ちゅうすけのひとり言(95)
「これは、ひどい!」
思わず声をだしてしまったのは、青木虹二さん『百姓一揆の年次的研究』(新生社 1966.04.109)の天明7年の全国一揆のリスト131~4ページ)に目を通したときであった。
この年、都市打ちこわしと農村一揆がはげ゜しかったことは、以下のコンテンツにもふれていた。
【参照】2012年5月9日~[天明7年5月の暴徒鎮圧 ] (1) (2) (3) (4)
2012年5月13日~[江戸・打ちこわしの影響] (1) (2) (3) (4) (5)
2012年5月18日[鎮圧出動令の解除の怪]
しかし、江戸、大坂、駿府の都市型打ちこわしをふくめて、全国で51件もの一揆がおきていたとは、こころえていなかった。
同書によると、()内は天領の件数
天明1年 2件
2 3 (2)
3 20 (3)
4 7 (1)
5 1 (1)
6 6
7 52 (16)
天明7年の天領とは、江戸、大坂、奈良、駿府、甲府、大津、堺、五条、枚方宿、京都、伏見、長崎、藤枝宿、丸子 、神奈川宿、八尾、古市であった。
騒ぎの原因を著者はほとんど、米価高騰としているが、もちろん、買占め、隠匿、売り惜しみもふくまれていることは容易に想像がつき、都市や主要街道の宿場、藩の城下町はそうで あったろうが、米の生産地では過酷な収奪にたいする抗議もあったようにおもうのだが、どうであろう。
個々の史料をあたっている余裕が、ちゅうすけにはいまのところも、これからもないので、概括であきらめておくよりほかない。
(自由に図書館へ行けないというのは、つらい)
これほどに幕府直轄領で騒ぎがおきれば、幕府の為政者――老中、勘定奉行、町奉行、遠国奉行、代官の責任が問われても仕方かなかろう。
田沼意次(おきつぐ)が去ったあとの老中は、
松平周防守康福(やすよし 71歳 石見藩主 6万400石)
牧野備後守貞長(さだなが 57歳 笠間藩主 5万石)
水野出羽守忠友(ただとも 57歳 沼津藩主 3万石
鳥居丹後守忠意(ただおき 71歳 壬生藩主 3万石)
阿部伊勢守正倫(まさとも 42歳 福山藩主 10万石)
家柄はいずれも申し分ないが、器量が大きく経験が豊富な老中は、水野忠友ぐらいであろうか。
幸い――といってはなんだが、この5藩の城下では、この年には一揆をみていなかったということか。
それだって、上掲書の記録漏れということもある――というのは、天明4年(1784)12月の信濃・松代藩へ平蔵(へいぞう 40歳)が出向いた一揆の記録が欠けていることからの類推だが。
【参照】2012年1月20日~[松代への旅] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24)
将軍が未熟であれば、訓育者がしっかりと教導をしなければならなかったとおもうが、それにふれている論文を寡聞にして目にしていない。
家斉(いえなり)は、公式の文書からはうかがえないが、父・治済(はるさだ)の策謀家の性格をどれほど受けついていたのであろうか。
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