カテゴリー「212寛政重修諸家譜 」の記事

2007.06.08

「布衣(ほい)」の格式

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、宝暦8年(1758)9月15日に小十人組の5番組組頭にすすんだ。
同家の『寛政譜』は、そのつづきに、同年12月18日に「布衣(ほい)を着する事をゆるさる」と記している。

小説の鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の『寛政譜』も、西丸・書院番士から、天明4年(1784)12月8日に西丸徒頭に転じ、つづいて、同年同月16日布衣を着する事をゆるさる」と書く。

辰蔵こと平蔵宣教(のぶのり)の『寛政譜』も、寛政8年(1796)5月23日に西丸小納戸に転じ、同年「12月23日布衣を着する事をゆるさる」と。

「布衣」「官位」なのだ。江戸幕府の幕臣は「官位」「家格」「家禄」「役職」を重んじていた。
正式の「官位」は、従五位下が最も低いが、「布衣」はその下---従六位に相当する。
ある人は、 「布衣」以上を、かつての勅任官扱いと見ている。
だから、この記述には重い意味がある。

小十人組 3番組頭・荒井十大夫高国(たかくに)の『寛政譜』を掲げるから、ご覧いただきたい。
Photo_375

Photo_376

Img051「官位」の等級をあらわす代名詞のようになった「布衣」---じつは、公家(くげ)たちが狩のときに着用した「狩衣(かりぎぬ)」の柄のないものの呼称であった(右図:小学館『古語大辞典』「南紀徳川史」より)

喜多川守貞『守貞漫稿』は、図のような仕立てとしている。いま、神社の神職が正式の神事の時に「狩衣」のほうを着る。
Img053

宣雄が小十人組頭を発令された時の、同役たちが「布衣」を許された、その年月日を、2007年5月27日[宣雄、小十人頭の同僚]リストに付け加えてみる。

1番組 曲渕勝次郎景漸(かげつぐ) 1650石 35歳
      宝暦7年7月1日→同9年1月15日目付
      (布衣)宝暦7年12月18日   

2番組 佐野大学為成(ためなり) 540石 61歳
      享保10年(1725)12月1日小納戸
      (布衣)同年同月18日
      宝暦4年5月1日→明和1年9月28日先手組頭

3番組 荒井十大夫高国(たかくに) 250俵 49歳
      宝暦6年2月28日→明和3年11月12日先手組頭
      (布衣)同年12月18日

4番組 長崎半左衛門元亨(もととを) 1800石 44歳
      宝暦8年7月12日→同10年6月23日目付
      (布衣)同年12月18日

6番組 本多采女紀品(のりただ) 2000石 44歳
      宝暦3年12月28日→同12年11月7日先手組頭
     (布衣)同年同月18日

7番組 神尾五郎三郎春由(はるより) 1500石 39歳
      宝暦4年5月28日→同9年11月15日新番頭
      (布衣)同年12月18日

8番組 仙石監物政啓(まさひろ) 2700石 55歳
      延享4年(1747)8月12日西丸徒頭
      (布衣)同年1219日
      宝暦3年3月15日→同12年4月15日先手組頭

9番組 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 1500石 49歳
      宝暦2年4月1日→同10年1月11日差は先手組頭
      (布衣)同年12月19日

10番組 山本弥五右衛門正以(まさつぐ) 300俵 58歳
      元文4年(1739)9月22日田安家の館の用人
      (布衣)同年12月16日
      宝暦5年3月15日→明和1年9月25日卒

「官位」が授けられるのは、それに相応しい使番とか小納戸徒頭などが発令された年の12月の中・下旬といっていい。11月下旬という例外も時にあるが。

「布衣」の受勲は、赤飯を炊いて祝い、上役の家へお礼の挨拶に出向いたであろう。

長谷川家歴代で、平蔵宣雄以前に「布衣」へすすんだ仁は、一人もいなかった。宣以「布衣」宣教「従五位下」へ道をつけた宣雄功績は、自らの「従五位下」受勲とともに、いくら強調してもしつくすということはない。

下叙の最終決定者は若年寄として、実際に下審査をする部署は未詳。

| | コメント (3)

2007.04.15

寛政重修諸家譜(11)

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)が、8年間も火盗改メとして辣腕をふるうことができた、そもそもは、41歳の若さ(?)で先手組の組頭に抜擢されたからともいいうる。

