カテゴリー「006長谷川辰蔵 ・於敬(ゆき)」の記事

2011.11.26

月輪尼、改め、於敬(ゆき)(4)

「於(ゆき)。そなたは橋場の石浜神明の神官・鈴木大領知庸(ともつね)の養女から、幕臣・永井亀之助安清(やすきよ 52歳 400俵)の次女として、わが家にもらわれることになった。いや、もう、養女としてとどけられておろう」
「はい」

祝い酒を久栄(ひさえ 34歳)にいいつけた平蔵(へいぞう 40歳)が、辰蔵(たつぞう 16歳)と月輪尼(がちりんに 24歳)改め於(24歳)に注いでやりながら、
辰蔵。おぬしの許嫁(いいなずけ)が7歳も若返った祝いである」
「は----?」

永井家は、小普請組頭への養女縁組届けに、17歳と書きまちがえおったのじゃ。わっ、ははは」
「お父上。うれしゅうございます」
が酌を返し、目じりをぬぐった。

「一つ齢上の女房は金の草鞋(わらじ)を履いてでもさがせ---と巷間に申しますのに、辰蔵はいながらにして----ほんにようできた親ごさまでありますこと」
久栄が祝辞とも皮肉ともつかないことを口にした。

「いや、久栄。七つちがいは賢妻というぞ」
「聴いたことはございませぬが、おくんなどもが放っておいてくれない旦那どのには、賢妻でなければ勤まらないかも---」
「祝いの酒だ、久栄も酌(く)め」
「酔いつふれてもよろしゅうございますか?」
「嫁どのが世話をみてくれようぞ」

「於永井家のことは放念してよろしい。長谷川家で育ったように振舞ってくれ。万事は久栄が教えてくれようほどに」
あくまで久栄をたてた。

その夜。
平蔵与詩(よし 28歳)を書見の間へ呼び、
「そなたが三木家の者かかわりであったことが於に幸いした。これは、われからのこころばりの礼である。着物なり頭の飾りものなり、好きに費(つか)ってくれ」

包まれていたのは10両(160万円)であった。

与詩の継母であった志乃(しの 47歳)に会ったことは告げなかった。

参照】2008年1月6日[与詩(よし)を迎えに] (16

長谷川家の離れのことは報らせるまでもなかろう。
が、熱演の糸口になった於の台詞だけは推測できる。

(たっ)つぁん。17歳の処女(おとめ)を試してみる---?」

が閨で平蔵の「へ」も出さなかったのも賢明であった。

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2011.11.25

月輪尼、改め、於敬(ゆき)(3)

「---------」
平蔵(へいぞう 40歳)は、朝倉家(300石)の後家・志乃(しの 47歳)の返答を待ち、じっと瞶(みつめ)ていた。

「---------」
志乃志乃で、まばたきもしないで平蔵を見返していた。
その表情の裏で、したたかになにかを計算しているらしいと読んだ。

数瞬がながれたとき、永井家の後家・伊佐(いさ 68歳)が、歌うようにつぶやきはじめた。
永井の家はの、右府信長)公ご不慮のおり、伊賀越えなされた権現(家康)さま、白子の浜から三河の大浜へお着きになった。それをお出迎えし、ご餐をたてまつった家柄じゃ」

参照】2007年10月20~日[養女のすすめ] () (10

「大本家のことをいうなら、わたしが嫁いだ朝倉のご先祖は、天子さまの皇子(みこ)にはじまり、越前の太守でしたよ」
応じたのは志乃であった。

参考朝倉家と朝倉義景

(あ、家柄をいいたて、値段をつりあげようと図っている。痴耄(ちもう)は擬態であったか---)

「むつかしい話なら、ほかにもこころあたりがあるから、これにて打ちきろう」
平蔵が手をうち、〔五鉄〕の亭主の三次郎(さんじろう 36歳)を呼ぼうとした。

「お待ちを---」
志乃が止め、伊佐とうなずきを交わし、
亀次郎(かめじろう 53歳)に50両(800万円)、わたしに10両(160万円)---」

首をふった。

「30両(480万円)と5両(80円)では---?」

平蔵が肯(がえん)じないとみると、
「10両(160万円)と3両(48万円)

