カテゴリー「076その他の幕臣」の記事

2012.01.19

庭番・倉地政之助の存念(6)

「笠森おせんはん、そないに美人やったん?」
亀久町の奈々(なな 18歳)の家で、早くも腰丈の閨衣(ねやい)に着替えるために湯文字だけになり、裸の上半身をさらしながら訊いた。
興味半分、競いごころ半分、双眸(ひとみ)を大きくひらきながら口元をひきしめた、奈々独特の表情であった。

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(春信 「鍵屋」の笠森おせん)

「もう20年も前のことで、美人の流行(はや)りは時とともに変わっていくからなあ」
里貴(りき 逝年40歳)おばはんとくらべたら---?」
「あのころのおせんは14か15歳であった。そのころの里貴は20歳をすぎており、人妻であったからくらべようがない」
「ほんなら、16歳やったうちとは---?」
最初(はな)からそう問いたかったのかもしれない。
口にだしてから、しまったというふうに舌の先をちょろりと出した。

「おせんは商売に利用されたおなごだ。ある絵師が描いたから人気が高まった---」
応えた途端にひらめいた。
(そうだったのか)

笠森おせんは谷中の功徳林寺門前の茶店「鍵屋」の看板むすめとして描かれたが、じつは庭番の頭格の馬場五兵衛信富(のぶとみ  55歳=明和2年)のむすめであった。
少禄とはいえ、お目見え格の幕臣の子女が茶店づとめというのは腑におちない。
人寄せのために刷り絵がまかれたにちがいない。

明和2年(1765)といえば、本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳=当時 1450石)が2度目の火盗改メに任じられた年で、銕三郎(てつさぶろう)は20歳で高杉道場で剣術にのめりこんでいた。
(そのころ、どんな探索がおこなわれていたかは、こんど大伯父に会ったら訊いてみよう)

奈々も描かれたいか?」
まん前に片膝を立て、大股の奥が平蔵(へいぞう 40歳)にさらした姿態をとりながら小ぶりの茶碗をかたむけている奈々をひやかした。
「あほらし。うちには(くら)さんがいる」
「われも奈々を人目にさらしとうはない」
「うれしい」

片口から冷や酒を平蔵の小茶碗に酌をした。
つまんでいる枝豆は、奈々が若女将をしている料理茶寮〔季四}板場から持ち帰ったものでだ。

ひと鞘から実を器用に押しだしてから、
はん、倉地はんいう人、信用してはるん?」
「なぜ、訊く?」
「於佳慈(かじ 34歳)はんの口ききできぃはったんやけど、田沼意次 おきつぐ 67歳)のお殿はんの派ぁとはきめられへんのとちゃう?」

「われは里貴の眼を信じておる」
「やっぱり、なあ---」
奈々も紀州おんなであろうが---」

しかし平蔵は、倉地の存念を於佳慈には伝えなかった。
世の中の大きな潮流に逆らってみてもかなうものではない、とおもっていたからであった。

潮流は岩場の上から眺めると、筋目が見える。

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2012.01.18

庭番・倉地政之助の存念(5)

長谷川さま。これは倉地の言葉でなく、里貴(りき 逝年40歳)さまのお言葉としてお聴きくださいますか?」
庭の者支配の倉地政之助満済(まずみ 46歳)が姿勢をかたくし、平蔵(へいぞう 40歳)から視線をそらし、天井をあおぎながらいった。
里貴の言葉とあれば。承(うけたまわ)るしかない」

倉地は襖(ふすま)の向こうにも気くばりし、
「大坂の両替商人たちすべてが田沼主殿頭意次 おきつぐ 67歳 相良藩主)さまのご政道を喜んでいるとはかぎりません。商人は利にさとい。利にもとるようなことには服従しないでしょう」