天明6年(1786)7月26日付で発令された。平蔵宣以年譜
このとき、平蔵をのぞく33名の先手組頭の年齢は、82歳の最長老をかしらに、平均62.5歳であった。

先手組頭は1500石格。家禄がこれに満たない者にはその差分の足高(たしだか)が給された。
1500石格は、番方(武官系)ではもっとも高額。
これより高い格の石高を求めるなら、役方(行政官)になるしかない。

ほとんど人間、収入が多いほうがいいと思うにきまっている。
いちど先手組頭となると、老いてもその席を放さない仁が、平蔵のころには多くなっていた。
平均在職年数が10年を大きくこえる者はザラだった。
先手組頭は、番方の爺ィの捨てどころ---ともいわれた。

田沼意次が若手(?)の長谷川平蔵を抜擢したのは、先手組頭若返り策の初手だったようにもおもえる。

それで、『鬼平犯科帳』では評価が高くない田沼意次を調べるために、田沼をとりまいていた幕臣たちの、『寛政譜』の高一覧性版をつくりはじめた。

田沼在職中の幕臣50余家を選び、その閨閥も調べるためである。

『寛政譜』からコピーし、切り離してA3判に貼りつける。
原典1ページがほぼ1段におさまる。高一覧性版は1ページに5段貼る。

家康時代から分家の末までだと、A3判で20枚近くになる家もある。

高一覧性A3判は、A4サイズに折って、右耳に家名の見出しをつけてファイルする。

360_54

老中職、若年寄職がとりあえず終わった。
いまは、勘定奉行配下に着手している。

いつ終わるか、予想もつかないが、これまで、やった人がいたという声を聞かないから、つづけるしかない。
あとから、これに補って、考察する人のためにも。
『寛政譜』は、田沼時代を知る宝庫の一つでもあるのだから。

| | コメント (9)

2007.04.12

寛政重修諸家譜(8)

2007年4月11日の当ブログ[寛政譜(7)]に掲げた史料とコンテンツについて、コメント欄に質問が寄せられた。

質問は、「看病にきていた備中・高梁の松山藩の浪人・三原七郎兵衛のむすめに宣雄を身ごもらせた」は、どのようにして調査したのか? というもの。
質問者は、〔枯れ木のパルシェ〕さん。さすがに鋭い。

三原七郎兵衛の名は、[寛政譜(7)]でクロースアップした『寛政譜』宣雄の項に、

 母は三原氏の女。

(三原氏のむすめ)の意である。 『寛政譜』では、女性には一切、名前を書かないことに決められている。
(---の女)とあったら、(---のむすめ)と読んでおく。
「三原氏の女」のように父親の姓に「氏」がついていたら武家
女性の出自がふつうの庶民の場合は「某女」と書かれる。いわゆる「そば妻(め)」の類である。

『寛政譜』は、各家が上呈した「先祖書」を基にして諸事勘合し編まれた。
提出した素稿の多くは、 国立公文書館に蔵されていると聞く。

辰蔵宣義(のぶのり)が寛政11年(1799)12月20日に上呈した長谷川平蔵家の素稿のコピーをとったのは、長谷川本家の末裔・長谷川雅敏さん。

360_46
(長谷川平蔵家の上呈素稿の宣雄の項の一部)

活字化(?)させたのは、研究家・釣 洋一さん。
Photo_332

  養母 無御座候
  実母 元水谷古出羽守 従三原七郎兵衛女

「従」とは、「家臣」のこと。
で、水谷(みずのや)という大名を調べた。

360_47

常陸国下館藩(3万2000石)から備中・成羽藩(なりわ 5万石)、さらに同・松山藩(5万石)へ移封。元禄6年(1693)、藩主・出羽守勝美(かつよし)が31歳で卒したとき、嗣子問題で断絶。養子を解消して家を継いだ弟・勝時は3000石の幕臣となる。
(黄○伊勢守勝久は書院番士として出仕した平蔵宣以の番頭)。

360_48

この備中・松山藩の水谷家の廃絶で、三原七郎兵衛は浪人となった。
松山城のある岡山県高梁(たかはし)市の教育委員会へ三原七郎兵衛について問い合わせて、家禄100石馬回り役(藩主の親衛隊)、屋敷は市内の中級家臣団の柿ノ木町と教えられた。

360_49
(備中・松山城(左上の山城)と城下町。左辺と上辺が武家屋敷)

三原七郎兵衛。5万石の藩の100石だから、10万石の藩なら200石、20万石の藩だと400石取りだったともいえる。幕臣で400石の長谷川伊兵衛より格式は上だったかもしれない。

