのである。

参照】2011年3月28日[ちゅうすけのひとり言] (68

そのついでに、江戸時代の時効の制度に目をむけた。
開いたのはいつかも紹介した、福永英男さんの労作私家版[『御定書(おさだめがき)百箇条を読む](2001)である。

福永さんにはあとで了解らとりつけめとして、やさくし解説してあるから、主要箇所をを引用してみよう。


第18条 旧悪(きゅうあく)御仕置の事

旧悪」=現在の公訴時効に近い制度。一定の期間経過によって、もはや真犯人であることが判明しても司直から訴追されない。これを「旧悪になる」といった。現在の公訴時効は次のとおり(刑事訴訟法)。

 第250条〔公訴時効期間〕時効は、左の期間を経過することによって完成する。
   1 死刑にあたる罪については15年
   2 無期の懲役又は禁偏にあたる罪については10年
   3 長期10年以上の懲役又は禁鋼にあたる罪については7年
   4 長期10年未満の懲役又は禁偏にあたる罪については5年
   5 長期5年未満の懲役若しくは禁鋼又は罰金にあたる罪については3年
   6 拘留又は科料にあたる罪については1年


江戸時代のそれは、意外に短くて12ヶ月とされていた。1年といわず12ヶ月といったわけは、閏(うるう)月が入る年があるからで、実質は今の1年より短い場合が多い。

12ヶ月経過した犯罪以「旧悪」となって通常は訴追しない。
しかし、次に列記する犯罪は凶悪とみなしてその恩典外にする。

逆に、12ヶ月月で公訴時効とならない罪については、打ち切りにする期間は何も規定されていない。
永久に続く(実際は犯人死亡の時まで)。

当時はたいていの犯罪は、12ヶ月以内で捜査の見切りをつけることにしていた。
それ以上長引かせてもあまり効果がないと考えていたのであろう。


1 (追加・延享元年(1744)極)
一、逆罪の者

(寛保3年(1743)極)
一、邪曲にて人を殺し候者

(寛保2年(1742)極)
 一、火附

(同)
 一、徒党致し人家へ押し込み候者

(寛保2年・延享元年極)
追剥(おいはぎ)並びに人家へ忍び入り盗人

(追加・延享元年極)
 一、すべて公儀の御法度(はっと)に背き死罪以上の科に行わるべき者
 但し、役儀に付きて私欲(にて)押領致し候者は、軽く候とも相応の咎めこれあるべき事。

(追加・寛保3年極)
 一、悪事これあり、永尋ね申し付け置き候者

(延享元年極)
右は旧悪に候とも御仕置伺い申すべく候。このほかの科(で)、一旦悪事致し候ともその後相止め候よしこれを申し、もっともほかの沙汰もこれなきにおいては、十二か月以上の旧悪は咎に及ばざる事。
但し、十二か月内より吟味(に)取りかかり、十二か月以後吟味済み候とも旧悪には相立てざる事。


著者の注解のつづき

邪曲にて人を殺し…」=けんかでの傷害致死などは含まれない。私欲にかられての計画的殺人をいう。

盗みでも侵入盗、強盗は凶悪視し、旧悪の恩典を除外している。

棹尾の但し書は、12ヶ月以内に端緒を得て捜査に入ったが結審の時点では12ヶ月を超えていた場合
に旧悪の恩典はない旨を念のため規定したもの。けだし当然のこと。


堂ヶ原〕の忠兵衛は、盗(つとめ)のときに女犯・殺傷した者を、一味の掟てを破ったとして私刑で刺殺しているから、犯さず、殺さず、貧しきからは盗まずの正統派であったらしいことが書かれている。

にもかかわらず、鬼平が御定書とおりの処置をとったのは、23年前の京都での[艶婦の毒]に描かれた女盗・おとの一件に義理立てしたのであろうか。

ちゅうすけ注】このクラスで、市川恭行さんのお手配で、初めて[見張りの糸]のDVDを鑑賞した。

テレビは文庫に収録順に放送されていないから、観る側は[艶婦の毒]での浦部与力のことなど覚えていまい。
その役は井関録之助にふられていた。
映像化の脚本家も、〔堂ヶ原忠兵衛に同情したらしく、処刑をしていなかった。

