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2011.07.18

〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛

『鬼平犯科帳』巻16[見張りの糸]に、東海道の江戸への入り口---芝・田町7丁目に面した三田八幡宮門前に、15年ほど前に京都から下ってはき、社仏具類の小体(こてい)な店かまえの〔和泉屋〕をだした元盗賊の頭とある。
三田八幡の鳥居の脇の茶店〔大黒屋〕の持ち主が盗賊・[稲荷(いなり)〕の金太郎とふんだ火盗改メ・が〔和泉屋〕忠兵衛(ちゅうぺ゛え 70近い)に2階の一と間を見張り所にかりうけたことから、事件にかかわってしまった。

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三田八幡宮(『江戸名所図会」 塗り絵師:ちゅうすけ)

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年齢・容姿:面長の、品のよい顔だちで、眉毛が雪のように白い。70歳近い。
息子・源四郎は40すぎで、女房・お弓には子がいない。
奉公人の太助は45,6。
生国:山城国綴喜郡(つづきこおり)八幡宮領橋本町堂ヶ原郷(現・京都府八幡市橋本堂ヶ原)。
いまごろ、〔堂ヶ原〕忠兵衛をとりあげたのは、じつは数年前に盗賊の出身地調べていたとき、堂ヶ原は、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治38年-)で拾えなかった。
今回、八幡市役所の文化財保護課の出口さんに教わったところでは、村という単位以下の高みの地区とのこと、道理で『旧高旧領取調帳』でも検索にひっかからなかった。
Google map の検索でヒットし、見当がつき、調査が一気にはかどった。

江戸の三田八幡宮と京都の石清水八幡宮---という八幡宮つながりの設定もおもしろい。

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(石清水八幡宮 『都名所図会』)

探索の発端:20数年前、亡父・備中守宣雄が京都西町奉行として赴任していたとき、銕三郎(てつさぶろう 27歳)はふとしたきっかけで茶店〔千歳(ちとせ)〕の女主人で女賊のお豊(25歳)と睦みあったこ。
その銕三郎をかばった同町奉行所の与力・浦部源六郎(げんろくろう 中年=当時)が、公用で江戸へやってき、〔大黒屋〕を見張っている木村忠吾の仕事ぶりを見分したとき、〔和泉屋〕の店主・忠兵衛は、西町奉行所をさんざんてこずらせたうえに消息を断った〔堂ヶ原〕一味の頭領・忠兵衛であることを鬼平に耳打ちして帰京していった。
その忠兵衛を兄の仇と狙っていたのが盗賊浪人・戸田銀次郎であった。〔堂ヶ原〕一味であった彼の兄は、一味
掟てを破り、押し入り先でおんなを犯し、血を流させたために仕置きされた。
戸田浪人たちが忠兵衛を襲った夜、ある予感から〔和泉屋〕の見張り所へ来ていた鬼平に戸田一味はなんなく捕縛されてしまったが、鬼平は〔大黒屋〕ほかを盗人宿としている〔稲荷〕の金太郎一味の全員の手くばりをおえるまで、何事もなかったように、忠兵衛に店を開かせ、〔稲荷〕一味を安心させておいた。
〔堂ヶ原〕一味をたばねて正統派の掟をまもらせていただけの器量をそなえている忠兵衛は、その役をみごとに果たした。

結末:]息子・源四郎の入牢は書かれているが、その妻・お弓が女賊であったとは記されてはいない。
元〔堂ヶ原〕一味の小頭格であったらしい太助は、戸田浪人一味に惨殺された。
忠兵衛の結末については、記されていないが、〔和泉屋〕は近隣へのあいさつもなく店仕舞いをし、一家は消えたとあるから、15年前までの所業により、死罪を受けたものと推察できる。
そうでなければ、近隣へなんらかのあいさつをしているはずである。

つぶやき:2011715[元盗賊〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛]の項にも書いたとおり、犯さず、殺さず、貧しき者からは盗まずの本格派盗賊の3戒を守りきって15年も前に廃業、足を洗っ正業にはげみ、火盗改メの見張り所として一部屋提供したほどなのだから、目こぼしがあってもよさそうなものだが、そうおもうのは、読み手の肩
入れのしすぎかも。

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コメント

昨日と今日の〔堂ケ原〕の忠兵衛の生国調べはさすがちゅうすけさんの執念というにつきます。いろんな地名辞典にものっていないものを、どうやって八幡市へたどりついたのか、お聞かせいただきたいくらいです。
そこから、江戸の三田八幡宮と石清水八幡宮との暗号を読み取る、まさに鬼平ファンの醍醐味です。

投稿: 文くばりの丈太 | 2011.07.18 06:11

>文くばり丈太 さん
いつもお気くばりをありがとうございます。
堂ヶ原の探索ですが、7年来探していて、あきらめていたのです。でも、ストーリーは面白いし、キャラクターも好ましいので、ずっと気にはかけていました。
あるとき、iPadの地図で、なんとなく「堂ヶ原」と行き先に打ち込んでみたのです。そうしたら、現われ、びっくりしました。早速、八幡市役所へ電話を入れ、別館の出口学芸員を紹介していただいた次第で、iPadからその先はなんでもなくすみました。
関西の八幡は、関西の会社に勤めてたころ、ときどき遊びに行きました。

投稿: ちゅうすけ | 2011.07.18 07:21

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