平蔵の先祖の城址ウーキング
いささか遅れ気味だが、先月2日の午後に静岡[鬼平クラス]が行った、長谷川平蔵の先祖が城郭屋敷としていた小川(こがわ)城址を訪ねてのウォーキング報告。
長谷川家のそもそもが藤原鎌足であるのは周知のこと。
『寛政重修l諸家譜』も「藤原氏 秀郷流」とある。
静岡[鬼平クラス]の中林正隆さんによる系統図では、
藤原鎌足--8代--藤原秀郷(ひでさと)--5代孫--
-下川辺四郎政義(下野国)--小川次郎左衛門政平-
秀郷は大百足退治の俵藤太(たわらのとうた)の別名でも知られている。
秀郷稲荷を都下の府中市でみつけたことはすでに報じた。
【参照】2011年4月1日[長谷川家と林叟院] (3)
また、下川辺家あたりまでの系図は、ハンドル名「居眠り隠居」さんからも報告がされている。
【参照】2011年3月31日[長谷川家と林叟院] (2)
政平--大膳亮長教(大和・初瀬→駿河・小川)--5代孫--
-長谷川(小川)藤兵衛長重(今川家臣・塩買坂で戦死)-政宣(法栄長者)
【参照】2011年3月31日[長谷川家と林叟院] (1)
クラスは、JR焼津駅からバスで小川西下車。
地元在住のクラスメイトの大久保典子さんの先導で熊野神社へ。
この社は、小川城主であった長谷川元長が大永6年(1526)紀伊にのがれ、熊野三社を勧請して帰り、社殿を造営して奉斎以来この神を産土神とした。
【参照】2008723[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (7)
10分ばかり歩いて小川城址。
(発掘調査されたあと宅地として分譲され、中心部は遊歩道。城址)
(説明板を読む)
クラスの村越一彦さんからコピーをいただいた『焼津市史研究』(第2号 2000.年3月 焼津市)に掲載された大塚 勲さんの講演記録「北条早雲と長谷川氏」から引用すれと、
法永長者といえば小川に「長者屋敷跡というのがありましたが、これが法永長者の館跡とされています。
明治のはじめに作成された地籍図には「城ノ内」と記された一区画が堀で囲まれていた様子がうかがえます。
そこでこの地籍図をもとに昭和54年(1979)から断続的に発掘調査が行われました。
その結果「城ノ内」は南北140m、東西90mの方形敷地で、敷地は堀で区切られた2つの曲輪で構成されていて、周囲の堀は幅15~16m、深さは浅いところは1m、深いところでは2.6,mであったことがわかりました。
(小川城址 前掲誌)
この「小川城 発掘報告書」(焼津市 2003)に、
長者屋敷 小川の西北にあり、三ヶ名(さんがみょう)不動院の前、田中の古土囲あり、長谷川次郎左衛門尉正宣の屋敷跡なり。
これを真にうけ、不動院探しで大いに迷った経緯は、以前に記し、誤謬をクラスの安池欣一さんが正してくださったことも報告した。
【参照】2011年4月17日[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪2011年5月15日[長谷川豊栄長者の屋敷跡]
このブログは、多く方々のご援助でつづけられているようなものだ。感謝。
(三ヶ名の不動院の沙弥壇)
今回の再訪では、SBS学苑の片野さんのご尽力で本堂まであげてもらうことができた。
つづいて、小川城の出土品を展示拝観のために、焼津市歴史民族資料館を訪れ、片山学芸員から明時代の窯のものとおもわれる皿や容器の説明などを聴いた。
豊栄長者が海外との交易によっても富をきずいていたことが発掘・展示品からも裏付けられたといえそう。
゛
(小川城址から発掘された磁器類 上掲『小川城』より)
(焼津市歴史民族資料館で片山学芸員から解説を受ける)
ウォーキングは1万歩に近かった。
最近のコメント