舞台は三田八幡の前ではなく本所相生町。相生町といえば、五郎蔵おまさ宗平の住いがあるが、登場したのはおまさのみ。

近くの両国橋ぞいにある駒留橋ぎわの超高級料亭〔万八〕が登場するのはいいが、下足番もいないような出入自由の安っぽい店に格落ちしていたのはいただけない。

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2011.06.13

[火つけ船頭(巻16)]注解(2)

JR静岡駅ビル・パルシェ7Fでの〔鬼平クラス〕のリポートのつづき。
先だって5日のテキストが文庫巻16[火つけ船頭]であったことは、昨日の当コンテンツに記した。

じつは、この篇は、ぼくにとって、慙愧に耐えない篇である。

そう、25年ほど前のこと。
池波さん、落合恵子さんなどと、「読売新聞映画広告賞」の審査員を10数年つづけていた。
映画広告が掲載された30ページ近くが毎月送られてき、その中から候補作品を選んで返送、年に一度、全審査員---といっても5名が集まり、最終選考をした。
池波さんとも親しく口をきくようになっていたから、6,7回めあたりだったとおもうが、審査前の雑談のとき、
「火盗改メの鬼平は、火つけ犯も逮捕するのでしょうが、火事の場面は[火つけ船頭]くらいですね」
心易だてに、うっかり、いってしまった。

池波さんは、立腹もしないで、
「ぼくは、火事がきらいでね。火事の描写って、むずかしいんだよ」
それきり、黙ってしまわれた。

それから1年もたたないうちに、まるであてつけるかのように書かれたのが、文庫巻22[炎の色]であった。
もし、亡くなられないで未完[誘拐]が書き継がれていたら、〔荒神こうじん)〕のお夏(なつ 26前後)は江戸のどこかに放火をさせていたであろうし、火事さわぎの描写も真にせまった筆づかいでなされたろう。

それで、〔鬼平クラス〕の[火つけ船頭]の講義日、小林清親画伯の『東京名所図』(学研)から火事の絵を3点、カラーコピーして披露した。
というのは、子どものときから絵を描くことが好きであった池波少年に、母方の祖父が、
「小林清親に弟子入りを頼んでやるから---」
約束し、池波少年もすっかりその気になっていたと、エッセイにあるからであった。
もし、[誘拐]が書きつがれていたら、火事の描写の参考にされたにちがいない。

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(小林清親画『東京名所図』 [浜町より写両国大火])


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(同上 [両国大火浅草橋])


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(同上 久松町で見る火事)


そう確信しているのは、細部の描写もおろそかにしない池波さんの気質をしっているからである。

A_150_2火つけ船頭]に添い、その気質を証明した。

火つけ船頭・常吉が南伝馬町1丁目南鞘町の畳表問屋〔近江屋〕の裏側の塀に放火した。


なにぶんにも、外塀が燃えだしたのだから発見も早く、また、消火もしやすかった。
町火消しりニ番組の内、〔せ組〕の鳶(とび)の者が駆けつけて来るし、〔ろ組〕も〔も組}も出動するというわけで、さいわい近江屋の火事は内部を侵(おか)すこともなく、身辺に燃えひろがることもなく、消しとめねことができた。
(p168 新装版p174)


鬼平のころの町火消町内組合Fは、2番組---、
せ組  炭町、南槙町、南大工町、大鋸町、
     五郎兵衛町、281人
ろ組  元大工町、左内町、下槙町、上槙町、254人
も組  南紺屋町、銀座町、三十間堀、丸屋町、数寄屋町、
     西紺屋町、103人

ほんの1行分でしかない瑣末の調べも、おろそかにしていない。
(右図::町火消しニ番組の纏 上から、ろ組、せ組、も組)

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( 町火消しの出張り 『風俗画報』明治31年12月25日号)


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2011.06.12

[火つけ船頭(巻16)]注解

先週の6月5日(第1日曜日)の午後は、JR静岡駅ビネルのパルシェ7FにあるSBS学苑の[鬼平クラス]の日であった。

もう6年もつづいているのでテキストは、文庫16巻[火つけ船頭]まですすんできた。

当日の[火つけ船頭]は、盗賊の追捕(ついぶ)の物語りである『犯科帳』のなかでも、いささか風がわりな要素が濃い。

というのは、原鉱用紙80数枚の1話の中に、当時は犯罪と見られていた所業が4種類も描かれているからである。

は、〔岡本(おかもと)〕の源七(げんしち 45,6歳)一味による日本橋南鞘町の畳表問屋〔近江屋〕六兵衛方での、おもいもよらない未遂盗奪事件(草加宿に本拠をおき、かずかずの犯行をかさねてきていることはいうまでもない)。