懐から用意しておいた書付けをだした。
それには、5両(80万円)と1両(16万円)を借用と、伊佐志乃の記名箇所、証人として目付・池田修理長恵(ながしげ 41歳 900石)の署名と花押があった。


ちゅうすけのひとり言】たまたま手にした史料から、水戸徳川の支家・守山藩主が歴代大学頭に叙されていたとわかった。
道理で、『寛政重修諸家譜』の「称呼索引」に引っかかってこなかったわけだ。

寛政譜』が編まれた時代、大学頭といったら守山藩主、とみんなが察していたらしい。

これで数年越しの疑問が氷解し、図書館で守山藩のデータをコピーして帰ったのだが、こんどはヒントをくれた史料がどれだっか、思い出せない。
コピーした守山藩のデータには、藩の要職者に三木姓はいなかった。

守山藩主は常時在府ときめられており、上屋敷は現在の春日通り・大塚車庫前から一筋へ入った桜の巨樹並木の東の教育の森センターの一帯。

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(庭園が現在は教育の森となっていることを告げる銘板)

この地は、徳川光圀の弟、徳川頼元が万治元年(1659)屋敷とした。その子頼貞は元禄13年(1700)常陸の国)(茨城・行方)と陸奥(守山)3郡2万石をうけ守山藩主として大学頭を名のった。邸内敷地6万2千坪という。
氷川下の低地にある池は当時吹上邸として有名な占春園の名残りである。
ホトトギスの名所であったという。
明治36年東京高等師範学校がお茶の水(現医科歯科大学の所在地)よりここに移転してきた。戦後東京教育大学・筑波大学へと発した。
昭和59年区民の念願により旧東京教育大学跡地のうち、約29ヘクタールの払い下げをうけ、区民の憩いの場・防災広場・スポーツセンターとして活用するため、都心の緑の地として設計した。
そしてこの由緒ある地を『教育の森公園』と命名した。
  昭和62年3月   東京都文京区教育委員会  

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(ゆったりと憩う人たち)

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(旧守山藩邸跡の文京区スポーツ・センターや占春園の案内図)


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2011.11.24

月輪尼、改め、於敬(ゆき)(2)

「いかがでござろう---?」
平蔵(へいぞう 40歳)の問いかけに、永井家のおばば・伊佐(いさ 68歳)は、深い皺がきざまれている口元をもぐもぐさせ、
「わたいが17歳で三之丞安静 やすちか)どのに嫁いだときは、あちらはひとつ下の16歳でのう。初心(うぶ)なくせに元気だけは勇ましゅうて、とんでもないところを突いてこられて、おかしいやら、情けないやらで---」

(いかん、痴耄(ちもう)がはじまっておるようだ)

隣りの志乃(しの 47歳)があやまり、伊佐の耳元へ口を寄せ冷(さ)めた声で、
「姉上。お訊きなのは初めての晩のことではありませぬ。亀次郎安清 やすきよ 53歳)どのの意向です」

亀次郎? だから、あれは、やっとうまくいき、その晩に種づいたのよ。三之丞どのが放たれたときは、真冬だというに汗まみれであったわ。け、けけけけ」
初夜の房事でみごもったことが自慢であったらしい。

「その後は、まったく産めなかったくせに---」
志乃が小さくつぶやいた。
自分は、朝倉仁左衛門景増(かげます 享年61歳)の児を2人なしたことを誇りにおもっているらしかった。

参照】200年8月17日[与詩(よし)を迎えに] (18

もっとも、家女に産ませた2女を育てさせられたが---。

三之丞安静永井家の次男であった。
家は長男の助次郎治元(はるもと 享年23歳)が継いでいたが、病身で、いずれ、弟の三之丞が家督すると目算していたので、未嫁(みか)の助次郎をさしおき、伊佐が娶(めと)られた。
つまり、伊佐は部屋住みの三之丞に嫁(か)するという、当時としては異例の婚儀であった。

300坪に足りない屋敷は南本所林町5丁目横町にあり、長谷川邸からも朝倉家からも1丁半(160m)と離れていなかった。

亀次郎が誕生して2年後の12月に、助次郎治元は妻なし子なしのまま逝った。
三之丞安静に遺跡相続の許しが与えられた。
伊佐は、正式に400俵の幕臣の内室の地位にすわった。