ついでだが、長谷川家の当主は代々、伊兵衛を襲名したが、入り婿の宣雄以降、平蔵を襲名することになった。

つぶやき辰蔵(じつは遺跡を相続していて平蔵なのだが、まぎらわしいので幼名・辰蔵で)宣義(のぶのり)が上呈した「先祖書」の、自休宣有(のぶあり)---宣雄の父、平蔵宣以の祖父---に項に注してこうある。

右自休義、病身ニ付、厄介ニテ罷在、年齢不知 卒

菩提寺である戒行寺(新宿区須賀町9)の霊位簿を釣 洋一さんが調べた。

宝暦12年(1762)閏4月6日歿 法号・常信院自休日行居士

父・伊兵衛宣就(のぶなり)の没年も、長兄・宣安(のぶやす)のそれも『寛政譜』には記されていない。
ただ、母方の永倉家へ養子に入った次兄・正重(まさしげ)の没年が、永倉家の家譜に載っている。寛保3(1743)年6月5日、65歳。
宣有はそれより19年長生きしている。推定享年80前後。歿地は鉄砲洲・築地の屋敷。一病息災とはよくいったもの。
そのとき、銕三郎は17歳。祖父のこともよく覚えていたろう。
もしかしたら、宣雄の母者も生きていたかもしれないが、戒行寺の霊位簿にはそれらしい仏は載っていないようだ。


| | コメント (4)

2007.04.11

寛政重修諸家譜(7)

池波さんが座右に置いていた栄進舎版『寛政重修諸家譜』は、池波正太郎記念文庫(台東区西浅草3-25-16 区生涯学習センター1階)の、復元書斎に展示されている。
360_43
同館は撮影禁止なので、リーフレット表紙。

その『寛政譜』は、9冊セット。第9輯(しゅう)は、索引。
長谷川平蔵家は9冊の真ん中---第5輯(1917.11.30)の526ページからはじまっている。
第5輯の、それも、ほぼ真ん中あたりなので、開いておきやすい。
で、長谷川平蔵家がはじまる526~7ページを見開きにし、その左右に4冊ずつ、背表紙を立てて展示。
せっかくの配慮も、解説がつけてないし、照明がおとしてあるために、栄進舎版『寛政譜』の貴重さに気づかないで見過ごしてゆく参観者がほとんどのよう。

360_44

掲出の526~7ページ見開き図版では、宣雄の父・宣有緑○宣雄赤○、宣雄の養父となった宣尹(のぶただ)とその養女となって宣雄を夫としてむかえた実妹青○を付した。

360_45

_360

部分拡大図版では、 『寛政譜』が付している家督相続線を意識的に太線に変えた。原典のままの細い横線は兄弟姉妹を示している。

『オール讀物』1968年新年号から、足元から鳥がとびたつようなあわただしさで『鬼平犯科帳』の連載がきまった第2話目[本所・桜屋敷]で、鬼平の家庭状況を説明しなければならなくなった池波さんは、10年ほど以前に作りかけにしていた[長谷川平蔵年譜 基メモ]ノートを取り出した(手書きの系図は2007年4月5日の『寛政譜(1)』 

130_12ノートしておいた家系図にしたがって、

五代目の当主・伊兵衛宣安の末弟が、平蔵の父・宣雄(のぶお)だ。
家は長兄・伊兵衛がつぎ、次兄・十太夫は永倉正武の養子となった。こうなると、末弟の宣雄だけに養子の口がかからぬ以上、長兄の世話になって生きてゆかねばならぬ。
長兄がなくなり、その子の修理(しゅり)が当主となってからも、宣雄はこの甥(おい)の厄介(やっかい)ものであった。

池波さんが『寛政譜』から作成した家系図では、宣雄は宣安の末弟になっている。
しかし、『寛政譜』を仔細に眺めると、宣安の末弟は宣有(のぶあり)であり、宣雄は、宣有の子である。

宣有も病弱で、養子の口がかからなかったから、結婚できなく、看病にきていた備中・高梁の松山藩の浪人・三原七郎兵衛のむすめに宣雄を身ごもらせた。

したがって、6代目を家督した修理宣尹は、宣雄にとっては、甥ではなく、5歳年長の従兄(いとこ)にあたる。
修理宣尹の妹(小説では波津)は、のちに宣尹の養女となり、宣雄を夫に迎える。本来なら従兄の宣雄を、形式的には叔父ということで婿にとった。