は、〔関本〕一味に手を貸した浪人・西村虎次郎(とらじろう 30がら)が同じ長屋の船頭・常吉(つねきち 29歳)の女房との密通。

は、西村虎次郎がこれまでにやってきた20:件の辻斬り。

は、船頭・常吉がおこなった放火。

鬼平のころの犯罪は、「公事(くじ)方御定書(おさだめがき)」によって裁かれた。

ところが「公事方御定書」は秘密あつかいで、3奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)以上の幕閣でないと見ることができなかったらしいが、それは表向きで、奉行所内はおろか、しもじもでも、「10両盗めば首がとぶ(斬首の死罪)、有夫の女房(妾も含む)との密通は、男女ともに死罪で、密通現場で夫に刺し殺されても不問としっていた。

放火犯は、裁かれれば火刑(火あぶり)であった。

辻斬りは? 
もちろん、死罪。

それらの「公事方御定書」の条文を、畏友・福永英男さんの労作・私家版[『御定書百箇条』を読む](2001.12.16)を引いて注解した。

じつは、、「公事方御定書」を収録した『禁令考』はかねてから所持したいたはずだが、今度の震災による書斎の倒壊で所在がいまだにしれないので、福永さんの名著から抜粋・コピーして配布した。


第五六条 盗人ぬすっと)御仕置の事

(従前々の例)
②一、人を殺し盗み致し候者 引き廻しのうえ獄門。
(享保七年極)
③一、盗みに入り刃物にて人におっけ候者 盗物(を)持主へ取り返し候とも、獄門。
(追加・従前々の例)
 但し、忍び入りにてこれなく候とも、盗み致すべしと存じ、人に疵つけ候者 死罪。
(享保七年極)
④一、盗みに入り、刃物にてこれなきほかの品にて人に疵つけ候者 右同断 死罪。
(従前々の例)
⑤一、盗み致すべしと徒党致し、人家へ押し込み候者 頭取 獄門。同類 死罪。
    (以下、略)


従前々の例)は「まえまえから例」と訓じる。

おまさ などがやった引きこみは、


(従前々の例)
⑦一、盗人の手引致し候者 死罪。



第四八条 密通御仕置の事


(従前々の例)
①一、密通致し候妻 死罪。

(同)
 一、密通の男    死罪。 


この条文通りだと、[火つけ船頭]の船頭・常吉の女房・おときは、遠島ではなく死罪にならなければいけない。

もっとも、現今の世情だと、妻の不倫はさほどに珍しくもなく、離婚ていどですますことが多いようであるから、池波さんも遠島ですましたのかもしれない。



第七一条 人殺し並びに疵(きず)付け御仕置の事

 一、辻切り致し候者 引き廻しのうえ死罪。



第七〇条 火附(ひつけ)御仕置の事

(従前々の例)
①一、火を附け候者 火罪。
(寛保二年極)
②一、人に頼まれ火を附け候者 死罪。     ゛
(従前々の例)
 但し、頼み候者 火罪。
(享保八年極)
③一、物取りにて火附け候者引き廻しの儀 日本橋、両国橋、四谷御門外、赤坂御門外、昌平橋
 外
 右の分引き廻し候節、人数多少によらず、科書きの捨札建て置き申すべく候。もっとも、火を附け候所、居所(の)町中引き廻しのうえ火罪申し付くべき事。
 但し、捨札三十日建て置き申すべく候。
      (以下、略)


公事方御定書」は、八代将軍・吉宗の命によって整備されたことをつけ加えておく。

さらに余計なひと言。
百三条をその気になって読んでいると、江戸の市井ものの3篇や5篇はすに構成てきそうな気がしてくるから妙だ。

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2011.05.22

三嶋宿の本陣ウォーキング

いささか遅れぎみではあるが、静岡のSBS学苑の[鬼平クラス]が5月14日(土)におこなったバス&ウォーキングによる三島宿本陣および箱根関所めぐりのうち、三島本陣の部をリポートする。