遺跡を継いだ安静は、3年目、21歳で西丸・小姓組番士として出仕したが30歳になってすぐに命がつきる前の数年間は、病気休仕届けをだす期間が多かった。

一人っ子の亀次郎安清(やすきよ)に、53歳にいたるまで、出仕の呼び出しがなかったのは、病弱というよりいささか痴呆の気味があったためであろうと推察している。

それでも子どもだけは6人もなしているが、正室は娶っていない。

平蔵が着目したのは、そこであった。

「姉は、承知してくれているのです。ただ、亀次郎どのがのろはのろなりに金次第と申しておりまして---」
姉を見かぎった志乃が代弁した。
(それを聴くためのしゃも鍋でもあった)

平蔵は黙って志乃の目を瞶(みつめ)た。

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(安静・安清の「寛政譜」)

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2011.11.23

月輪尼、改め、於敬(ゆき)

月輪尼(がちりんに 24歳)は俗名・於(ゆき)に戻り、三ッ目の通りの長谷川邸の離れで、津紀(つき 2歳)と暮らしているが、於のことを、
「ちいおば」
と呼んで、ときどき乳房をふくませてもらっていた。

離れにいたお(たえ 61歳)は、孫の辰蔵(たつぞう 16歳)がつかっていた部屋へ移った。

婚儀の披露目はまだしていない。
親族へは、於の頭髪が伸びるのを俟(ま)って、と伝えていた。
人別は、浅草の北、橋場の石浜神明の神官・鈴木大領知庸(ともつね)の養女であった。

幕臣の養女へ形だけ転じる下準備は、平蔵(へいぞう 40歳)が万端すすめている。

参照】2011年11月12日[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (11

は普段は頭髪が短いことを人目にはさらしたくないとみえ頭巾で覆っているが、登城する平蔵久栄(ひさえ 33歳)とともに見送るときは、頭巾をとった。

3寸(9cm)ばかりにまでのびてきている頭を目にするたびに、平蔵は話をすすめなければと思った。
下城の途次、南本所林町3丁目というより五間堀・伊予橋東といったほうが近い朝倉邸を訪れ、先代の残され人となっている志乃(しの 47歳)を打診していた。

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(南本所五間堀・伊予橋東の朝倉家)


参照】2008年1月5日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (18

志乃とは、22年前、銕三郎(てつさぶろう)が18歳、駿府の町奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 享年61歳)のむすめ・与詩(よし 6歳=当時)を養女にもらいうけに出向いたとき、その役宅で会った。

会ったといっても、ほんの半刻(1時間)ほど言葉を交わしただけだったが。
そのとき、景増は死の床にあり、志乃はその3人目の室であった。
看病と先妻や家女や自分が産んだ子の世話にまぎれ、齢よりもやつれていた。

平蔵にとっての25歳の後家といえば、銕三郎(てつさぶろう 14歳)をはじめて女躰に導いてくれたみずみずしい肌のお芙沙(ふさ 25歳)---

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

さらには、戒律を犯してまで銕三郎と情欲をともにして散った貞妙尼(じょみょうに 25歳)

参照】2009年10月13日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (

そして、光が透けるほどに白い肌を桜色に上気させて高みに達した里貴(りき 29歳)---

参照】2010年1月19日[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (

22歳の銕三郎に、1年以上もあれこれの性技を授けてれたお(なか 33歳)---

参照】2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (

2児を育てながに与板で大店の廻船問屋を支えていた家つき後家だったお佐千(さち 34歳)
参照】2011年3月18日~[与板への旅] (14) (16

みんな、おんなっ気をたっぷりたたえていた。

ところが25歳で後家となった志乃はそれきり男気を絶って47歳まできたらしく、細く、艶のない躰つきは、7歳しか違わない平蔵の目には、まさに老婆であった。

朝倉の家は、脇腹が産んだ主殿光景(てるかげ 55歳 書院番士)が継いでいたが、この仁は無欲であったか凡庸であったか、家禄300石をまもるのが精一杯であった。
継母の志乃はそれが不満らしく、平蔵に愚痴をもらしてばかりであった。

その宵、平蔵志乃をしゃも鍋〔五鉄〕の2階へ招いていた。
もう一人、老婆がいた。
永井三郎右衛門安静(やすちか 享年30歳 400石)の後家・伊佐(いさ 64歳)で、男っ気断ちのくらしを40年もつづけていた。

