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2007.04.11

寛政重修諸家譜(7)

池波さんが座右に置いていた栄進舎版『寛政重修諸家譜』は、池波正太郎記念文庫(台東区西浅草3-25-16 区生涯学習センター1階)の、復元書斎に展示されている。
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同館は撮影禁止なので、リーフレット表紙。

その『寛政譜』は、9冊セット。第9輯(しゅう)は、索引。
長谷川平蔵家は9冊の真ん中---第5輯(1917.11.30)の526ページからはじまっている。
第5輯の、それも、ほぼ真ん中あたりなので、開いておきやすい。
で、長谷川平蔵家がはじまる526~7ページを見開きにし、その左右に4冊ずつ、背表紙を立てて展示。
せっかくの配慮も、解説がつけてないし、照明がおとしてあるために、栄進舎版『寛政譜』の貴重さに気づかないで見過ごしてゆく参観者がほとんどのよう。

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掲出の526~7ページ見開き図版では、宣雄の父・宣有緑○宣雄赤○、宣雄の養父となった宣尹(のぶただ)とその養女となって宣雄を夫としてむかえた実妹青○を付した。

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部分拡大図版では、 『寛政譜』が付している家督相続線を意識的に太線に変えた。原典のままの細い横線は兄弟姉妹を示している。

『オール讀物』1968年新年号から、足元から鳥がとびたつようなあわただしさで『鬼平犯科帳』の連載がきまった第2話目[本所・桜屋敷]で、鬼平の家庭状況を説明しなければならなくなった池波さんは、10年ほど以前に作りかけにしていた[長谷川平蔵年譜 基メモ]ノートを取り出した(手書きの系図は2007年4月5日の『寛政譜(1)』 

130_12ノートしておいた家系図にしたがって、

五代目の当主・伊兵衛宣安の末弟が、平蔵の父・宣雄(のぶお)だ。
家は長兄・伊兵衛がつぎ、次兄・十太夫は永倉正武の養子となった。こうなると、末弟の宣雄だけに養子の口がかからぬ以上、長兄の世話になって生きてゆかねばならぬ。
長兄がなくなり、その子の修理(しゅり)が当主となってからも、宣雄はこの甥(おい)の厄介(やっかい)ものであった。

池波さんが『寛政譜』から作成した家系図では、宣雄は宣安の末弟になっている。
しかし、『寛政譜』を仔細に眺めると、宣安の末弟は宣有(のぶあり)であり、宣雄は、宣有の子である。

宣有も病弱で、養子の口がかからなかったから、結婚できなく、看病にきていた備中・高梁の松山藩の浪人・三原七郎兵衛のむすめに宣雄を身ごもらせた。

したがって、6代目を家督した修理宣尹は、宣雄にとっては、甥ではなく、5歳年長の従兄(いとこ)にあたる。
修理宣尹の妹(小説では波津)は、のちに宣尹の養女となり、宣雄を夫に迎える。本来なら従兄の宣雄を、形式的には叔父ということで婿にとった。

家名、俸禄をまもるためのややこしい家族関係を、『鬼平犯科帳』』を書きはじめるまでの10年間近く、池波さんは折りにふれ反芻していたろう。

だから、史実はどうあれ、池波さんが構築していた鬼平ワールドでは、宣雄はあくまで4代目宣就(のぶなり)の四男であり、すぐ上の兄が宣有であった。

ついでに記すと、連載の10年ほど前に準備したノートの表書きは、文字どおり[長谷川平蔵年譜 基メモ]であって、[鬼平犯科帳年譜 基メモ]ではない。「鬼平犯科帳」という通しタイトルは、『オール讀物』1968年新年号の連載開始時に考案されたものだ。

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コメント

べつに、ほめてもらわなくってもいいけど、見せ方をいろいろ工夫して、理解が及ぶようにしているところぐらいは、買ってください。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.11 15:12

