目あかしの使用の禁止
『徳川実紀』宝暦9年(1759)8月30日の項で発見した『憲教類典』からの記録(現代語訳。《 》補足)。
この月に令されたのは、火賊考察を奉ずる者は、今までさだかなる申し送り《の取り決め》もなく、先輩のはからいしさまを推察したり、あるいは自分なりの所存を加味するので、措置が一定しないとの報告がある。
向後は、仕来りのようになっていることでも、不適切と思えることは改更し、判断がつき難いことは奉行所での判例を問いあわせ、それでも決めがたいとは《評定所に》伺って規格をさだめること。
また、囚徒などが病気が篤いというので治療を手当てする時か、また、わけあって近くの非人の小屋へ預けおくこともあるよし。今後は伝馬町の獄屋、浅草溜のほかに、宿らしてはならない。
囚徒などが指口(さしぐち)したいと申し出に、蜀吏などを添えてその賊を捕らえ、指口した者で軽科なのは放免し、重科な者の場合はどのくらい刑を軽くしてやっていいかと伺いを立ているようだが、だいたい、目あかしなどというものがあってはならない。
しかし、指口した者と目あかしの類とは異なるといいわけをして処置しているようだが、吟味によって白状した仲間を逮捕することはあっても、囚徒が罪の代償として指口するのは、名目は異なっていても、実は目あかしと同じことである。
今後は、指口をした時、蜀吏とともに逮捕の場へ行かせることは停止すること。
以上の趣旨を心得て、火賊改メの職を奉ずる輩(やから)にも、きっと申し伝えること。
この令は、長谷川平蔵宣以(のぶため)---鬼平が火盗改メ助役に就任する28年前に発せられている。
史実の平蔵の政敵で、平蔵が病床にある時に火盗改メ本役の臨時役、そして平蔵没後に後任者となった森山源五郎孝盛(300石と廩米100俵)が、エッセイ集『蜑(あま)の燒藻(たくも)』で、平蔵が密偵を使って逮捕成績を上げたことを、口をきわめて弾劾した論拠である。
この令が、『御触書集成 宝暦編』 (岩波書店 1935.3.25)に収録されているかと思い、あたってみたがみつからなかった。
『憲教類典』は、機をみて所在を探す。
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