「とうぜんなこと。相良(さがら)侯 とてそのことは百もご承知であろうよ」
「いえ。田沼侯はご承知でも、勝手方(財政)におたずさわりのまわり方々が忠義面(ずら)して先走りなさることもございます」
「わかった。折りをみて、於佳慈(かじ)さまへ、里貴からの伝言としてお告げしておこう」
「お願いいたします」
庭の者は呼び出しがあるまで顔を見せることはかなわなかった。

「ことは猶予できないところまできておるとおもうかの---?」
「ここ一年は大事ないと存じますが---」

「付け火はどっちからと見ているな?」
「水戸、名古屋あたり---」
「ほう---」
「それに、元の茶寮〔貴志〕の午(うし 南)方---」
民部卿一橋治済(はるさだ 35歳---)」

越中守定信 さだのぶ 27歳)さまほか、お為派の譜代大・小名衆---」
「庭の者衆はお為派の譜代衆を探ぐってはいないのか?」
倉地は首をふった。

「なせだ---?」
「庭の者すべてが相良(さがら 田沼意次)侯にこころしているとはかぎりません。いつ、秘事が洩れんものともわからないことは、やるべきではありません」
「------」
平蔵は権力争いの暗闇の深さ・醜悪さに身ぶるいするおもいであった。

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2012.01.17

庭番・倉地政之助の存念(4)

「両ご定番には、調練にはげむようにとのご叱声がご城代からでたそうです」
倉地政之助j満済(まずみ 46歳)はそれを調べるための出張りであったはずなのに、他人事のような口ぶりで吐きすてた。

倉地うじは先刻、米の買占めは〔鹿島屋}と〔安松〕の2軒だから、打ちこわして凝らしめるようにと張り紙を西町奉行の佐野備後守政親j まさちか 51歳 1100石)さまがお出しになったと申されたが---探索留め書きにそのようにお記しなされたか?」

首が横にふられた。

「さよな風評がながされていたということかな---?」
倉地がふくみ笑みをもらしながら頭(こうべ)を縦に深く動かした。

備後さまを貶(おとしめ)ようとする動きがあった---と断じてよろしいか?」
また縦にうなずいた。

「そのことを相良侯(さがら 田沼意次 おきつぐ 67歳)には---?」
うなずき、しばし瞼(まぶた)を閉じた。

(やはり、そうか)
平蔵(へいぞう 40歳)は、鴻池(こうのいけ)をはじめとする大坂の大両替商どものしたたかさを見たおもいがした。

天明3年(1783),年、大坂の大両替商たちにご用金と称し、幕府の裏保証つきで金ぐりに難渋している藩に金を用立てることが交渉された。

両替商との折衝にあたったのが佐野備後守であった。
面従した両替商たちは佐野町奉行に、幕府が約定をたがえたら2軒の打ちこわしではすまないと、おどしをかけたのであった。

じっさい、4年後iの天明7年(1787)5月12日の打ちこわしとなって現われ、その火は江戸のほか各地にひろがった。
このとき、長谷川平蔵は先手・弓の第2組の組頭として出動・鎮圧を命じられたのだが、そのことは別の機会に。

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2012.01.16

庭番・倉地政之助の存念(3)

「あ、倉地うじは、酒は法度(はっと)なそうな」
新しい燗酒をはこんできた奈々(なな 18歳)に、
倉地うじは、里貴(りき 逝年40歳)女将と入魂(じっこん)であった」

今宵、招待することは、昨夜のうちには話しておいたが、あらためて紹介するふりをした。
あいさつする倉地平蔵(へいぞう 40歳)は、
「若女将は、里貴女将の縁者で---」
とだけで説明はひかえたが、倉地政之助満済(まずみ 46歳)も2人の関係には無関心をよそおった。

目で合図された奈々は、
「ご飯とお汁椀をお持ちします」
部屋を離れた。

見定めてから、平蔵が口をひらく。
「騒動のあとすぐに東のご奉行・土屋駿河守守直 もりなお 52歳=当時)さまが長崎のお奉行に転じられたのは、なにか理由(わけ)が---?」
倉地は首をふって否(いな)を示した。