家名、俸禄をまもるためのややこしい家族関係を、『鬼平犯科帳』』を書きはじめるまでの10年間近く、池波さんは折りにふれ反芻していたろう。

だから、史実はどうあれ、池波さんが構築していた鬼平ワールドでは、宣雄はあくまで4代目宣就(のぶなり)の四男であり、すぐ上の兄が宣有であった。

ついでに記すと、連載の10年ほど前に準備したノートの表書きは、文字どおり[長谷川平蔵年譜 基メモ]であって、[鬼平犯科帳年譜 基メモ]ではない。「鬼平犯科帳」という通しタイトルは、『オール讀物』1968年新年号の連載開始時に考案されたものだ。

| | コメント (6)

2007.04.10

寛政重修諸家譜(6)

大正6年(1917i)に栄進舎によって刊行された『寛政重修諸家譜』全9巻について、ミク友であり学兄でもある[えむ]さんから、メッセージが2通、とどいた。

[えむ]さんの研究母体であるW大学の図書館に、栄進舎版があるということなので、リサーチをお願いしておいたのだ。

まず、2007年4月9日の『寛政譜(5)』 に、栄進舎版の奥付に【非売品】とある件について。

Photo_331W大学図書館所蔵本には、 [東照宮三百年祭記念会]からの寄贈である印が捺されていると。
[えむ]さんの推理だと、「出版もその会による自家出版?ではないか」と。

なるほど、その線だと、 【非売品】の理由もつく。
しかし、[えむ]さんも、「ちょっと読んでみましたが、膨大なエネルギーをかけて書かれた本なのですね。改めて舌を巻きました」と感嘆しているごとく、栄進舎版『寛政譜』は、ちょっとやそっとの手間で刊行できるほど、なまやさしい事業ではない。

5000数家から提出されている手書きの「先祖書」を活字化したわけである。
想像を絶する学識者の労力と膨大な資金を要する。 [東照宮三百年祭記念会]がどのような組織であったかは知らないが、一会の手でこなしうる事業ではなかったはず。
奥付に会の名も印刷されていない。

[えむ]さんは、推理の基として、栄進舎版の「活字本寛政重修諸家譜序」を抜粋してくださった。

「先年故男爵岩崎弥之助君内閣本ニ拠リテ一本ヲ作ラレシコトアリ、現ニソノ静嘉堂文庫ニ蔵セラル」も、世人はもとより専門家もなかなか利用できないので、「是レ予輩ノ久シク遺憾トスル所ナリキ、然ルニ列聖全集編纂会ハ、予輩ノ勧奨ヲ容レ、内閣ノ許可ヲ得、本書ヲ印行シテ世ニ公ニセントノ企アリ、予輩ハ、ソノ学界近来ノ一快事ナルヲ信ジ、曩ニ之ヲ江湖ニ紹介セリ、男爵岩崎小弥太君ガ、特ニ門外不出のノ書ヲ編纂会ニ貸シテ、出版ノ便ヲ与ヘラレ、東照宮三百年祭記念会ガ、至大ナル援助ヲ与ヘラレシハ、トモニ斯界ノタメニ感謝スヘキコトナリトス」
「大正六年七月 東京帝国大学文科大学教授兼史料編纂官
                  文学博士      三上参次」

これで東照宮三百年祭記念会の資金援助の次第は判明。

ただ、三上博士の「序」には、次の一文もある。

「予約出版ノ事公告セラルルニ及ビ、天下翕然トシテ之ニ応ジタル---」

すなわち、予約出版だったのだ。だから【非売品】。予約価は不明。

池波さんが大枚20余万円を古書店に支払ったのは、古書の世界において、それほど稀覯(きこう)本だったのである。
刊行セット数などについては、有力古書店のご店主に教えを乞いたいところ。

120_13さて、次の疑問。もともとの装丁の色---ぼくの記憶では「グレー」だったが、W大学の所蔵本は、[えむ]さんの写真では黒に近い「焦げ茶」

ぼくの記憶間違いだろうか。

気になった。台東区の池波正太郎記念文庫の復元書斎へ走った。
本類の焼け防止のため、照明は薄暗くしてあり、判然としない。
係の年配女性に確認した。
「黒に近い焦げ茶」
とのこと。---「憲法茶」
W大学の蔵書のとおりであった。

[えむ]さんの労に感謝。

| | コメント (3)

2007.04.09

寛政重修諸家譜(5)