2人は、陸奥・守山藩主の松平大学頭頼寛(よりひろ 2万石)の家臣・三木久大夫忠位(ただたか)のむすめであった。

平蔵が体験してきた後家は艶っぽい思い出ばかりだが、目の前の2人は干からびた筋のようで、おんなという字をとうに捨てている老婆であった。

あらかじめ三次郎(さんじろう 36歳)に、招いているのは婆ぁさんたちで歯も欠けていようから、しゃもはたたいて団子に、葱も細く裂いておくようにいいつけておいた。

婆ぁさんたちがいちばん舌つづみをうったのは、やわらかい肝の甘醤油煮であった。

酒はもっぱら平蔵が呑んだ。
鍋は半分もすすまなかった。

「いかがでござろう、永井のおばばどの---?」

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2011.11.12

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(11)

「うち、初瀬(はせ)へはゆきまへん。江戸へ戻ります」
翌朝、月輪尼(がちりんに 24歳)が宣言し、ふっともらした。

「2年近く前、(たっ)つぁんに術をかけて法悦をむさぼったあの部屋でのこころの中の長谷寺は、桜花ざかりやった」

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(五重塔と桜花)

それが、呼び出しがかかって波羅夷(はらい 犯戒)罪を予感してからの長谷寺の心象は、寒々しい雪景色だと。

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(雪景色の長谷寺の庵への道)


「長谷寺へ帰らないのはいいとして、護持院の蓮華庵に戻ることはできまい?」
案じた辰蔵(たつぞう 16歳)に、
(たっ)つぁんと、いっしょに暮らしまひょ」
「うーむ」
「おいや、どすか?」
「そうではない」

月輪尼のいい分は聴くまでもなくわかっていた。
これほど庶民が困っているのに、新義真言宗の本山の僧たちは戒律だの宗律だのにこだわり、おのれたちの権威の保持を考えているだけだ、というのであろう。

「よし。引き返そう」
青みが増している尼の頭を掌でなぜて辰蔵が、
「江戸を発(た)ってより一度も剃らないから、帰俗(きぞく)する気だなとはおもっていた」
「尼頭巾かぶってましたのにぃ---?」
「毎夜、抱いて触れていたではないか」
「ほんに---そやけど、あんときは、っつぁんの指がくると、なんにもわからへんようになるよって---」

月輪尼の頭には半分(はんぶ 1.5mm)弱の毛髪がのびていた。
「じつは、夜ごと、ここに触れるたびに、帰俗して髪を結(ゆ)った裸の:敬尼(ゆきあま)をおもいうかべて昂(たか)ぶっておった」
「髪を結ったら、もう、敬尼やおへん。ただのどす」


4日後、戻ってきた2人を迎えても、平蔵(へいぞう 40歳)は驚かなかった。
「そうか。安中(あんなか)宿で決めたか。その先の碓氷(うすい)峠で月魄(つきしろ)が脚を痛めなければよいがと案じておった」
「父上は2人のことより、月魄の脚が心配でしたか?」

平蔵の応えに、敬尼が喜悦した。
還俗(:げんぞ)した於敬(ゆき)は、とりあえず、橋場の石浜神明の神官・鈴木大領知庸(ともつね)の養女となって仏籍を消す。

「そのことは、月番の寺社お奉行・堀田相模守 正順 まさなり 36歳)さまのお許しを得ておる」

月輪尼が破戒ではなく::還俗のあつかいになることは、護国寺の管長が内諾をくだした。

「あとは、石浜神明から旗本の家の養女に転じ、わが長谷川家の嫡子の室となる資格を得るばかりじゃ。その話は、どのの還俗の決心)を聴かないことには進められなくてな」
「お舅(とう)さま-----」
月輪尼が泣き伏した。

津紀(つき 2歳)も待ちかねておろう。いっしょに湯につかり、洗ってやれ」

参照】2011年10月30日[石浜神明宮の神職・鈴木氏] 
20071020~[養女のすすめ] () () ()

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2011.11.11

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(10)

