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2011.07.19

ちゅうすけのひとり言(73)

小さな書斎の本棚が地震で崩壊したまま4ヶ月がすぎた。
一向に本復しないのだが、散乱した本類のなかから、『群馬県史 全6冊』(歴史図書社 1972)が存在を告げるように背表紙を見せていた。

40年近くも前にどんな意図で、2万4000円もだして求めのか、存在すら忘れていた。

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(『群馬県史全6巻』 歴史図書社刊)

6冊のうち、これまた偶然に第3巻、帯に「江戸時代 上毛諸侯旗本代官の事績2」とある外函をははらい、ぱらぱらめくった。

長谷川」の文字に目が止まった。
見なれた名前が並んでいた。

長谷川の本家だった。
全段はともかく、正直 太郎兵衛は、このブログでなじみの脇役の一人である。


249  長谷川 (家紋は左三藤巴)


正成(まさなり) 下河逞四郎政義が二男、小川次郎政平三世の孫、次郎左衛門政宣。和州長谷川に住し、長谷川を以て氏とす。

其後裔紀伊守正長、駿州小川に住す。
後同國田中に移住し、今川義元に事ふ。
今川氏没落の後、家康に事へ、三方ヶ原の役戦死す。

正成正長が男なり。筑後と称す。
天正4年(1576)、家康に事へ、御側に近侍す。
慶長5年(1600)、上杉景勝征伐の時、秀忠に従ふて宇都宮に抵る。後采地600石を賜ふ。
16年(1611)、勝姫の松平忠直に入輿するに営り、之に附属す。1000石を加へられて、高田に赴き、之に仕ふ。
寛永2年(1625)12月相州高座・愛甲、武州榛沢・幡羅、上州緑野5郡にて、新墾田を併せ、1750石余の地を知行す。
15年(1638)卒す。相州高座郡沢橋村浄久寺に葬る。
久寺に葬る。

正澄 刑部。正成が男。寛永15年(1638)遺跡を纏ぎ、父に代りて勝姫に仕ふ。
寛文4年(1664)卒す。

正定 隼人。正澄が男。寛文4年(1664)、父の遺跡を纏いで1450石余を知行し、300石を弟玄蕃に分具す。

正利 刑部。正定が男。御小姓組番士・桐聞番・御近習番・御小姓組に歴事し、元禄15年(1702)卒す。

正冬 :監物。実は坪内藤九郎長定が長男にして、正利が養子と為る。御近習番・御納戸・御書院番士等に勤仕し賓暦2年(1552)卒す。江戸四谷一行院に葬る。

 
正直 太郎兵衛。正冬が男。御小姓組・西城御徒頭・西城御小姓1 頭・西城御小十人頭・御徒頭・御先弓頭・御持筒頭・御鎗奉行等に歴事し、寛政4年(1792)卒す。葬地前に同し。


正鳳(まさたか) 主膳。正直が男。御小姓組番士に列し、寛政6年(1794)卒す。

正運(まさかつ) 太郎兵衛。正鳳が男。御書院番士と為り、寛政10年(1796)致仕す。

正愛 金太郎。正蓬が男。寛政10年(1796)家を纏ぺ鈴を知行す。1450石余を知行す。


以上の記録が『寛永諸家系図伝』と『寛政重修l諸家譜』に拠っていることはいうまでもない。

ぼくとって、この『県史』の価値は、『寛政譜』にも記載されている長谷川本家の知行地の明細を、これを機に探索する気がおきたことにある。

知行地は、

相州 高座郡
    愛甲郡
武州 榛沢
    幡羅
上州 緑野

---と判明していた。

旧高旧領取調帳』はいぜんとして散乱してうもれた本類の中なので、[旧高旧領取調帳データベース]で検索をかけた。
ヒットしたのはわずかに、相模国愛甲郡長谷村---長谷川右京 500石のみというありさま。
寛政譜』をあらためてみたが、知行地移動の記載はなかった。

文化・文政以後に移動があったのかも。

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