住まいに近い区図書館で、検索用パソコンを借り、栄進舎版『寛政重修諸家譜』(大正6年刊)の公的な所蔵先を探した。

ぼくが勝手に「エンジ版」と呼んでいる栄進舎刊行の同『寛政譜』を、池波さんが1955年ごろ、大枚20余万円で購(あがな)ったことは、2007年4月6日のこのブログ 『寛政譜(2)』に報告している。

検索により、江東区深川図書館に蔵されていることがわかった。
同館は、清澄3丁目3-39 清澄公園の一隅にある。公園は、久世大和守(下総国関宿藩4万8000石)の下屋敷だったところ。
 
さっそく、同館すぐの福住に住む、ハンドルネーム〔永代橋際蕎麦屋のおつゆさん(鬼平熱愛倶楽部メンバー)に長谷川平蔵家の項のコピーをお願いした。

池波さんの読み間違いともおぼしい、亡父・平蔵宣雄の続柄を確認するためである。

〔おつゆ〕さんに依頼してから、全9巻がそろっているのかどうか、心配になったので、同館に電話で確かめた。
エンジの装丁の、栄進舎により、大正6年刊。全部で9巻です」
そう告げると、係の人は、
「書庫へ行って調べてくるから、このまま待っていてください」
_60ややあって、
「ありました、エンジの装丁でいいのですね?」

臙脂(えんじ)? 台東区の池波正太郎記念文庫に復元されている書斎の栄進舎版はグレーのハード・カヴァーだったような。

〔おつゆ〕さんに、間違ったものを依頼していたら申しわけない。
すぐ、深川図書館へ出向いた。

出してきてくれた『寛政譜』は、たしかに大正6年(1917)刊のものに間違いないが、装丁は臙脂。「この表紙を撮影したい」
というと、先刻、電話に出た上役らしい事務所の男性が現れ、写真の使用目的などを問う。
当ブログに掲示すること、森下文化センター鬼平講座を担当していること、江東区地域振興財団へ出向して全文化センターを統括している0さんと親しいことなどを告げる。

「なにしろ、古い史料なので、傷んだ装丁を図書館側でやり直しているのでしょう」
いわれて背文字をみると、たしかに装丁しなおした風情だ。

3階の事務室で撮影。

それで、また、疑問が生じた。復元された池波書斎で、栄進舎版の装丁は「グレー」と思いこんでしまったが、あれも、古書店へ売った人が自家装丁した表紙ではないのかと。

〔おつゆ〕さんからのファクスの奥付には、【非売品】とある。

Photo_336

どういう形で刊行されたのだろう? 
さらに、疑問が増えた。

| | コメント (3)

2007.04.08

寛政重修諸家譜(4)

長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が三方ヶ原(みかたがはら)の武田信玄勢との合戦で戦死したことは、この『寛政譜(2)』で報告した。

正長には遺児が数人いた。
うち上の3人は浜松へ連れられていたが、幼なすぎた末児は、静岡城下郊外の瀬名(せな)村へ、中川と姓を変えてひそんだ。祖先の繁栄の地であった小川(こがわ)と、去った田中城から一字ずつとった姓であるという。中川家はいまなお地元で旧家として遇されている。

遺児のうちの長子は、亡父がそうであった藤九郎を幼名としていた。
父の戦死後3年目の天正4年(1576)、13歳のときに家康の小姓として召された。
戦死者の遺族を手厚く遇さないと家臣はついてゆかない。
徳川家が江戸へ移ると、長谷川本家の筑後正成(まさなり)は1700余石を給された(のち分与し1451石)
屋敷は、一番町新道(千代田区三番町)に約1000坪。
360_38

長谷川一門の本家6代目の当主が、太郎兵衛正直(まさなお)である(『寛政譜』上から2段目の赤○)。
360_39

当家は、5代目までは小姓番組の平番士で終わっていたが、正直は先手弓の二番組の組頭、その後、槍奉行にまで栄進している。幹部としての才能が認められたのであろう。
360_40

先手組頭のときに火盗改メも拝命した。
Photo_329

鬼平こと平蔵宣以(のぶため)が就いた先手弓の組頭も、伯父・太郎兵衛正直が任じられていた二番手組である。
なにかの因縁があると推察しているが、いまのところ、報告するほどの材料は発見できていない。

平蔵の亡父・宣雄と、息・辰蔵宣義(のぶのり)が就いた組頭は、先手弓の第8番手組であった。

| | コメント (0)