参照】2010年8月7日~[安永6年(1777)の平蔵宣以] () (

長崎奉行はこのころは2人制で、年ぎめで交代で下崎・駐在し、大坂・京都町奉行より上座と目されていた。
ただし、大坂町奉行から長崎奉行へ転ずることはめったにない。
幕府としては、上座の職へ栄転させた外見をつくろっての罰ということもないではない。

後任は土屋と同じ武田閥の小田切土佐守直年(なおとし 41歳=当時 2930石)が、駿府奉行から転じてきた。

倉地が口を開くまで、8年前に小石川・江戸川端の土屋邸で面談した守直(44歳=当時)のいかにもやり手らしい精悍な風貌を想いおこしていた。

「町奉行方に手落ちはございませんでした。打ちこわしの徒(やから)に対する警備の不手際はむしろ、定番(じょうばん)側にありました」

定番というのは、1万石級の譜代小大名に課せられる職責で、大坂では京橋口と玉造口を警備していた。

天明3年(1783)2月11日の場合の定番は、

京橋口 
 井上筑後守正国(まさくに 45歳=当時 下総国高岡藩主 1万石)

玉造口
 稲垣長門守定計(さだかず 63歳=同 近江国山上藩 1万3000石)

定番の大名にしてみれば、番士は幕府の旗本の士で自藩の藩士ではなく、平常ののんびりした勤務のときはともかく、非常時には命令が徹底しなかった。

定番の小大名のなかには、馬も乗りこなせないのもいたという。


膳がととのえられるあいだ、倉地平蔵も要心したように口をきかなかった。


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(土屋守直の個人譜)


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(小田切直年の個人譜)

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2012.01.15

庭番・倉地政之助の存念(2)

「打ちこわしといっても、たかが2軒の買占め屋がことでしてな---」
庭番の倉地政之助満済(まずみ 46歳)が、さも軽げにいったので、平蔵の疑念はかえって増した。
(軽ければ田沼主殿頭意次 おきつぐ)が、わざわざ庭の者をお放ちになるはずがない---)

平静をよそおって聴いている平蔵(へいぞう 40歳)へ、
「そういえば、(大坂)ご城代の宇都宮侯が、長谷川さまのことをおほめになっておりました」
突然に戸田因幡守忠寛(ただとを 49歳 宇都宮藩主 7万7000石)の名をもちだしてきた。
(やはり、なにかをかくそうとしておる---)
因幡侯からは、ご城下はずれの些細な盗みの探索を頼まれたことがあったので---」

参照】2010年10月16日~[寺社奉行・戸田因幡守忠寛] () () ()) (
2010年10月20日~[〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)] ()a href="http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2010/10/post-61b7.html">2) () (4) () () () (

ちゅうすけ注】この九助の事件で、鬼平時代の平蔵は『五月闇』(文庫巻14)で、密偵・伊三次いさじ)を刺した〔強矢(すねや)〕 の伊佐蔵の名を知ることになった。

「ご城代は、そのときの長谷川さまの解決の仕様が火盗改メのようではなかったとご賛嘆でした」
倉地うじ。次にはわが兄者の佐野備後守政親 まさちか 52歳 1,100石)どのか、土屋帯刀守直 もりなお 40歳)どのの名をだして韜晦(とうかい)なさるおつもりかな?」

倉地が不気味な笑みをもらし、
長谷川さま。わたくしどもお庭番の者がほんとうのことを報じるのを許されているはお上に対してだけとの決まりは、ご承知でありましよう?」

うなずいた平蔵が、報告はお上だけに差しあげたてまつるのであろうが、われの問いに、肯(がえ)んじたり否と首をふることはお定めには触れないのでのではなかろうか、と条件をだした。

長谷川さまにはかないませぬな」
腕をのばした平蔵の酌をさえぎり、
「お庭番は酒に負けないないよう、ふだんからたしなみませぬことはご存じではなかったのですか?」
「さようなこと、里貴(りき 逝年40歳)からは聴いてはおらぬが、いかにも窮屈な掟(おきて)、よのう---」