このウォーキングの狙いは、明和9年(1772)秋に、銕三郎(てつさぶろう 27歳=当時)の父・備中守宣雄(のぶお 54歳=当時)が火盗改メ時代に、目黒行人坂の大火の放火を:検挙(あげ)るという大手柄をたて、その報償のような形で京都西町奉行という要職に任じられた。

参照】2006年6月1日[目黒・行人坂の火事] 

京都町奉行への発令は明和9年10月15日で、赴任の許しがでたのは丸1ヶ月後の11月15日であったことは、すでに『徳川実記』から引いている。

このブログでは、銕三郎が御所役人の不正内偵の密命をうけ、宣雄に先行して上京したことにしたが、史実の記録はない。

久栄(ひさえ 20歳=当時)と辰蔵(たつぞう 3歳=当時)が宣雄に同行したことは間違いない。

赴任の道中は幕府要職としての威信を誇示しろとの方針であったから、一行は三島宿では本陣〔樋口〕伝左衛門方に宿泊したろうと見る。

というのは、11月下旬というのは、参勤の諸大名の参府・下府はほとんどないからであった。

大熊嘉邦さん『東海道宿駅とその本陣の研究』(日本資料刊行会 11979.07.30)によると、東海道を上下していた藩は、

2月  6家
3月  3家
4月 52家
5月  3家
6月 41家

という。
52家や41家だと、三島の本陣に宿泊できたのは、その半分の藩であったかもしれない。

とにかく、宣雄と嫁・久栄は、小田原城下の本陣からのつぎは三島宿の〔樋口〕であったろう。

Photo前掲書によると、

Photo_2

樋口伝右衛門  建坪 238坪
世古六太夫       279.5坪

東海道と下田街道が交差する西北側に〔世古〕本陣、西南角に〔樋口〕本陣が向いあっていた。

鬼平〕クラスの面々は、それぞれ石碑をカメラにおさめながら、いまはかけらも残さずに寸断された敷地から、往時におもいをはせた。

このブログにアクセスしているメンバーは、、14歳の銕三郎をはじめて男にしてやったお芙沙(ふさ 25歳=当時)がその後女将になおった姿とか、女賊に落ちたお賀茂(かも 26,7歳)を連想してくれたであろうか。

参照】2007716[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年11月15日~[与詩(よし)を迎えに] (26) (30
2009年1月10日[http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/01/30_61f7.html] (
 
2007年3月17日〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (10

参加者へ配った、大熊さんの労作にあった{樋口}の間取り図を、こころ覚えまでに掲げておく。

Photo_3
(本陣〔樋口〕の間取り図 『東海道宿駅とその本陣の研究』)


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2011.04.11

テキスト[網虫のお吉](2)

昨日につづき、4月3日の[鬼平クラス]のリポート。

テキスト文庫巻16[網虫のお吉]を下調べしていて浮かんだ疑問1.は、本所四ッ目に呉服問屋?であった。
疑問2は、火盗改メの与力・同心の欠員補充

網虫のお吉]では、黒澤勝之助(かつのすけ 40歳)が、情状酌量の余地なし、と役宅の庭で切腹を申しつかった。
当然の処置である。
読者も納得する。

で、疑問はそのあとのこと。

先手・弓の第2の組で、火盗改メを命じられている長谷川組の与力は10騎、同心は30人である。

黒澤同心が切腹すると、1人、欠員が生じる。
彼の息子は、後継をみとめられなかった。
補充しなければならないが、他組から引きぬくわけにはいかない。

本所あたりに屋敷をあてがわれている下級のご家人---30俵2人扶持級の者の中から選抜することになろう。
同心は、難なく埋められよう。

与力だと、どうか。
先手組の与力の家禄は、200石格で実質80石であるらしい。
希望者は山ほどいよう。

ところで、先手組の与力の数だが、長谷川組が10騎だから、ほかの組もそんなものだろうと思いこんできた。

で、確認のために、地震で散乱したままの書斎の本の群れから、ようやく、『大日本近世史料 柳営補任 3』(東京大学出版会 1964.03.25)を探しだして確認して、愕然!

