庭番・倉地政之助の存念(6)
「笠森おせんはん、そないに美人やったん?」
亀久町の奈々(なな 18歳)の家で、早くも腰丈の閨衣(ねやい)に着替えるために湯文字だけになり、裸の上半身をさらしながら訊いた。
興味半分、競いごころ半分、双眸(ひとみ)を大きくひらきながら口元をひきしめた、奈々独特の表情であった。
(春信 「鍵屋」の笠森おせん)
「もう20年も前のことで、美人の流行(はや)りは時とともに変わっていくからなあ」
「里貴(りき 逝年40歳)おばはんとくらべたら---?」
「あのころのおせんは14か15歳であった。そのころの里貴は20歳をすぎており、人妻であったからくらべようがない」
「ほんなら、16歳やったうちとは---?」
最初(はな)からそう問いたかったのかもしれない。
口にだしてから、しまったというふうに舌の先をちょろりと出した。
「おせんは商売に利用されたおなごだ。ある絵師が描いたから人気が高まった---」
応えた途端にひらめいた。
(そうだったのか)
笠森おせんは谷中の功徳林寺門前の茶店「鍵屋」の看板むすめとして描かれたが、じつは庭番の頭格の馬場五兵衛信富(のぶとみ 55歳=明和2年)のむすめであった。
少禄とはいえ、お目見え格の幕臣の子女が茶店づとめというのは腑におちない。
人寄せのために刷り絵がまかれたにちがいない。
明和2年(1765)といえば、本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳=当時 1450石)が2度目の火盗改メに任じられた年で、銕三郎(てつさぶろう)は20歳で高杉道場で剣術にのめりこんでいた。
(そのころ、どんな探索がおこなわれていたかは、こんど大伯父に会ったら訊いてみよう)
「奈々も描かれたいか?」
まん前に片膝を立て、大股の奥が平蔵(へいぞう 40歳)にさらした姿態をとりながら小ぶりの茶碗をかたむけている奈々をひやかした。
「あほらし。うちには蔵(くら)さんがいる」
「われも奈々を人目にさらしとうはない」
「うれしい」
片口から冷や酒を平蔵の小茶碗に酌をした。
つまんでいる枝豆は、奈々が若女将をしている料理茶寮〔季四}板場から持ち帰ったものでだ。
ひと鞘から実を器用に押しだしてから、
「蔵はん、倉地はんいう人、信用してはるん?」
「なぜ、訊く?」
「於佳慈(かじ 34歳)はんの口ききできぃはったんやけど、田沼(意次 おきつぐ 67歳)のお殿はんの派ぁとはきめられへんのとちゃう?」
「われは里貴の眼を信じておる」
「やっぱり、なあ---」
「奈々も紀州おんなであろうが---」
しかし平蔵は、倉地の存念を於佳慈には伝えなかった。
世の中の大きな潮流に逆らってみてもかなうものではない、とおもっていたからであった。
潮流は岩場の上から眺めると、筋目が見える。
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