「布衣(ほい)」の格式
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、宝暦8年(1758)9月15日に小十人組の5番組組頭にすすんだ。
同家の『寛政譜』は、そのつづきに、同年12月18日に「布衣(ほい)を着する事をゆるさる」と記している。
小説の鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の『寛政譜』も、西丸・書院番士から、天明4年(1784)12月8日に西丸の徒頭に転じ、つづいて、同年同月16日布衣を着する事をゆるさる」と書く。
辰蔵こと平蔵宣教(のぶのり)の『寛政譜』も、寛政8年(1796)5月23日に西丸の小納戸に転じ、同年「12月23日布衣を着する事をゆるさる」と。
「布衣」は「官位」なのだ。江戸幕府の幕臣は「官位」と「家格」と「家禄」と「役職」を重んじていた。
正式の「官位」は、従五位下が最も低いが、「布衣」はその下---従六位に相当する。
ある人は、 「布衣」以上を、かつての勅任官扱いと見ている。
だから、この記述には重い意味がある。
小十人組 3番組頭・荒井十大夫高国(たかくに)の『寛政譜』を掲げるから、ご覧いただきたい。
「官位」の等級をあらわす代名詞のようになった「布衣」---じつは、公家(くげ)たちが狩のときに着用した「狩衣(かりぎぬ)」の柄のないものの呼称であった(右図:小学館『古語大辞典』「南紀徳川史」より)
喜多川守貞『守貞漫稿』は、図のような仕立てとしている。いま、神社の神職が正式の神事の時に「狩衣」のほうを着る。
宣雄が小十人組頭を発令された時の、同役たちが「布衣」を許された、その年月日を、2007年5月27日[宣雄、小十人頭の同僚]リストに付け加えてみる。
1番組 曲渕勝次郎景漸(かげつぐ) 1650石 35歳
宝暦7年7月1日→同9年1月15日目付
(布衣)宝暦7年12月18日
2番組 佐野大学為成(ためなり) 540石 61歳
享保10年(1725)12月1日小納戸
(布衣)同年同月18日
宝暦4年5月1日→明和1年9月28日先手組頭
3番組 荒井十大夫高国(たかくに) 250俵 49歳
宝暦6年2月28日→明和3年11月12日先手組頭
(布衣)同年12月18日
4番組 長崎半左衛門元亨(もととを) 1800石 44歳
宝暦8年7月12日→同10年6月23日目付
(布衣)同年12月18日
6番組 本多采女紀品(のりただ) 2000石 44歳
宝暦3年12月28日→同12年11月7日先手組頭
(布衣)同年同月18日
7番組 神尾五郎三郎春由(はるより) 1500石 39歳
宝暦4年5月28日→同9年11月15日新番頭
(布衣)同年12月18日
8番組 仙石監物政啓(まさひろ) 2700石 55歳
延享4年(1747)8月12日西丸徒頭
(布衣)同年1219日
宝暦3年3月15日→同12年4月15日先手組頭
9番組 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 1500石 49歳
宝暦2年4月1日→同10年1月11日差は先手組頭
(布衣)同年12月19日
10番組 山本弥五右衛門正以(まさつぐ) 300俵 58歳
元文4年(1739)9月22日田安家の館の用人
(布衣)同年12月16日
宝暦5年3月15日→明和1年9月25日卒
「官位」が授けられるのは、それに相応しい使番とか小納戸、徒頭などが発令された年の12月の中・下旬といっていい。11月下旬という例外も時にあるが。
「布衣」の受勲は、赤飯を炊いて祝い、上役の家へお礼の挨拶に出向いたであろう。
長谷川家の歴代で、平蔵宣雄以前に「布衣」へすすんだ仁は、一人もいなかった。宣以の「布衣」、宣教の「従五位下」へ道をつけた宣雄の功績は、自らの「従五位下」の受勲とともに、いくら強調してもしつくすということはない。
下叙の最終決定者は若年寄として、実際に下審査をする部署は未詳。
最近のコメント