2007.04.07

寛政重修諸家譜(3)

池波さんが、[鬼平犯科帳・雑記](未刊行エッセイ集『作家の四季』 講談社)で、1955年(昭和55)からちょっと後に、〔エンジ版=栄進舎版〕 『寛政重修(ちゅうしゅう)諸家譜』を入手し、長谷川平蔵宣以(のぶため)についての基礎的な知識を得たことは、4月5日に記した。

14_64_3『寛政重修諸家譜』を検分することは、鬼平こと長谷川平蔵宣以研究---というと大げさだか、『鬼平犯科帳』を2倍楽しむための第1歩といってもいいすぎではない。
鬼平ワールドの楽しみは、『寛政譜』の長谷川家譜に登場している人物の概略を読みとることから始まる。
池波さんもそうやって、あの、膨大な『鬼平犯科帳』141編を創作した。

1964年から刊行された〔ダイダイ版=(株)続群書類従完成会版}なら、たいていの中央図書館が常備しているはずだから、鬼平ファンを自称しているほどの仁は、いちど手にとってご覧になるといい。
徳川幕臣には、長谷川を名のっている家系は数家ある。
平蔵の長谷川家は、〔ダイダイ版・第14巻〕、左側の95ページの下1段から、3ページ目の上1段まで。
360_33
360_37

鬼平こと平蔵宣以の記述は、2枚目のほうの右側96ページの最下段。

ついでだから、92ページの本家から99ページまでコピーする。

360_35

99ページに、養子にいった鬼平の次男・正以(まさため)が載っている。 

ただ、1ページA5判、見開きだとA4判の記述を、何ページもめくって行きつ戻りつしながらの検分は、けっこうわずらわしいく、見逃しも多い。

思いついたのが、長谷川家にあてられている全ページをコピー、A3判用紙に長ながと、そして5段に貼りつけて、一覧性を高めようと。

360_36

ファイリングは、A3判の右側を左へ真半分に折り、つづいてそれを右側へ半分折り返す。
シートは左端にパンチング穴をあけてファイルする。
こうすると、右側につねに検索用の家名がくる・

一覧性を高めた『寛政譜』シートでわかったのは、最上段にある長谷川本家の6代目・太郎兵衛正直が火盗改メに任じられていた期間、分家の銕(てつ)三郎(家督後は平蔵)は、18,9歳であった。
本家の伯父が博徒・火盗改メをしているとき、分家の若い甥が賭博場や岡場所で遊べるか、という疑問が湧く。

| | コメント (0)

2007.04.06

寛政重修諸家譜(2)

『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』は、老中上座・松平越中守定信の発議で編纂されたと伝わっている。
保守・家柄派の定信とすれば、当然のアイデアであろう。

130_11170余年前に家光の命によって編まれた『寛永諸家系図伝』を手本としている。
『寛永諸家系図伝』も、(株)続群書類従完成会が1980年(昭和55)1月25日に第1巻を発行、1,400余家の大名・旗本を収録した16巻で、たしか、完結---というのは、各巻4,800円、長谷川家が載った第8巻でぼくとしては意を遂げ、第13巻で購買を挫折してしまったためである。

定信が30歳で加判列・老中上座に就いたのは、天明7年(1787)6月19日。
寛政5年(1793)7月23日に、将軍補佐、加判列を罷免された。
この在任期間のいつ、『寛政譜』の編纂を発令したのかは知らない。

定信罷免後は、その遺志を帯した若年寄・堀田摂津守正敦(まさあつ)が成就させたという。
堀田摂津守正敦は、近江国堅田1万石の藩主で、定信と同歳の盟友であった。

大名・お目見以上の格の旗本5,000を越える家々へ先祖書の提出令が発せられ、締め切りは寛政10年前後であったらしい。

池波さんが、『鬼平犯科帳』巻3の[あとがきに代えて]で、

長谷川平蔵は実在の人物である。
平蔵の家は、平安時代の鎮守府(ちんじゅふ)将軍・藤原秀郷(ひでさと)のながれをくんでいるとかで、のちに下川辺を名のり、次郎左衛門政宣(まさのぶ)の代になって、大和の国・長谷川に住し、これにより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長(まさなが)の代になってから、駿河(するが)の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元(よしもと)につかえた。
義元が、織田信長の奇襲をうけ、桶狭間(おけはざま)に戦死し、今川家が没落したので、長谷川正長は徳川家康の家来になった。
長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、
「奮戦して討死す。年三十七」
と、ものの本にある。

