辰蔵のいい分(2)
辰蔵(たつぞう 14歳)には、時間はたっぷりあった。
弓の稽古は、師の布施十兵衛良知(よしのり 40歳 300俵)が非番の日だから、5日ごとといってよかった。
「四書五経」は、黄鶴塾であった。
黄鶴塾では銕三郎(てつさぶろう)時代の父も学んだが、黄鶴(こうかく)は高齢で隠棲、いま塾生が接しているのは子息の天鏡(てんきょう 48歳)師だが、これも10日ごとであった。
意を決した辰蔵が、かつての師・於良(よし 61歳)に、奈々(なな 16歳)にはどこで会えるか訊いた。
平蔵からの頼みで奈々を引き受けた於良は、妙なことになりそうだ、とおもい、
「明日の七ッ(午前8時)が奈々さまが習いに日です。じかにお尋ねになるのが礼法というものです」
もとろん、辰蔵は翌日の七ッ前から弥勒寺の裏門のところ奈々をく゜町
伏せた。
時刻どおりに、奈々は独りでやってきた。
辰蔵をみかけると、やさしく微笑みかけ、お辞儀をして通りすぎようとした。
「奈々さん。お待ちください」
「師がお待ちや。失礼さんです」
辰蔵の言葉を無視し、山田家へはいっていった。
辰蔵はあきらめなかった。
小半時(1時間)、待った。
先刻みせた奈々の微笑みだけが望みの糸であった。
奈々があらわれた。
「寸刻、お待ちを---」
「あきまへん」
「なにゆえに---?」
「うちは、仕事、もってます。あんさんみたように遊んでられる身分でないんや、母が伏せってます。堪忍です」
行こうするのに、
「これだけでも応えてください。拙のこと、お嫌いですか?」
奈々は前をむいたまま、
「嫌いやあらしまへん」
辰蔵が興奮し、念をいれた。
「嫌いでない?」
「好きともゆうてぇしまへん。失礼します」
足早に去ってしまった。
甘酸っぱい香りだけが残された。
辰蔵は、あとを尾行(つ)けることもせず、呆然と見送ってしまった。
いまさら、於良師に訊くこともできなくなった。
(齢は拙と同じか、一つか二つ上のようだが、仕事をもっているとか---髪型、着ているものからして武家むすめではないが、さりとて、武家の於良婆ぁさんに礼法を習うというのが解(:げ)せない。
謎が深まれば深まるほど、辰蔵は奈々に魅せられていった。
まあ、奈々のような肌をもった美形であれば、辰蔵でなくても惹(ひ)かれる。
げんに、父親の平蔵(へいぞう)が、分別のついた38歳にもなり、しかも妻子も里貴(りき 39歳)というおんな友たちまでありながら、奈々を気にしていたではないか。
その平蔵は、下城どき、里貴の枕元へまっすくにやってき、看護人・お専(せん 24歳)から、往診してくれている多紀安長元簡(もとやす 29歳)の診(み)たてを聴きとるのが日課になっていた。
それから店をしまった奈々と臨時女中頭のお粂(くめ 42歳)が戻ってくるまで、夕餉もとらないで里貴のそばに付き添っていた。
奈々とお粂が帰着するころ、松造(よしぞう 32歳)がお通(つう 16歳)ともども迎えにき、いっしょに夕餉をとった。
松造は、お粂が解放されるまでという取り決めで茶店〔三文(さんもん)茶房〕の主人におさまっていた。
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コメント
ほほう、辰蔵さん、奈々さんに惚れましたか。
親子二代、帰化女に気が向くとは!
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.07.30 07:14
>文くばりの丈太 さん
いろんな意味で男は「いい女」との出会いを求めております。
女性も、「いい男」との出会いを夢み、実践しておりましょう。
ま、あまり、うまくはいきませんが。
2010.03.31の[ちゅうすけのひとり言](53)
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2010/03/index.html
開高 健氏の体験は、男なら、ぜひ---と願うのでは? まあ、趣味と経済力と機会と器量の問題もありますが。
投稿: ちゅうすけ | 2011.08.01 03:51