「地の者とか呼ばれ、広忠(ひろただ)公にお仕えしていたころからじゃな」
「地の者をご存じで?」
「地の者とつながっておった甲州方の軒猿(のきざる)の末裔のむすめというのと知りあったことがあっての。里貴をしる前のことだが---。盗人の軍者(ぐんしゃ 軍師)をしておったおなご男であったが---不憫なことに水死した」

そこまで自分の恥部をさらした平蔵に、倉地は好感をいだいたようで、
黙然と正面した。

それへ、平蔵が容赦なく訊いた。
「玉水町の米穀問屋〔鹿島屋〕と〔安松〕を襲うようにしむけたのは、大坂の豪商連ではないのか?」


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(戸田忠寛の個人譜)

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2012.01.14

庭番・倉地政之助の存念

「女将どののご不幸のときには、香華(こうげ)をたむけることもかないませず---」
庭の者支配役の倉地政之助満済(まずみ 46歳)がこころからのような声音(こわね)で頭をさげた。

「ご弔辞、いたみいる」
平蔵(へいぞう 40歳)もすなおに受けた。
女将とは、1年前に歿した里貴(りき 享年40歳)のことであった。


奈々(なな 18歳)を木挽町(こびきちょう)の老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)の中屋敷の於佳慈(かじ 34歳)のところへ暑気見舞いにやり、一昨年(天明3年 1783)2月11日に大坂でおきた堂島新地の米穀問屋〔安松〕と玉水町の同〔鹿島屋〕の打ちこわしの探査におもむいた庭番からそのときの様子をじかに聴いて備えたいと頼んだ。


老中・意次の手配で、やってきたのが、なんと、倉地満済であったのには、平蔵のほうが驚いた。
というのは、生前の里貴(29歳=当時)が鎌倉河岸近くの御宿(みしゃく)稲荷社の脇の家に住んでいたころに、ちらりと会った。
そのころの倉地は3O代なかばで、がっちりはしていたがいまよりは細身だったが、髯の剃りあとが濃いところは変わっていない。

参照】2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ
2010年2月10日[火盗改メ・庄田小左衛門安久] (
2010年2月17日〔笠森〕おせん
2008年4月25日[〔笹や〕のお熊] (

(夕方も剃らないと、寝床でおせんが痛がろう)
平蔵はつまらないことに気をまわした。
それだけ、落ちついて相手を観察する余裕があったともいえ、内心、苦笑した。

「打ちこわしは、〔鹿島屋〕と〔安松〕の2軒であったというのは---?」
「高値(こうじき)をあてこんでの米の買占めは、ほとんどの米相場師がやっておりましたが、この2店を名ざしで打ちこわせとの張り紙があったのです」

「張り紙---? だれがそのようなものを---?」
「お察しがつきませぬか?」
「わからぬ」

〔鹿島屋〕がやられると、月番にあたっていた大坂西町奉行の佐野備後守政親(まさちか 52歳=当時 1100石)は、東町奉行の土屋帯刀守直(もりなお 52歳=同 1000石)と申しあわせ、捕り方のほかに大坂定番(じょうばん)からも人数をだしてもらい、見物にきた者さえも捕縛すると威嚇し、鎮圧した。

参照】2010924[佐野与八郎の内室] (
2010年12月5日[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (

「町奉行さまです」
「佐野備後)どの---が?」
「一を罰して衆を懲らす---との格言がございます」

天明2年(1782)の冷害で、ふだんなら1俵50匁(13万3328円)前後の米価が79.5匁(21万2000円)にまで値上がりしていたのであった。

「うむ。それで米値は下がったのかな?」
「なかなか---」
「おことのお役目は---?」
「大坂のお上側の武力の実勢の探査でございました」
「採点は---?」
長谷川さまが数奇屋河岸西紺屋町の武具商〔大和屋〕でお造らせになられたものが必要と、ご老中も申されておりました」

