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2007.06.08

「布衣(ほい)」の格式

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、宝暦8年(1758)9月15日に小十人組の5番組組頭にすすんだ。
同家の『寛政譜』は、そのつづきに、同年12月18日に「布衣(ほい)を着する事をゆるさる」と記している。

小説の鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の『寛政譜』も、西丸・書院番士から、天明4年(1784)12月8日に西丸徒頭に転じ、つづいて、同年同月16日布衣を着する事をゆるさる」と書く。

辰蔵こと平蔵宣教(のぶのり)の『寛政譜』も、寛政8年(1796)5月23日に西丸小納戸に転じ、同年「12月23日布衣を着する事をゆるさる」と。

「布衣」「官位」なのだ。江戸幕府の幕臣は「官位」「家格」「家禄」「役職」を重んじていた。
正式の「官位」は、従五位下が最も低いが、「布衣」はその下---従六位に相当する。
ある人は、 「布衣」以上を、かつての勅任官扱いと見ている。
だから、この記述には重い意味がある。

小十人組 3番組頭・荒井十大夫高国(たかくに)の『寛政譜』を掲げるから、ご覧いただきたい。
Photo_375

Photo_376

Img051「官位」の等級をあらわす代名詞のようになった「布衣」---じつは、公家(くげ)たちが狩のときに着用した「狩衣(かりぎぬ)」の柄のないものの呼称であった(右図:小学館『古語大辞典』「南紀徳川史」より)

喜多川守貞『守貞漫稿』は、図のような仕立てとしている。いま、神社の神職が正式の神事の時に「狩衣」のほうを着る。
Img053

宣雄が小十人組頭を発令された時の、同役たちが「布衣」を許された、その年月日を、2007年5月27日[宣雄、小十人頭の同僚]リストに付け加えてみる。

1番組 曲渕勝次郎景漸(かげつぐ) 1650石 35歳
      宝暦7年7月1日→同9年1月15日目付
      (布衣)宝暦7年12月18日   

2番組 佐野大学為成(ためなり) 540石 61歳
      享保10年(1725)12月1日小納戸
      (布衣)同年同月18日
      宝暦4年5月1日→明和1年9月28日先手組頭

3番組 荒井十大夫高国(たかくに) 250俵 49歳
      宝暦6年2月28日→明和3年11月12日先手組頭
      (布衣)同年12月18日

4番組 長崎半左衛門元亨(もととを) 1800石 44歳
      宝暦8年7月12日→同10年6月23日目付
      (布衣)同年12月18日

6番組 本多采女紀品(のりただ) 2000石 44歳
      宝暦3年12月28日→同12年11月7日先手組頭
     (布衣)同年同月18日

7番組 神尾五郎三郎春由(はるより) 1500石 39歳
      宝暦4年5月28日→同9年11月15日新番頭
      (布衣)同年12月18日

8番組 仙石監物政啓(まさひろ) 2700石 55歳
      延享4年(1747)8月12日西丸徒頭
      (布衣)同年1219日
      宝暦3年3月15日→同12年4月15日先手組頭

9番組 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 1500石 49歳
      宝暦2年4月1日→同10年1月11日差は先手組頭
      (布衣)同年12月19日

10番組 山本弥五右衛門正以(まさつぐ) 300俵 58歳
      元文4年(1739)9月22日田安家の館の用人
      (布衣)同年12月16日
      宝暦5年3月15日→明和1年9月25日卒

「官位」が授けられるのは、それに相応しい使番とか小納戸徒頭などが発令された年の12月の中・下旬といっていい。11月下旬という例外も時にあるが。

「布衣」の受勲は、赤飯を炊いて祝い、上役の家へお礼の挨拶に出向いたであろう。

長谷川家歴代で、平蔵宣雄以前に「布衣」へすすんだ仁は、一人もいなかった。宣以「布衣」宣教「従五位下」へ道をつけた宣雄功績は、自らの「従五位下」受勲とともに、いくら強調してもしつくすということはない。

下叙の最終決定者は若年寄として、実際に下審査をする部署は未詳。

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コメント

こうやって、一人ずつ(布衣)を受けた年月日を調べていくから、その年の12月---という、これまで、だれも指摘したことのない発見にたどりつきます。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.08 10:17

「布衣」と「足(たし)高」---インセンティブを高める妙手。とくに、前者はお金がかからない。

投稿: ちゅうきゅう | 2007.06.08 14:35

そうですね。みんな12月です。そしてお正月には布衣を着て登城するのでしょう。布衣は折烏帽子ですね。

宣雄も宣教も後に「従五位下」を受勲してますから、平蔵宣以も、もう少し長生きしていたら「従五位下」を受勲した可能性がありますね。

それにしても新しく「従五位下」を受勲するのには並外れた品行、学問、武術、功績が必要と思いますが・・
宣雄ってどんな人物だったのでしょう。

「鬼平犯科帳」にはあまり詳しく書かれていないようですが、池波さんはあまりご興味がなかったのでしょうか。

投稿: みやこのお豊 | 2007.06.08 22:09

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