与力が10騎の組は半分もなかった。

弓組第1の組(堀 帯刀秀隆が組頭のときがあった)
与力 10人
同心 30人

第2の組(贄 壱岐守正寿や長谷川平蔵宣以が組頭)
与力 10人
同心 30人


第3の組
与力  6人
同心 30人

第4の組
与力 10人
同心 30人

第5組
与力  5人
同心 30人

第6の組
与力 10人
同心 30人

第7の組(平蔵の本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直が組頭)
与力 10人
同心 30人

第8の組(平蔵の亡父・宣雄が組頭)
与力  5人
同心 30人

第9組
与力 10人
同心 30人

第10の組
与力 10人
同心 30人



鉄砲
(つつ)組

第1の組
与力 10人
同心 50人

第2の組
与力  6人
同心 30人

第3の組
与力 10人
同心 50人

第4の組
与力  5人
同心 30人

第5の組
与力 10人
同心 30人


第6の組
与力  7人
同心 30人

第7の組
与力 10人
同心 30人

第8の組
与力  5人
同心 30人

第9の組
与力  7人
同心 30人

第10の組
与力  7人
同心 30人

第11の組
与力  6人
同心 30人

第12の組
与力  6人
同心 30人


第13の組
与力  6人
同心 30人

第14の組
与力  6人
同心 30人

第15の組
与力  6人
同心 30人

第16の組(本多采女紀品、堀 帯刀、佐野豊前守政親)
与力 10人
同心 50人

第17の組(小野次郎右衛門忠吉が組頭)
与力  5人
同心 30人

第18の組
与力  5人
同心 30人

第19の組
与力  5人
同心 30人

第20の組
与力  5人
同心 30人


西丸
第1の組(森山源五郎孝盛が組頭であった)
与力  6人
同心 30人

第2の組
与力  7人
同心 50人

第3の組
与力 10人
同心 30人

第4の組
与力  5人
同心 30人


さて、与力の移動・補充である。

徳川幕府でのいろんな部署での与力は禄高にかかわらず、お目見(めみえ)以下の身分であったようで、『寛政譜』で確かめることが困難である。
柳営補任』にも名簿が記載されていない。
したがって移動の記録も目にできかねる。

そんな状況下での推察だが、長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手組頭となり、火盗改メ・助役(『鬼平犯科帳』では本役扱い)を命じられたときに、堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳=天明7年)の組から、筆頭与力・佐嶋忠介を借りたとなっているが、そういう史実があるのであろうか。

長谷川平蔵が組頭に就任した先手・弓の第2の組は、平蔵の就任以前の50年間をみた場合、34組の先手組の中で、火盗改メの経験月数がもっても多い(通算144ヶ月)組であった。
ましてや、平蔵の着任の4年前まで(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)という逸材が火盗改メ・本役として5年6ヶ月(39歳~44歳)の長期間、組下を鍛えあげ、そのほとんどが残留していた。

そんな利(き)け者ぞろいのところへ、他組から筆頭与力を招くということがあるであろうか。
佐嶋忠介の能力をどうこういっているのではなく、新組頭としての鬼平の配慮を気にしているのである。

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2011.04.10

テキスト[網虫のお吉]

久しぶりの[鬼平クラス]リポート。

クラスは、唯一のこしているJR静岡駅ビル7階で月1(原則 第1日曜日午後1時~)SBS学苑。
4月3日のテキスト、文庫巻16[網虫のお吉]。

粗筋(あらすじ)はわざわざ紹介するまでもなく、鬼平ファンなら、ああ、あの女賊の話と了解されよう。
そう、〔苅野(かりの〕の九平(くへえ 60歳近い)一味にいた〔網虫あみむし)〕のお(きち 35歳)が、日本橋橘町3丁目の琴師の歌村清三郎(せいざぶろうに見初(そ)められ、後妻に入っていた。

ところが偶然に、その所在を火盗改メ・長谷川組の同心の黒沢勝之助(かつのすけ 40歳)にしられてしまう。

の人相書は3年前に火盗改メによってつくられていたのであった。
3年前に次の押し込み先を下見していたおを見かけたのは、かつて〔苅野〕一味の盗(おつとめ)みに2度ばかりかかわったことで見知っていた密偵・おまさであった。