参照】2011125[武具師〔大和屋〕仁兵衛

(捕り方がひるんだらしいな)
平蔵が舌をまいたのは、自腹で鎖帷子(くさりかたびら)をあつらえたことをi庭番方が探索しており、田沼老中に上申していた事実をしらされたことであった。


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(倉地満済の個人譜(再録))


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2011.09.07

西丸徒頭・沼間(ぬま)家のおんなたち

(くら)はん---」
躰が合わさってのち、奈々(なな 18歳)は呼びかけを、「長谷川のおじさま」から「(くら)はん」に変えていた。

故人の里貴(りき 逝年40歳)が「(てつ)さま」と幼名で呼んでいたのを避けた奈々が、 「(へい)はん」を提案した。

参照】2010年1月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (

即座に、平蔵(へいぞう 40歳)が断った。
平蔵は、亡夫・宣雄(のぶお 享年55歳)によって創始された長谷川家の継承名であるから、閨(ねや)などで気安く使ってはいけない、ともっともらしく述べたが、ありようは、嶋田宿の本陣・〔中尾(置塩)〕の若女将・お三津(みつ 22歳=当時)が寝間で甘えて呼んでいたからであった。

「下が結ばれたんやし、平蔵おじさまの下のをとって、〔くらはん〕はどない? ほかの人に聞かれたかて、おじさまとわからへんしぃ---」
「『忠臣蔵』、大石内蔵助どのにあやかるか」
「『忠臣蔵』のんは、大星由良之助はんやしぃ」
すっかり、芝居通に育っていた。

はん。お武家はんの世界ってむつかしいね」
「あらたまって、なにごとかな?」

今宵の客の沼間(ぬま)頼母隆峯 (たかみね 55歳 800石)が、長女に迎えた養婿のことであった。

「亡父の家訓として、他家の内情にかかわってはならないことになっておる」
「かかわるんやのうて、お客はんの実情をこころえておくだけ」
「その長女といわれる女性(にょしょう)は、たしか、2度目のご内室がおもうけになったはず---」
「ご存じやないん---?」
「3年ほど前に、徒頭におつきになる前は書院番士が永かったから、うわさはしぜんと耳にはいってきた」

先室が後継を生むことなく卒したので、その妹を迎えて長女ができ、次の男児は夭折した。

長女に迎えた養子とのあいだに子ができなかったので、実家へ帰す話がすすんでいた。
婿の実家は、1500石の大身なので話がこじれていると。

沼間はんが桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)はんに、どなたはんか仲裁しいはる人はあらへんやろかと問いかけはったら、そないな私事を、長谷川はんの祝いの席でしたらあかんやゆうてたしなめはりました」

平蔵が手水(ちょうず)にことよせて座をはずしたときのことだと。

ある筋から次女として養女を迎えたものの、養父とおりあいがつかず、これも実家がひきとっていた。

「なにかとままならないのが、武家の家よ」
「でも、はんとこは、辰蔵はんの隠し子もちゃんと入れはったし---」
「うちは、お婆どのが在方(ざいかた)の生まれなので、さばけており助かる」

「うちも、多紀家のお嫁になった奈保(なお)はんみたいに、どこかのお旗本の養女にしてもろて、次にはんの養女になろかな」
「おいおい---」
「冗談にゆうてみただけ---」

それでなくても、久栄(ひさえ 33歳)がひそかに角をはやしておるというのに---。

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(沼間頼母隆峯の個人譜とおんなたち)


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2011.08.18

新与頭(くみがしら)・中川左平太昌栄

天明4年の年賀まわりは、気が重かった。

平蔵(へいぞう 明けて39歳)が西丸・書院番4の組に配属になってこのかた12年、蔭になり日向(ひなた)になって支えてくれた与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 64歳 800俵)が風邪をこじらせて臥せったままであった。
齢が齢だけに、余病の心配があった。

