松代への旅(23)
「この案件は、拙の手にあまることがはっきりしたので、おあずかりした金子は、手もとにある分をとりあえずお返しし、のこりは江戸藩邸へおとどけいたす」
平蔵(へいぞう 40歳)の辞を、温顔をかえずに聴いているのは松代藩の町奉行・薄田(すすきだ)彦十郎(ひこじゅうろう 52歳)であった。
差しだされた金包をそっと押し返し、
「長谷川うじ。これは受けとれませぬ。用向きをご依頼したのは江戸の用人・海野十蔵(じゅうぞう 50がらみ)です。海野へお返しくださるのが筋というもの」
まるで謡いの稽古本でもそらんじているようなゆっくりした口調で断り、
「手にあまるというお言葉でありましたが、真意はどういうことでありますかな?」
いかにも国許だけで育ったといわんばかりの念のいれようは、京都で接して身にしみていた。
「丹波島の〔生坂(いくさか)屋〕、西寺尾の〔坂屋〕、紺屋町の〔藤沢屋〕で賊が、一揆の発頭人・地京原村のおとな・清兵衛(せえべえ)父子の出牢を条件にしたことはお奉行もご承知とおもいます。父子の釈放は拙には権限がないどころか、ご依頼の趣旨とはかかわりのないことです」
「まったく---」
「拙がこれ以上この件にかかずらわり、探りをつづけると、賊のほうではさらに見せしめの押しこみをやりましょう。それがご領内であれば内輪のことですませられましょうが、隣藩の上田藩(5万3000石)、高遠藩(3万3000石)、松本藩(6万石)内などへ押し込みこみ、こちらへ伝えよということになりますと、そちらへの謝罪ばかりか、名君のほまれが高い真田(右京大夫幸弘(ゆきひろ 46歳 藩主)侯のお顔をつぶすことにもなりかねませぬ」
温顔の目じりに深い皺をつくったふくみ笑いで、
「賊にも面子(めんつ)がありますわなあ---」
「賊がこころをくだいておるのは、清兵衛の命のようにおもわれますが---」
「藩にも気がかりがありますわなあ---」
「ご公儀へのお届けは、入牢ですか、水牢ですか?」
「早速にあらためてみましょうわい---」
追いうちをかけるように、
「いますぐに---」
町奉行が与力に、確認を命じた。
緊張がほぐれた。
「長谷川うじは、ご執政(老中)の田沼(主殿頭意次 おきつぐ 67歳 相良藩主)侯におちかづきがおありとか---」
「父の代にご縁ができまして、その後、ときどき---」
「ご譜代のお大名衆の中には面従腹背のお方もおありでしょうなあ」
「拙は西丸づとめゆえ、本城のことは存じませぬ」
「ごもっとも、ごもっとも---」
与力が戻ってき、耳打ちされた奉行がうなずき、
「ご公儀へのとどけは入牢とのみだそうです」
「それでは、さっそくにも水牢からだし、並みの牢へ。そして、そのことを下級の者たちへなんらかの手段で周知させることです」
「ふむ」
「賊たちへは、それで伝わりましょう。さらに息子の清助(せいすけ 20代半ば)再吟味をなさり、一揆へかかわりし他村のおとなたち並みということで釈放なされば、ご城下への賊の押しこみもやみましょう」
「清兵衛のあつかいは---?」
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コメント
町奉行・薄田彦十郎、口調は謡いのようにゆっくりしていても、田沼意次との付合も承知で、譜代大名の動向も把握しているとは! さすが松代藩、人物はいるもんですね。清兵衛のあつかいまで尋ねるとは、タヌキ。
投稿: 安池 | 2012.02.11 09:42
>安池 さん
町奉行・薄田彦十郎もしたたかですが、もっと悪は江戸詰の用人・海野十蔵のような気がしてなりません。
清兵衛を水牢からだすことを幕府から文句をつけられないように、平蔵を使ったのではないでしょうか。
平蔵なら田沼意次とも親しい(?)から、清兵衛のことは見逃してもらえると考えたのでは?
なんといってもも、真田は譜代ではなく外様ですから、幕府は落ち度を探していたでしょう。しかもことは一揆です。思い過ごしたふりで清兵衛を水牢にいれましたが、あるいは、水牢とはいい条、二段式になっていて、名ばかりの水牢だったかもしれません。平蔵はみせてもらつていませんからね。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.11 17:48
>安池欣一 さん
平蔵が松代へ旅だったあたりから病院がよいがはげしくなり、行くとほとんど1日中待ち時間にとられてしまい、探索が思うにまかせなくなりました。
病院のベンチでストーリーを考えればいいようなものですが、あそこはなかなか落ち着きません。つい、患者さんの身の上を推理したりして、自分の想念に没入しにくいと思い知りました。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.12 17:55