黒沢同心は、おをゆすったばかりか、その女躰まで奪っていた。
いきさつをここで書くまでもない。

ちゅうすけが小首をかしげたのは、3年前、おまさに見かけられたおがさぐっていたのが、本所・四ッ目の呉服問屋〔丁字屋〕四郎太郎方---
これであった。

もっとも高級な業種の一つである呉服問屋が、場末に近い四ッ目とは、信じがたかった。

現代でこそ密集した住宅がたてこんでいるが、江戸時代の本所・四ッ目といえば、まあ、下町の場末に近いといっていいほどの場所であった。

本所と深川のあいだを東西に縦断している竪川(たてかわ)に架かっていた橋も、四ッ目までであった。
その先は渡し舟。
鬼平ファンなら、おまさの父親・〔たづがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50歳近い)>が〔盗人酒屋(ぬすっとさかや)〕などという物騒な店名の飲み屋を開いていたのも四ッ目橋近くであったことからして、想像がつこうというもの。

仕入れにも不便なそんなところに呉服問屋が---と疑念が湧いた。

で、『江戸買物独案内』をくってみた。

そもそも『鬼平犯科帳』は、池波さんが史料『江戸買物独案内』を所有していたからこそ、書き続けられた物語、ともいえないこともない。
ほかの江戸もの作家には、『江戸名所図会』と『切絵図』が座右にあれば足りる。
しかし『鬼平犯科帳』には、盗賊が押し入る商店が必要である。
しかも、狙いがつけられるほど富裕な商店が---。

江戸買物独案内』は、長谷川平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の歿後30年ほど経った文政8年(1824)に刊行された、問屋・店舗の名刺広告を業種別に集めた名鑑だが、鬼平の時代と、店の配置にそれほどの変貌はなかったろう。


「呉服」の項の末尾、本所四ッ目に呉服太物問屋はあった。
ただし、屋号は〔萬屋〕。
とはいえ、その隣枠に〔丁字屋〕もあった。
実際にあった商店の、町名なり店主の名前なりを入れ替えるのは、池波さんの常套の心得でもあった。


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(『江戸買物独案内』 呉服太物問屋の項ー)

盗人に押し入られる小説である。
もし、子孫が残っていて、
「縁起でもない」
苦情をもちこまれては面倒---との配慮であったろう。

池波さんも、『江戸買物独案内』をめくっていて、
(へえ、こんなところに呉服問屋が---)
不思議におもって利用したのかもしれない。

編集者が指摘したら、
「いや。実際にあったのだよ」
ちょっと得意げに---いや、さりげなく、応じようとおもって仕掛けたのかも。

ついでだが、後妻にむかえ、骨がないみたいにしなるおの躰にぞっこんであった琴師・歌村清三郎が修行した師・歌村七郎右衛門つながりとおぼしい店が、京都の『商人買物独案内』の琴三味線処の項に---


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(『商人買物独案内』 琴三味線問屋の項)

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2010.08.03

[白蝮{しろまむし}]あるいは[はぐれ鳥]

2010年8月1日のSBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル内)[鬼平クラス]のテキストは、文庫巻12[白蝮(しろまむし)]であった。

クラスは講義の1時間半につづき、映像鑑賞。
ところが、ビデオ・テープの手持ちがなかったので、ともに学んでいる市川恭行さんにDVDを依頼した。

映像版は、タイトルが[はぐれ鳥]に変わっていた。
白蝮]は、この篇のヒロインである津山薫こと、森初子を象徴したものであるが、いまの若い世代は「まむし」蛇なんか見たこともないとの判断であったのか、あるいは彼女を世間からはぐれた存在とみたのか、そのあたりは、不明。

聖典では、物語は谷中の私娼街いろは茶屋〔近江屋〕からはじまる。

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〔いろは茶屋〕。遠景は五重塔(『歳点譜』を彩色 塗り絵師:ちゅうすけ)

18歳の売れない妓とたわむれるのは辰蔵(たつぞう)だが、映像版では、巻2[いろは茶屋]での遊客であった同心・木村忠吾に代えられていた。 

参照】2007年3月4日[兎忠の好みの女性

ま、そのあたりは、物語の進展にはあまり影響しない。

聖典のクライマックスは、松尾喜兵衛師のもとでほとんど勝てたことのない澤田小平次が、森初子を斃すシーンのはずだが、小平次役の真田健一郎さんの体調が殺陣(たて)を許されないほどに悪化していたのか、原作にない人物がピンチヒッターとして書き加えられていた。