訪れなれた牛込築土下五軒町の屋敷で、年賀のあいさつだけで帰るつもりであったが、嫡男・千助勝昌(かつまさ 明けて24歳)に招きあげられた。
「与頭が、どうしても、お目にかかりたいと申しております」

めっきり頬がおちた郷右衛門は、それでも目をかけてきた平蔵に、
「風邪がなおり次第、致仕(ちし)前に、里貴(りき 明けて40歳)女将の見舞い行くつもりであった。よろしく、伝えておいてくだされ」
「組は、まだ、与頭どののご経験を必要としております。致仕だなんて、とんでもございませぬ」

「いや。後任には、あしかけ26年、われらの組で番士を勤めてきている中川左平太昌栄 まさよし 明けて45歳)うじをお(番)頭へ推しておいた。このこと、秘して年賀にまわっておくように---」

それから、耳をかせとつぶやくようにいい、
「そこもとを、徒(かち)の組頭にと、3人の与頭の内諾をえておいた」
「はっ---」

郷右衛門は、西丸のほかの書院番の与頭との懇親の会場に〔季四〕をあて、それとなく後ろ支えをしてくれてきていた。
それだけ、平蔵の特異な器量を買ってくれていたといえる。

参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () () (
2010年4月23日~[女将・里貴(りき)のお手並み] () () (
2011年3月4日[西丸の重役] (
2011年3月5日[与板への旅] (

3人の与頭たちへの根まわしがすんでいるということは、番頭や西丸の若年寄への耳にも入れてあるということであろう。

それから10日たらずで郷右衛門勝孟は永眠した。
葬儀に列した帰り、里貴を見舞ったが、勝孟の死を告げるのはひかえた。
気落ちさせることが病状をすすめると判断したからであった。

閏正月8日、中川左平太昌栄が後任として発令された。
平蔵は、先輩の昇進をすなおに祝ったが、〔季四〕には招かなかった。


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(中川左平太昌栄の個人譜)


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2010.12.25

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(8)

多紀(たき)元簡(もとやす 26歳)さまのお相手のこと、ほんとうにお探しするのですか?」
藤ノ棚の家で、小茶碗で冷や酒を酌みかわしながら、里貴(りき 36歳)がたしかめた。

「探してやらなければ、いつまでも里貴にまとわりつくぞ」
医心方 巻二十八 房内篇』の[第二十ニ章 好女(こうじょ)---寝間でいいおんな]によると---、

骨は細く、肌は肌理(きめ)細やかで艶があって若々しい。
しかも、透きとおるほどに清らか。
毛髪は絹糸のように細くてまっすぐ。
しかも秘所は無毛か、うっすら。

---ということで、里貴のあのときの裸の姿態を想像しておると、平蔵(へいぞう 35歳)がというと、眉根をよせ、
「うとましい」
内心は、まんざらでもないところがおんなごころの微妙であった。

里貴の裸躰を、ほかの男が頭の中とはいえ、ねめまわしているとおもうと、おれだっていい気はしない」
平蔵が嫌がることは、避けたほうがいい。

「うれしい」
小茶碗をおき、立て膝をおろしたので、飛びかかられてもいいように、平蔵も茶碗をわきに離しておいた。

腰丈の寝衣なので、太腿(もも)までは裾がきていない。
その膝小僧をひらき、下腹を見下ろし、
「ここの芝生が淡いのを、恥じなくてもいいのですね?」

「おれは、三国一の果報者とうぬぼれている。動物や花にはある発情の季節というものを人間は忘れ去り、四季をつうじて交接するようになったから、玉陰のとば口を隠すための恥毛は無用の長物ともいえる」

「そういう考え方は、初めて---あら、〔季四〕の店名はそのことだったのですか? 恥ずかしい」
会えば、季節をとわないで抱きあってきた。

夜ごとに客が登楼してくる吉原の花魁(おいらん)たちは、湯殿でその茂みを軽石で磨(す)って縮めたり、まびきもすると聞いたことがあると平蔵の解説に、自分のものを指でなぶり、
「おかしな気分---」
笑った。