湯をつかってきた辰蔵(たつぞう 16歳)が、隣りへはいってき、口をあわせた。
「酒くさ---」
「3杯だけであった」
「それでも、臭(くそ)おす」

:敬(ゆき)は口をつけなかったからな」
「これでも、尼やよって---う、ふふふ」
「そういえば、庵(あん)でもわが屋敷でも口にしたことがなかった」
「葷酒山門に入るを許さず---」

「酒気をおびておると、この門も入るを許されず、か?」
「大人っぽい冗談いうて---入らんと、すませられる?」
「すませたら---?」
「いやや」


平常は酒を口にしない辰蔵であったが、九蔵(くぞう 41歳)元締のすすめ上手にほだされ、3杯ほどあけただけであったが、湯で全身に酒がまわったのであろうか。
(たっ)つぁん、いつもより、永うおしたえ」
「いやか?」
「ううん。ええがってたの、わかった?」
「感じた」
「---このさき、閨酒(,ねやざけ)、したら?」
もふくめば、酒臭うはおもわぬかも---?」
「地獄に落とされるんやったら、ひとつ破戒するもふたつするもいっしょですやろなあ」


安中宿までは5里27丁(23km)。
高崎城下をでると碓氷川が左手に見えたり離れたりの、かすかな上り道になっていた。

「昨日あたりから、気の毒に、もの乞(こ)い人が目につきます」
月輪尼(がちりんに)が数珠をまさぐりながら眉をひそめた。

「1年半前の浅間山の山焼けで、家や田畑を失った者たちであろうか」
「お上(かみ)や比丘(僧侶)はんらは、なんしてはんねやろ」
「仕事はおいそれとは見つかるまい。できることは田畑づくりであろうから---」
「比丘尼がひとり、犯戒したからゆうて、江戸から初瀬(はせ)まで呼びもどすお宝で、何人のもの乞い人がおまんまにありつけることやら---。本山のありようは間違うてる、おもいます」

月魄(つきしろ)が敬尼(ゆきあま)のことばに同意するかのように首をふり、喉音を発した。

第4泊の安中で、脇本陣の〔須田屋〕にわらじを脱いだとき、陽は近くの山の頂からずっと上にあった。

はやばやと湯をつかった月輪尼が、手拭いを辰蔵へわたしながら、裏口に何人もへたりこんでいたので、宿に訊くと、客の食べのこしが捨てられるのを待っている,のだといい、
「きびしいことになってもうてい、子ぉらも痩せこけて-----お上がやってはる施しどころだけやと間にあわへんらしおす」

辰蔵が湯から戻ってみると、配膳された飯櫃(ひつ)から敬尼は握り飯を2ヶつくり、鉢にとりわけ、
「酒の分だけ、おまんまを減らしまひょ、な」

この宵はも盃をいくつかかさね、かなり酩酊し、口をあわせても酒臭いとはいわず、永々とまさぐっていた。

月魄(つきしろ)の飼葉代36文(1440円)との控えがのこっている。


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2011.11.10

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(9)

第3泊は、高崎の手前の落合新町の脇本陣〔三俣(みつまた)屋〕に宿をとった。
江戸から23里14丁(94km)。

月魄(つきしろ)は幸吉(こうきち 20歳)をせきたてるようにし、宿の裏手の烏(からす)川へ青草を食(は)みにいった。
もちろん、辰蔵(たつぞう 16歳)は宿主へ3日分の飼料の手くばりを頼んだ。
明後日の碓氷峠越えにそなえたのである。

宿への手前もあり、風呂をいっしょするのはひかえていた。
月輪尼(がちりんに 24歳)は下帯などを洗うために長湯になるから、投宿するとまっさきに湯をつかった。

部屋で道中案内をめくっていると、来客が告げられた。
「誰だ?」
告げにきた番頭がいいよどんだ。

「誰だと、訊いておる---」
「城下の九蔵町(くぞうまち)の元締でございます」
「九蔵町の---?」
「お会いになりますか?」
「拙を訪ねてきておるであろう?」
「できますことなら、ほかでお会いいただきとう---」
「あいわかった」

玄関へでてみると、引退した相撲取りともおもえる巨躰が待っていた。
長谷川です」
「8年前にお父ごどんに世話になった〔九蔵屋〕の九蔵でやす」
41歳とはおもえないほど高い声であった。