ま、それも万やむをえなかったろう。

決闘は、指ヶ谷(さしがや)に近い白山権現(現・文京区白山5-31)の山門前あたりでおこなわれた。

405_360
(白山権現 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

池波さんは、この絵に感興を刺激され、印判師でもある初子を指ヶ谷に住まわせたにちがいない。

ところで小平次初子がともに究めたことになっている小野派一刀流だか、綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大辞典』(新人物往来社)によると、

_150 小野次郎右衛門忠明(別名 神子上
 (みこがみ)典膳)の子、小野次郎右衛
 門忠常以降を小野派一刀流という。
 御子神(寛永系図)と書くのは誤りで、
 神子上(寛政呈譜)が正しい。
 勢州出身(武芸小伝)、信州出身(増
 補英雄美談)という説も正しくない。
 大和の十市氏の後裔で、上総国夷隅
 (いすみ)郡丸山町神子上の地に来て
 郷士となるも、やがて里見家に仕えた。
 (中略)
 伊藤一刀斉の推挙で徳川家康に仕え、
 嗣子秀忠の師範となっている。

む? 十市---かすかに記憶がある。
信長が本能寺で自死し、そのことを堺からの帰路で聞いた家康の一行が、急遽、伊賀越えを決心して駿府へ帰るとき、最初に懐柔したのが十市氏ではなかったか。

参照】2007年6月18日~[本多平八郎忠勝の機転] () () () () () (

ま、そういう古い話は措(お)こう。
長谷川平蔵と小野家とのかかわりである。
高杉銀平師も一刀流であった---などという小説の中のはなしではなく、史実である。

上に名がでた次郎右衛門忠常から四代後裔の次郎右衛門忠喜(ただよし 54歳=天明6年 800石)は、長谷川平蔵宣以(のぶため 41歳=天明6年)が先手組弓の2組頭へ栄進したとき、彼は先手鉄砲(つつ)の17組の組頭であった。

次郎右衛門忠喜が先手組頭に任じられたのは、天明3年(1783)だから、この職は平蔵より3年先任になる。

そのとき、辰蔵は18歳、市ヶ谷・左内坂上の念流・坪井主水の道場で8年も稽古しているから小野派へ変わるわけにはいくまいが、平蔵自身は、一刀流だから、次郎右衛門忠喜と剣の道の奥深さについて談義しているやもしれない。


Photo
(小野次郎右衛門忠喜の個人譜)


        ★     ★     ★

雑話】新聞によると、墜落ヘリの現場取材に行った日本テレビの記者とカメラマン溺死体が発見されたのは、秩父市大滝。
秩父市大滝には〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵がらみで取材にいったことがある。
地蔵橋でガイドと別れて山へ入っていって遭難したと報じられている。

大滝〕←クリック

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2010.05.10

盗人(つとめにん)の生地をめぐる駿・遠の旅

6年このかたつづいているSBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル)の[鬼平クラス]の5月8日(土)のウォーキンクは、マイクロ・バスによると遠出で、駿河国と遠州国を縦横に走るツァーであった。

いま、池波正太郎さん歿後20周年というので、各出版社やマスコミがいろんな企画を実らせている。
しかし、企画は似たりよったり---とりわけ20年だからという企画は少ないようにみえた。

それなら、こちらは、これまで誰も試みたことのない、盗人(つとめにん)の生誕地をめぐり---ということは、池波さんの取材ぶりを追体験する---旅の第1弾といこう!

第1弾は、33人の盗人を産んだ県下33ヶ所のうち、とりあえず、8ヶ所8人を。


100508_300


朝9時、静岡駅南口スルガ銀行前出発ということで、ちゅうすけは東京駅発06:56の〔こだま〕に。
GW直後の早朝なので、さすがに乗客はまばら。

新富士駅近くで仰ぎ見る霊峰も日本晴れ。

_360_2

幸先き、よし!