森下の講座を彷彿させるブログですね。

先生の指示に従って「寛政重修諸家譜」に赤や青のドッドマークをつけていきました。

鬼平を全巻読んだ人でも「寛政重修諸家譜」まで読んだ人はいくらもいないでしょうね。

投稿: 靖酔 | 2007.04.11 18:02

すみません、実は今まで頭でわかったつもりでいてもピンと来ていなかったのですが、カラーの丸を付けて頂いてやっとからだで呑み込めてきました。

池波さんが、緑丸の宣有とその左の赤丸の宣雄の間柄が「父子関係」であることを示す、宣有の名前の下から宣雄の名前の上につながる横S字型の線を見落として、宣有と宣雄が「兄弟関係」であると勘違いしていたという推測がこれまでなされていた。しかし現在ポピュラーに参照されている国書刊行会版と池波さんが所蔵していた栄進舎版の間に異同があったとすればそれは池波さんに責任がある勘違いではなく、栄進舎版の校正者の責任(?)ということになります。

ですが実際に栄進舎版をチェックできたことで、この勘違いの原因は別に栄進舎版に「誤記」があったからではなく、そもそも池波さんが[長谷川平蔵年譜・基メモ]を自作した時点で「誤写」していたことに縁る、と今回の探索で決定的に証明できたことになりますね。(栄進舎版の第一巻冒頭の編者序の記述からわかるように、この版が予約販売であるという事実から、それが他に改刷された可能性のない一回限りの版であって、池波さんが別の誤記がある版などを目にしたわけではなかったと推測するのは、別に台東区の記念文庫の復元書斎の栄進舎版を見なくても妥当な推定ですし。)

オニヘイアンの皆様にとってはなんともアイロニカルですが、池波さんが「鬼平犯科帳」の構想よりもかなり早い時期から長谷川平蔵宣以に注目し、『寛政譜』という一次資料からわざわざ自分で抜き書きしたコンパクトな二次資料を自作して手元に置いていたが故に、「いちばん最初の誤写」に気づかないままで聖典が執筆されてしまったと言えるのではないでしょうか。

もし池波さんが一巻ごとが非常に大判で分厚く重い全九巻の栄進舎版(図書館の棚から持ち出すときに重かった!)ではなく、もっと手軽に手元で読める全二十六巻の国書刊行会版を所蔵していたら(二つの版の情報内容は同じ『寛政譜』でも、現物を比べると版型・厚みからいって、とても栄進舎版は気軽には読めません)、あるいは頻繁に自分の書庫で一次資料である原典の『寛政譜』をチェックできて、宣有・宣雄父子を兄弟と勘違いしたことに気付いたかも知れません。その意味では、池波さんが利用した資料の物理的な特性が非常に運命的な「勘違い」につながったと言えましょう。

これを書きながら、ああそういう意味があったのか、とやっと呑み込めてきました。なるほど!

投稿: えむ | 2007.04.11 18:27

ご指摘の通り池波さんが「長谷川平蔵」という人物に興味を持ったのは鬼平を書く前かなり早い時とエッセイで読みました。

自分の文体がまだ長谷川平蔵を書くには相応しくないとあたためていたようです。

ノートの表題が[鬼平犯科帳]ではなく[長谷川平蔵]であることがそれを示してます。

投稿: 靖酔 | 2007.04.11 18:41

新事実、発見 ! と思ったのですが残念。でも、「看病にきていた備中・高梁の松山藩の浪人・三原七郎右衛門のむすめに宣雄を身ごもらせた。」は、どのようにして調査されたのですか?ついでに、もう一つ質問。「完本池波正太郎大成 別巻」Literatureノート(p547)に「春画 長谷川平蔵生い立ち」(昭和36年4月26日)とありますが、「江戸怪盗記」以前に長谷川平蔵に触れたものがありましたでしょうか?

投稿: パルシェの枯木 | 2007.04.11 22:53

>パルシェの枯れ木さん

三原七郎兵衛のむすめが宣雄を身ごもった1件のおおよその経緯は、4月12日の当ブログに記しました。

もう一つのご質問。
[江戸怪盗伝]より以前に、長谷川平蔵に触れたものはありません。
しかし、(昭和36年4月26日)というと、池波さんは38歳。長谷川伸師の門下に入って10数年。
30歳前後に、長谷川平蔵を発見したとエッセイにあります。
そのことは、プロデューサー・市川久夫さんのエッセイに、そのころ、長谷川伸師が「池波が長谷川平蔵をしきりにしらべているようだよ」と漏らされたとか書いています。
それで池波さんは安心して、(昭和36年4月26日)に、長谷川伸師へ、春画に平蔵をからませて質問したのではないでしょうか。
久栄との初夜に見せようとの短篇の構想でもあったんですかね、

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.12 07:47

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