「連れがいるので---」
断って、番頭から聴いた小料理屋へ案内しようとすると、
「わしの宿で呑(や)りやしょう」

〔三俣屋〕から3軒上手の旅籠〔笛木屋〕へ案内された。
部屋には若い者が2人待ちまえており、上座に座布団を2枚並べた。
「〔音羽(おとわ)の元締から、お連れの姐(あね)さんのことはうかがっとりやす。本陣の番頭にご案内するようにいいつけときやした」

九蔵は、息子の十三蔵(とさぞう 18歳)を〔音羽〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)のところへやり、〔化粧(けわい)読みうり〕の中仙道板の板行の支度の修行をさせていると説明した。
深谷と浦和の元締の息子も預かってもらっていると話したところへ、九蔵が「姐さん」と呼んだ尼がみちびかれてきた。

膳がはこばれ、酒がすすめられた。
月輪尼が仏につかえる身なのでと謝絶すると、
「般若湯でやすから、形だけでも受けてくだせえ」
辰蔵も、不調法でと断ったが注がれた。

それでは、お父ごが高崎城下でのみごとりなお手並みをお聴かせしやすと、8年前の宝船の張りつけ刑の一幕を、とつとつではあるが、あちこちでいくどもしゃべっていたらしく、よどむことなく語った。

参照】2010年8月11日~[安永6年(1777)の平蔵宣以] () () (
2010年8月19日~〔〔銀波楼〕の女将・小浪] () (
2010年8月26日~[西丸・書院番3の組の番頭] (
2010年8月29日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () (

辰蔵は、父・平蔵(へいぞう 40歳)の妙智に驚嘆しながらも、盗人・仁三郎を独断で見逃したり九蔵のような裏社会の大物と平気でつきあう理不尽さに反発しながら聴いていた。
しかし九蔵は、姐さんが双瞳(りょうめ)をかがやかして聴きいっているのに気をよくし、
「お父ごどんのご配慮は、てめぇのような半端者をきちんと藩の役職のかたがたへつなぐところまで及んでいたことでやす」
辰蔵を気づかった月輪尼は、瞳だけで九蔵へ合意を送り、口では、
「因果いうもんでおますなあ」
つぶやいただけであった。


宴がおわり礼をのべると、
「高崎城下からここまで2里半(10km)ちょっとでやす。高崎でお待ちしようかともおもいやしたが、お引きとめしてはかえってご迷惑と断じ、かように押しかけてめえりやした。お会いできて満足でやす。よいお旅を---」

脇本陣へ戻っても、敬尼(ゆきあま)は平蔵の名を口にしなかった。

辰蔵が湯から上がってくる前に、湯文字ひとつをまとい、灯芯をさげて寝床で待った。


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2011.11.09

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(8)

深谷(ふかや)駅は熊ヶ谷(くまがや)宿から2里27丁(11km)。
平坦で変わりばえのしない田園の景色がつづいた。

村落は、夏が近いというのに、浅間山の山焼けと冷夏つづきのために萎(しお)れていた。

A1_360
(中山道・熊ヶ谷宿西端-石原村 『中山道分間延絵図』道中奉行製作)

A2_360e
(中山道・石原村西はずれ-新嶋村 『中山道分間延絵図』同上)

A3360
(中山道・新嶋村西はずれ-玉井村 『中山道分間延絵図』同上)


馬上の月輪尼(がちりんに 24歳)は、昨夜のけだもののように荒(あら)ぶった辰蔵(たつぞう 16歳)のこころのうちをおもいやりながら、『般若心経』の一節を声を殺して唱えた。

是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
不生不滅(ふしょうふめつ) 
不垢不浄(ふくふじょう) 
不増不減(ふぞうふめつ)
是故空中(ぜこくうちゅう) 
無色(むしき) 
無受想行識(むじゅそうぎょうしき)
無眼耳鼻舌身意(むがんびぜつしんい) 
無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)
無眼界(むげんかい) 
乃至無意識界(むいしきかい) 
無無明(むみょう)
亦無無明(やくむむみょうじん) 
乃至無老死(ないしむろうし)
亦無老死尽(やくむろうしじん)

