〔五鉄〕のしゃもの肝の甘醤油煮
「臓物鍋、はじめて賞味いたしましたが、夏にあいますね。おいしくいただきました」
「それはようございました。これからもご贔屓にお願いいたします」
上がってきた三次郎(さんじろう 18歳)も、銕三郎(てつさぶろう 23歳)の連れ---という以上の好意を、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)に感じている。
こん炉をさげ、代わりに西瓜(すいか)を出した。
「長谷川さま。お泊りになるのでしたら、用意をさせますが---」
三次郎の問いかけに、お竜がちらっと、銕三郎に視線を向ける。
「いや。こちらを須田(すだ)村へお送りする」
「送っていただけますの? まあ、うれしい」
お竜の声は、ことばほどには弾んでいない。
「では、ごゆっくり---」
三次郎が下りていった。
「お竜どの。拙の本心も、泊まりたいのです。しかし、けじめというものがあります」
「わかっているつもりです」
「いつまでも、お知恵をお借りするためには、もう---」
「はい---」
降りると、三次郎が、油紙につつんだものを用意していた。
「しゃもの肝の甘醤油煮です。あすにでもご賞味ください」
お竜が礼を言って受けた。
「あすの昼餉(ひるげ)が楽しみになりました」
板場をぬけて、猫道から相生町5丁目の裏通りへ出、そのまま東へ歩き、緑町1丁目裏通りとの境の道を北へ、武家屋敷の道へに入り、立ち止まった。
(二ッ目ノ橋北詰=青〇〔五鉄〕=相生町5丁目 その東=緑町1丁目)
これで、徒(かち)目付の下働き・徒押(かちおし)が〔五鉄〕を見張っていても気づくまい。
すこし遅れて、三次郎が無印しの提灯を点してあらわれ、銕三郎たちへ渡して引き返した。
つぎたし用の新しい蝋燭も5本、手渡された。
「にくいほどの心得ですね、三次郎さんは---」
と言ったお竜へ、
「ほんとうは、しゃもをおろすより、火盗改メの密偵をやりたがっているのです」
「怖いこと---」
「父親がゆるしませぬ。それに、密偵など、素人がやることではありますまい」
「わたしなら---?」
「超一級です」
「長谷川さまが火盗改メにおなりになったら---わたし、密偵に使っていただくかも---」
「そのためにも、身をきよく---」
「ほんに---おほ、ほほほ」
「あ、ははは」
「でも、手をつなぐくらいは---」
「木戸がしまらないうちに、駒止橋あたりの船宿から、猪牙(ちょき)で行きましょう」
「いいえ。猪牙(ちょき)だと、話を船頭に聞かれます」
「歩くのですか?」
「小1里(4km)の道行きと、まいりましょう」
お竜は、うれしそうであった。
しゃもの肝煮の油紙包みを左手に、右手で銕三郎の手をにぎっている。
二ッ目の通りから1本東の、武家の家々のとおりなので、辻番小屋の灯のほかは、明かりはまったくない。
銕三郎が右手にしている提灯の灯だけが、闇の中を北へゆっくりと動いている。
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