松代への旅(24)
「長谷川うじは、賊と連絡(つなぎ)をつける手だてをお持ちかな?」
「滅相もない---」
「あまりにも賊の出方をお見こしjなので---」
「賊の気持ちになり、その手すじを推察しているだけです」
「それにしても、見事な---」
松代藩の町奉行をこなしているだけあり、薄田彦十郎(ひこじゅうろう 52歳)の眼光はあいかわらず穏やかだが、推量はするどい。
地京原村の発頭人の清兵衛(せえべえ 50がらみ)を水牢から並みの牢へ移し、嫡子・清助(せいすけ 20代なかば)を釈放すれれば、賊はこちらの思惑どおりに間違いなく犯行を手びかえるであろうかと問う奉行に、平蔵(へいぞう 40歳)は、けろりと、
「運否天賦(うんぷてんぷ)でございますが、七分三分、いや、八分二分で、八分に賭けてもよろしい」
「ほう。たいしたご自信ですな」
「自信ではありませぬ。ご当藩には賢君とのうわさが高い真田右京大夫幸弘(ゆきひろ 46歳)侯がおられます。その幕僚であるお奉行の誓紙がとどけば、いかな賊も約束をまもりましょう」
「わしの誓紙---?」
「ご宿老方にはかり、清兵衛親子の放免は、時日がかかろうとも実現させるとの一筆です」
「届ける手だてはあるのかな?」
「たぶん、あの賊であろうとの推測はしておりますが、住まいも名前も存じません。ただ8年前に高崎侯(松平右京太夫輝高 てるたか 53歳=当時 高崎藩主 5万7000石))のためにある者を談合人に仕立てたことがあります。その者はいまでも松平侯のご領内に住まっているかともおもえるので、もいちど使い番を頼んでみることはできましょう」
「長谷川うじは、いつまで松代にご逗留かな?」
「きょう、〔奈良井屋〕を引きはらい、善光寺さまの近くの旅籠に2泊し、あさって発(た)つつもりでおります」
「こころえました。善光寺の宿を〔奈良井屋〕へことづけておかれい」
【ちゅうすけ注】清助が釈放されたのは翌天明6年(1786)5月で、地京原村の一切を処分して松代の下田町の借家へ移住、父への差し入れをつづけた。
清兵衛の釈放は寛政4年(1792)11月であったが、18日目に病死した。
薄田町奉行は誓紙とともに一冊の写本をとどけてよこした。
題簽(だいけん)には『日暮硯』とあった。
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コメント
実に天晴れな解決でした。
と同時に、安池さまとちゅうすけさまのやりのコメントを興味深く拝読。先読み、あとづけ、飛躍、まさに胸おどるの感じでした。
投稿: 左兵衛佐 | 2012.02.12 06:56
これで、解決ということですか。毎日、楽しみにしておりましたが、お名残惜しい。お江さんには、また会えそうですが。〔奈良井屋〕の加兵衛さんは、ご内儀をもっと可愛がってやれたのでしょうか。気がかりです。
ページビュー、96万ですね、「あなたにもできる1日1万ページビューを得るための秘密」なんて、出ていますと、つい覗いてしまいます。4日で待望の100万になってしまいますもの。
投稿: 安池欣一 | 2012.02.12 11:42
>左兵衛佐 さん
実をいいますと、当時の真田右京大夫幸弘侯はまれにみる名君だったそうだし、西山の一揆も史実ですし、信濃の鬼平ファンの方からいろいろとお教えいただけると期待していたのですが、ついに、むなしい期待におわりました。
もちろん、ちゅうすけの力量不足のせいではありますが、かすかに、別の発展も考えてはいましたが。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.12 17:38
>安池欣一 さん
ページビューですが、とりあえず100万を第一コーナーと観じておりました。
まあ、ほかの鬼平ブログが30万あたりですからダントツではありますが、自分の気持ちの中では、一風変わった鬼平ものなんだから---というのは、池波鬼平に添いながらより史実に近いところを描くようにしていますから---サブ・鬼平読本としてアクセスがあってもいいのではとおもってきました。編集者の方々からはすごいボリュームと感心され、逢坂 剛さんからは「活字本にしてよ」といわれていますが、いまさら活字本より、こうしてどなたの目にもふれる形のほうが噂が噂を呼ぶとおもってきました。
噂はあまり噂を呼ばないうちに自分の寿命がきてしまったのは誤算でしたが。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.12 19:15