空(くう)の世界を悟れば、
ありとあらゆるものは転生していることがわかり
生まれず滅せず、
垢つかず汚れず、
増すこともなく減りもしない。
目に見えるものにこだわることもなく
感覚・想念・行為・知覚にまどわされることもない、
視覚・言葉・匂い・味覚・肉体・情念にも左右されない、
目で見る境界も意識の限界もなく、
明かりがということもなく、明かりが尽きることもなく、
老いも死もなく、
さらに老いや死がつきることもない。

月魄(つきしろ)は尼の無声の読経を感得したのか、寺院の前でこだわらなくなっていた。
深谷までの道ぞいに寺が少なかったこともさいわいしたかもしれない。

大和の長谷寺で勤行していたころ、いくどとなく『般若心経』を暗唱したが、「空相(くうそう) 悟りの境地」がすっきり見えてきたことはなかったといったほうがいい。{
情念が強すぎるのだと諦めた。
情念を殺しきろうとはおもわなかった。

まして、仏に仕えたことのない辰蔵に、
無受想行識(むじゅそうぎょうしき)
感覚・情念・行為・知覚、見えるものにまどわされるな
といっても無理であろう。

少年らしいときの辰蔵は妻屋(つまや 閨)で、やしさく愛撫してくれる。
大人ぶろうとしている夜は、一変、猛々(たけだけ)しく動く。
昨夜がそうであった。
そんなとき、敬尼(ゆきあま)も若年増らしく乱れきる。
そのほうが辰蔵が悦ぶとおもうからであった。

深谷宿の東端で、はるかに国済寺の山門がのぞめた。

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(深谷宿・国済寺山門)


尼は馬上のまま念珠をかけた掌で遥拝し、駒をすすめた。

参照】2007114[深谷宿・国済寺
鬼平犯科帳』文庫巻22[迷路]で鬼平が出張り、ここを本拠とした。

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2011.11.08

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(7)

脇本陣を発(た)つとき、女中たちが全員とおもえるほど顔をそろえて見送った。
若い武家と相部屋した美形の尼をしっかり覚えておき、語り草にするつもりらしく、strong>月輪尼(がちりんに 24歳)が法衣の裾をはひらめかせ、鞍にまたがるのを、好奇の目を輝かせて瞶(みつめ)ていた。

これから先、毎朝、このような見送りをうけるのかと、うんざりしなからも、月輪尼は世間の思惑に反抗する気持ちをよりi昂ぶらせた。

尼の心情を察した月魄(つきしろ)も.首をのばし、一声嘶いてから歩みはじめた。

大宮宿から上尾駅までは2里(8km)。 
上町の遍照院(へんじょういん)の門前で月魄が脚をとめた。

月輪尼が首筋をやさしくたたき、
「月魄。ここは本山が違うとるの。うちのは長谷寺やけど、こちらは智積院(ちしゃくいん)はんや」

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(上尾宿 遍照院山門)

「この道中には智積院派のお寺はんが多ゆうおすと聞いてます」
馬上から辰蔵(たつぞう 16歳)にいいきかすふりで、むしろ月魄の耳へとどけた。

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(桶川宿曠野之景 英泉)

上尾宿から30丁(3km)の桶川宿の上の本宿で、街道右手の多聞寺の山門前では、月魄はどういう勘のはたらきからか、脚をとめなかった。
多聞寺は智積院に属していた。、

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(竹本市 多聞寺山門)

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(多聞寺本堂)

「うち、月魄に迷惑かけたみたい---」
聞きとがめた辰蔵が、
「----?」

「先刻、いいましたやろ、この道中には新義のお寺はんが信州あたりまでぎょうさん。その前を通るたんびに月魄に判断を強(し)いた.んかも---」

ちゅうすけ注】『埼玉県史』は、文政年間(1812~29)調査を引き、足立郡内の総数638ヶ寺を宗派別に、
新義真言宗 377
天台宗     77
曹洞宗     56
浄土宗     44
日蓮宗     17
l臨済宗     11
古義真言宗   3
黄檗宗      2
浄土真宗     1
普化宗      1
本山修験    30
当山修験    16
羽黒修験     3
と記している。
五代将軍とその生母・桂昌院の意向の結果であろう。

第2夜の熊谷(くまがや)脇本陣〔小松屋〕の閨(ねや)で、辰蔵に抱かれた敬尼(ゆきあま)が思わずつぶやいてしまった。
「お父上は、仏道かて、時の権力者におもねっとると悟らせてくれはるために、中山道中をすすめはったんやなあ---」

