隣家・松田彦兵衛貞居
寺島村での新婚の7夜を終えた銕三郎(てつさぶろう 24歳)と新妻の久栄(ひさえ17歳)が、三ッ目通りの長谷川邸へ戻ってみると、おどろくようなことがおきていた。
隣家・松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)が、火盗改メ・本役についていたのである。
前任・長山百助直幡(なおはた 58歳 1350石)は、明和6年6月13日に本役を解かれて平常の先手・鉄砲(つつ)組の4番手としての任務に復し、同日づけで同じく鉄砲組の2番手の組頭・松田彦兵衛が火盗改メの重責を引き継いだ。
長山組の筆頭与力・佐々木与右衛門(よえもん 52歳)から、銕三郎のことを申しおくられていた松田組の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 50歳)が、銕三郎の帰館を待ちかまえていたように、使いをよこしてきた。
額ぎわから髷(まげ)をのせたあたりまですっかり陽にやけた頭をさげた土方与力は、
「わが組も与力が6人と手薄のうえ、30年このかた、このお役に就いておらんので、ほとんどの組子が未経験という始末。なにぶんにも、ご支援願いたい」
「隣家同士ですから、できるかぎりのお手伝いをこころがけますが---」
「お手当てのことはご心配なく---」
「それもありますが、拙はご公儀から任じられてはおりませぬゆえ、捕り物には加わるわけにはまいりませぬ。お含みおきくださいますよう」
「ごもっとも、ごもっとも」
銕三郎は組頭の松田自身が顔を見せないことに、いささかの危惧の念をいだいたが、とにかく、隣家ということで、助力することにして、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の8番手組頭)に報告した。
「隣家のことゆえ、頼まれれば 引きうけざるをえまい。したが、隣家ゆえ、失敗はゆるされないぞ。こころしてたずさわれ」
余計な風聞をたてるからそういうことになるのだ、と叱られるのを覚悟していた銕三郎は、予想に反したいましめの言葉に安堵した。
寝間で久栄に父の言葉を聞かせると、
「舅(しゅうと)どのは、そなたさまの性分をよくご存じなのでございますよ」
早くも、舅どの、そなたさまと、17歳の新妻らしくない、5年も8年も添いとげた古女房じみた言葉でうけられたので、銕三郎が唖然として、久栄の顔を見直した。
(女房になってしまうと、かくも変わり身があざやかになるものか)
が、抱いてみると、やはり新婚1ヵ月すぎの、幼稚な身応えしか示さない新妻であった。
もっとも、銕三郎も、初手から教えこむことはひかえている。
新夫婦のために離れが増築されたとはいえ、母屋へまで派手な睦み声がもれるのは、いくらになんでも早すぎよう。
(嘉永4年の南本所・近江屋板より。赤○=遠山家下屋敷、青〇=松田家
遠山家は下屋敷として長谷川平蔵宣以の孫から購入 近江屋板)
【ちゅうすけ注】滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 1982.1.20)に、
「平蔵にとって由緒の深い本所の屋敷は、本所二ッ目(ママ)のどこであるか、またその屋敷跡は現在どうなっているか。私はそれを突きとめたいと思って、その調査を京橋図書館の安藤菊二郎氏に依頼した。安藤氏は熱心に江戸の切絵図を調べて、その場所を突きとめ、屋敷地は現在江東区菊川三丁目十六番地となっていることを報告してくださった。(略)
次に掲げる絵図は、『本所深川地図』と称するものであるが、これは明和元年以後のものとみえて、横川三之橋通角屋敷に「長谷川平蔵」と明記せられている」
【ちゅうすけ注】なお、上記書の中公文庫版(1994.7.10)には図版は省略されているから要注意。
人文社の復元尾張屋板の切絵図も遠山金四郎の屋敷となっている。
(赤〇=長谷川平蔵(宣雄?)、青〇=松田彦兵衛)
【参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 9)
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