さすがに戦国時代の歴史に精通している池波さん、まことに手際よくまとめている。
最尾行の「ものの本」が『寛政譜』であることはいうまでもない。
が、後段、徳川軍団へ加わった正長が戦死したのは、長篠の戦い(1575 天正3)の2年前、1573年(元亀3)12月22日(陰暦)、浜松の北、三方ヶ原での武田信玄軍団との決戦においてである。

『寛永系図』は、

元亀三年十二月二十二日、遠州三方原(みかたがはら)の戦場において討死。三十七歳。法名存法。

『寛政譜』は、

元亀三年十二月二十二日三方原の合戦のとき、奮戦して討死にす。年三十七。法名存法(今の提譜に信香)。駿河国小川(こがわ)村の信香寺に葬る。

と記す。
戦死の状況は、どこにも記録がない。
三方ヶ原での戦死者を記録した諸書のリスト←ここをクリックし、5月7日まで降りる。

多分、他国からの新参者の常として、先陣に配置されて戦ったと推量している。

ある研究家は、首を打ち落とされた正長と弟の遺体を、遠州・三方ヶ原から武田軍の占領地である駿州・焼津在の小川村の信香寺まで運ぶのはなみたいていの苦労ではなかったろう---と推察していたが、遺体だったか遺骨・遺品だったかは、不明である。

信香院(曹洞宗)は、いまなお、長谷川本家の菩提寺。
360_32

360_41


〔鬼平〕クラスが信香寺(上・山門)へ墓参(下・正長の墓)・香華。

| | コメント (1)

2007.04.05

寛政重修諸家譜(1)

130_10未刊エッセイ集は年代順に編まれており、5冊目の『作家の四季』(講談社 2003.9.15)は、1983年(昭和58)から池波さんの最晩年のものまでの集である。
この第5集に[鬼平犯科帳・雑記]と題した一文がある。
歿する5年前の1985年(昭和60)の『オール讀物・増刊号』に掲載された。

徳川幕府が十四年の歳月をかけて、諸大名と幕臣の家系譜(かけいふ)を編(あ)んだ「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ) 全九巻を、ようやく手にいれたのは、約三十年ほど前だったろう。

と、書き始めている。
「約30年ほど前」とは、いつなのかを推定するために、書かれた年にこだわった。
1985年から30年前というと、1955年(昭和30)だが、「ようやく」との文言があるから、原稿料が入りはじめたころとみると、直木賞受賞(1960)前後と見たい。

いまは新版がでているが、当時は大正六年発行の栄進舎版の稀覯(きこう)本のみで、値段はたしか二十万円をこえていたとおもう。
そのころ私は芝居の脚本と演出で暮していたが、終戦後の全盛期を迎えた新国劇で、私の一本の脚本・演出料では、この本を買いきれなかった。
それだけに、これを手に入れるまでには二年ほどかかった。

直木賞を受けるまでも、この賞の候補にえばれた短篇を、池波さんは幾篇か書いているが、そのほとんどは〔新鷹会〕の『大衆文芸』誌で、原稿料はなかった。

私ごとで恐縮だが、1960年(昭和35)、ぼくは関西系の家電メーカーの宣伝部を、30歳で中途退職した。月給は4万円にはるかにおよばなかったようにおもう。
いや、私事はどうでもいい。

手にいれて、見ているうちに、私が心をひかれたのは、四百石の旗本・長谷川平蔵宣以(のぶため)の家譜であった。

130_9池波さんに、[長谷川平蔵年譜・基メモ]と題字した大学ノートがある。


最初の見開きページに、『寛政譜』の記述を家系図の形式に書き写している。
Photo_326

これをぼくは長いあいだ、長谷川伸師の書庫にあった栄進舎版『寛政譜』から心せかれて写したために見あやまり、鬼平の父・宣雄を祖父と並べてしまったと憶測してきた。

しかし、池波さんが手に入れた『寛政譜』から[基メモ]をつくったとすると、、せかせかと書き急ぐ必要はない。

とすると、栄進舎版の『寛政譜』が誤植していたのかも知れない---と、憶測の再検討を迫られているが、これはまだ果たしていない。栄進舎版を蔵しているところも、まだあたっていない始末だ。

120_12ぼくが所有しているのは、池波さんが「いまは新版がでているが---」と書いた、1964年(昭和39)2月25日に第1巻が発行された22巻もの、そして索引が4巻の続群書類従完成会版である。
ちなみに、ぼくの完成会版は第4刷、1巻が4,800円で、26巻で計12万5000円弱だった。