睦みの床の中でまで、おんなが平蔵(へいぞう 40歳)のことをおもいうかべているので、辰蔵は、それが父であっても、嫉妬を感じ、その夜の行いはちょっと荒ぶったものになった。
尼もそれに応じていた。

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2011.11.07

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(6)

「尼どの。もし、長谷川家の人になってもいいという決心がついたら、いつにても引きかえしてきなさるがよい。津紀(つき 2歳も喜ぼう」
平蔵(へいぞう 40歳)の言葉に、月輪尼(がちりんに 24歳)は声をつまらせて返事ができず、頭(こうべをたれつづけていた。

津紀は見送りの場へ出なかった。

平蔵の出仕時刻が出立の刻(とき)であった。
新大橋を渡りきるまで、辰蔵(たつぞう 16歳)も無言で父親にしたがったが、西詰で、
「では、父上。行って参じます」
「うむ。ずいぶん、気をつけて行け」

尼を乗せた月魄(つきしろ)がひと声いななき、別れ告げた。
平蔵がその首をなぜ、
「頼むぞ」
あっけないほどの別れであった。

ちゅうすけ注】本郷通りへでてからの月輪尼辰蔵組の行程は、

2011年11月01日[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (

道中の景観は () () () クリック

戸田の渡しで、月魄のために舟を1艘、借り切った。
月魄にとっては初めての渡舟であったが、びくつきもしないで対岸を瞶(み)つめていた。

上り1丁半(160m)ほどの焼米坂の茶店でお茶にした。
午餐(ひる)は早めに板橋で摂っていたので、ころあいの中休みとなった。

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(浦和宿手前の焼米坂 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ:)


_180月輪尼が焼米を掌からあたえると、月魄はうまそうに食(は)んだ。
あと、幸吉(こうきち 20歳)がくんできた井戸水にも、満足したようであった。
いい水はわかるのだ。

茶店をでると、若くて目つきの鋭いのが、
長谷川さんで---?」
「そうだが---?」
身がまえると、手をふり、
「浦和の元締・〔白幡(しろはた)〕のとろで若者頭(わかいものがしら)をつとめておりやす万吉(まんきち 24歳)と申しやす」
江戸の〔音羽(おとわ)〕の元締から道中の安全をみるように回状がきたので、大宮宿まで少し離れて伴をすると告げた。

月輪尼が落ち着いて応じた。
「おおきに。〔音羽〕の元締はんに、あんじょう、お礼ゆうといて。〔白幡]の元締はんにもな」
万吉は、尼の美形をまぶしげに見上げ、赤らんだ

浦和宿で辰蔵が手控えをあらため、馬上の芳尼(ゆきあま)に、
「すぐ左手に長谷寺系の玉蔵院という名刹があるが---」
大きく首をふり、
「うちの汚名は、玉蔵院にもとどいとりまひょ。わざに、恥をさらすことはおへん」
,strong>万吉に聞こえないようにささやいた。
「5年前に落成した地蔵堂だけでも拝んでいかないか?」
「拝むだけなら---」

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(浦和宿 宝蔵院山門)

_360_2
宝蔵院・地蔵堂 安永9年(1780)に落慶)


大宮宿は江戸から7里4丁(29km)。
土手町の小じんまりした脇本陣〔畠(はた)屋」へ宿をとった。
陽まだ西の空にあった。

幸吉は月魄に新草を食(は)ませてくるといい、川辺へ連れていった。
万吉に小粒をにぎらせて労をねぎらってから、熊谷宿の元締の名を訊いておいた。

月輪尼は足首まである長股引(ももひ)きを脱ぎながら、
「お父ごが、ほんまの父上みたいにおもえてきよりました」
「うそもほんとうもない。父上は敬尼(ゆきあま)を、拙の嫁ごとおもっておる」
は、尼の俗界時代の名であった。

「もったいのうて、涙がわいてきよります」
「それゆえ、東海道の倍も泊まりの多い木曽路をわざわざ選び、一夜でも多くいっしょにすごせと---」
「うれしゅ、おす」

第一夜は2人にとり、短くおもえ、たっぷり甘かった。、

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