最初の下車スポットは、徳川軍と武田軍が激闘をくりかえした高天神城跡。

Photo

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(高天神城復元図)

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(健脚組は本丸まで登山。頂上に天神社があるから高天神)


文庫巻11に収録の、とぼけた秀作[]のサブ・キャラは〔馬伏まぶせ)〕の茂兵衛

遠江国山名郡浅羽村馬伏塚(現・袋井市浅羽)
地元では〔まむし〕と読んでいる。

一望、堀を埋め立てた田の中の小高い丘の上からは、「遠州灘まで見渡せるから見はらし台として貴重な砦だったのだ」と、グルーブの中の軍師格のつぶせやき。
丘地の高みの諏訪神社は、武田軍が勧請としたものか?

_360_6

礼拝。

横須賀市へ向かう途中、左手はるか向こう、〔彦島ひこじま)〕の彦兵衛の生地をのぞむ。
文庫巻12[二人女房] 遠江国山名郡彦島村(現・袋井市祖彦島)

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(厚手の袋入り。手前=抹茶羊羹)

横須賀で、予約しておいた銘菓〔愛宕下羊羹〕ひきとる。小豆羊羹と抹茶羊羹。
強すぎない甘みがほんのりと口中にのこり、余韻がたおやか。さすが銘品。
〒437-1301 掛川市横須賀1515-1
   ㈲愛宕下羊羹
    ℡&Fax 0537-48-2296

見付市での昼食は、旧東海道筋の蕎麦処〔三友屋〕。
女将が『剣客商売』のファンらしいが、こちらは、文庫巻2[盗法指南]で、鬼平に盗みてつだわせた〔伊砂いすが)〕の善八が忍びこんだ、その奥に多門寺がある多門小路(たもんこうじ)の酒造所〔枡屋〕がお目当てである。

蕎麦処〔三友屋〕から1丁もいかない南側の歩道Iに銘板が埋め込まれていた。

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(八木忠由さん撮影)

大満足。


一路、天竜の船明(ふなぎら)ダムをめざす。
そこは、文庫11[男色一本饂飩]の〔船明ふなぎら)〕の鳥平と、巻11[二人女房]の〔天竜てんりゅう)〕の岩五郎の生地である。

このあいだまでの天竜市は、大・浜松市のうち。
遠江国豊田郡天竜村は浜松市天竜・鹿島
船明はダムの名として有名だが、豊田郡船明村は、現・浜松市船明。

この船明ダムの中ほどにに架けられているが伊砂橋。
伊砂部落は200戸あるかどうか。

_360_9

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(〔鬼平クラス〕のほとんどは駿河国地方に在住だから、船明ダムを目にするのは初めてと、大喜び)

二股城跡へ登る。勝頼軍も攻めあぐねたとおり、かなり堅城で、本丸の位置まて登るのはかなりきつい。
が、みんな、がんばった。

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文庫巻3[駿州・宇津谷峠]の〔二股(ふたまた)〕の音五郎を書くとき、池波さんは、この城で切腹させられた家康の嫡男・信康のことをおもっただろうか。
いたましい事件であった。

三方ヶ原へ戻った。
本乗寺(浜松市三方原町687)では、住職の山本恵達師が出迎えてくださった。

当寺へ安置された、三方ヶ原合戦での戦死者の霊を鎮魂する石碑に線香と花を捧げた。
鬼平こと、長谷川平蔵の祖---紀伊守正長(37歳)と弟・藤九郎(19歳)がここで戦死しているからでもある。

精鎮塚は、維新後、禄を失った幕臣300家が、人が住んでいなかった三方ヶ原を開墾に入ったとき、見つかった石碑を大乗寺が引きとって祀った。
というのも、初代の住職・青島師の夫人が、長谷川家の娘であったからと。

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(全員、用意の線香を1本ずつ回向)

そのあと、本堂で焼香し、師の講和を拝聴。
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帰りの東名で、駿州豊田のあたりで左手を遠望---文庫巻6の〔狐火〕に登場している〔岡津(おかつ)〕の与平の生誕地、岡津をすぎた。

長い1日は終わり、いつものように懇親会食は静岡へ帰って。

このような、盗人'(つとめにん)を生誕地をめく゜るツァーは、長く鬼平クラスをつづけたが、この日が初めてであった。

早くから準備をととのえてくださった、クラスの安池欣一さん、村越一彦さん、事務局の片野さんに感謝。

 


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