池波さんが求め、、いまは台東区の記念文庫に飾られている、表紙が濃い臙脂色の栄進舎版全9巻を、ぼくは仮に「臙脂(エンジ)版」と呼び、ぼくの所有している完成会版が橙色なので「橙(ダイダイ)版」と仮称しているので、以降はこの略称による。

「ダイダイ版」についている索引が、「エンジ版」にもあるのか、これも調べてみたいことの一つである。

| | コメント (6)

その他のカテゴリー

001長谷川平蔵 | 002長谷川平蔵の妻・久栄 | 003長谷川備中守宣雄 | 004長谷川平蔵の実母と義母 | 005長谷川宣雄の養女と園 | 006長谷川辰蔵 ・於敬(ゆき) | 007長谷川正以 | 008長谷川宣尹 | 009長谷川太郎左衛門正直 | 010長谷川家の祖 | 011将軍 | 012松平定信 | 013京極備前守高久 | 014本多家 | 016三奉行 | 017幕閣 | 018先手組頭 | 019水谷伊勢守勝久 | 020田沼意次 | 021佐嶋忠介 | 032火盗改メ | 041酒井祐助 | 042木村忠吾 | 043小柳安五郎 | 044沢田小平次 | 045竹内孫四郎 | 051佐々木新助 | 072幕臣・大名リスト | 074〔相模〕の彦十 | 075その他の与力・同心 | 076その他の幕臣 | 078大橋与惣兵衛親英 | 079銕三郎・平蔵とおんなたち | 080おまさ | 081岸井左馬之助 | 082井関録之助 | 083高杉銀平 | 088井上立泉 | 089このブログでの人物 | 090田中城かかわり | 091堀帯刀秀隆 | 092松平左金吾 | 093森山源五郎 | 094佐野豊前守政親 | 095田中城代 | 096一橋治済 | 097宣雄・宣以の友人 | 098平蔵宣雄・宣以の同僚 | 099幕府組織の俗習 | 101盗賊一般 | 103宮城県 | 104秋田県 | 105山形県 | 106福島県 | 107茨城県 | 108栃木県 | 109群馬県 | 110埼玉県 | 111千葉県 | 112東京都 | 113神奈川県 | 114山梨県 | 115長野県 | 116新潟県 | 117冨山県 | 118石川県 | 119福井県 | 120岐阜県 | 121静岡県 | 122愛知県 | 123三重県 | 124滋賀県 | 125京都府 | 126大阪府 | 127兵庫県 | 128奈良県 | 129和歌山県 | 130鳥取県 | 131島根県 | 132岡山県 | 133広島県 | 136香川県 | 137愛媛県 | 139福岡県 | 140佐賀県 | 145千浪 | 146不明 | 147里貴・奈々 | 148松造・お粂・お通・善太 | 149お竜・お勝・お乃舞・お咲 | 150盗賊通り名検索あ行 | 151盗賊通り名検索か行 | 152盗賊通り名検索さ行 | 153盗賊通り名索引た・な行 | 154盗賊通り名検索は・ま行 | 155盗賊通り名検索や・ら・わ行 | 156〔五鉄〕 | 157〔笹や〕のお熊 | 158〔風速〕の権七 | 159〔耳より〕の紋次 | 160小説まわり・池波造語 | 161小説まわり・ロケーション | 162小説まわりの脇役 | 163『鬼平犯科帳』の名言 | 165『鬼平犯科帳』と池波さん | 169雪旦の江戸・広重の江戸 | 170その他 | 172文庫 第2巻 | 173文庫 第3巻 | 174文庫 第4巻 | 175文庫 第5巻 | 176文庫 第6巻 | 177文庫 第7巻 | 178文庫 第8巻 | 190文庫 第20巻 | 195映画『鬼平犯科帳』 | 197剣客 | 199[鬼平クラス]リポート | 200ちゅうすけのひとり言 | 201池波さんの味 | 205池波さんの文学修行 | 208池波さんの周辺の人びと | 209長谷川 伸 | 211御仕置例類集 | 212寛政重修諸家譜 | 213江戸時代制度の研究 | 214武家諸法度 | 215甲子夜話 | 216平賀源内 | 217石谷備後守清昌 | 219参考図書 | 220目の愉悦 | 221よしの冊子 | 222[化粧(けわい)読みうり]