貴志村には、多紀安長元簡に似合いそうな17歳になる姪がいた。
色白で、里貴の妹のようだと村でいわれている。
行水姿を見たとき、下の絹糸もうっすらとしていた。

「江戸へ呼びましょうか?」
「いや。っさんを紀州へ行かせよう」
「では、文を書きます」
「正妻になれなくてもいいか?」
田沼意次 おきつく 62歳)さまのお口ききで、ご家中のどなたかの養女という形はとれませぬか?」
里貴似であれば、養父に横どりされかねないぞ」
「一生、可愛がってくだされば、側室のままでも、よろしいでしょう」

元簡は大乗り気で、父・元悳(もとのり)法眼を口説(くど)き、紀州へ旅だち、1ヶ月後には17歳の奈保(なほ)を伴って帰ってきた。
仮の挙式は貴志村で挙げ、江戸では躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の居宅に離れを建て増し、そこに落ちついた。

なんと、9ヶ月たつかどうかのうちに、女児を産んでいた。
さらに一年ちょっとのちには、左膳(さぜん)をもうけた。
名づけ親は、平蔵---というより、里貴であった。

里貴は、後家になっとき左膳という武士に言い寄られたな」
冷やかすと、
「10年前には、そんなこともございました:げな---」
けろりと応えた。

両親の看病のために紀州の村へ帰っていたとき、左隣に蔭膳をいつもつくり、そこに銕三郎(てつさぶろう)がいるかのように話しかけていたことは告白しなかった。

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2010.12.24

医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(7)

長谷---いや、(へい)さん。きれいな女将ですね」
部屋へ案内し、平蔵(へいぞう 35歳)から〔黒舟〕の権七(ごんしち 48歳)にすぐくるように使いを出してくれといわれ、合点した里貴(りき 36歳)が退(さ)がると、多紀(たき)安長元簡(もとやす 26歳)が無遠慮に嘆声をもらした。
よほどに感銘をうけたらしい。

「女将が聞いたら、嬉しがろう」
「お世辞ではありませぬ」

医心方 巻二十八 房内篇』の[第二十ニ章 好女(こうじょ)---寝間でいいおんな]にいう、
---骨は細い、肌は肌理(きめ)細やかで艶があって若々しい。
しかも、透きとおるほどに清らか。
肉づきはたおやかだが、指の関節はくぼむほどに細い。
毛髪は絹糸のうに細くてまっすぐ。
脊丈は中肉中背。

この条々をそのまま具現している、と力説、恥毛もないか、あっても薄いとまで予言した。
「手前がこの10年近く、夢にみていた女性(にょしょう)です」

「これ。聞こえると、大変なことになるぞ」
「は---?」
「この茶寮は、ご老中・田沼意次 おきつぐ 62歳)侯のお金で成った」

酒と手軽な肴を配膳した里貴に、
「夢ごこちです」
ぬけぬけと告白した。

「え---?」
平蔵が、わけを伝えると、
多紀さまより10歳も上の姥(うば)でございます」
いなしたが、元簡里貴を瞶(みつめ)ている。
(これはいかぬ。頭の中で、里貴を裸にし、内股の絹糸までたしかめているかもしれない)

里貴どのの縁者に、齢ごろの処女(むすめ)のこころあたりはありませぬか?」
里貴が生まれた貴志村が、半島からの渡来人が故郷のしきたりをかたくなに守ってくらしている村であることをおもいだし、問うてみた。

参照】2010年3月31日[ちゅうすけのひとり言] (53

「冗談ではございませんのね?」
っさんの顔を見れば、冗談ごとではないことがわかろう?」
「おんなにとっては一生の大事でございます。一見(いちげん)のお言葉だけで軽々しくはお受けするわけには参りません」
「それもそうだ」

ちょうどうまく、権七があらわれ、話題がかわった。

互いを引きあわせ、元簡が医師としての美顔術の囲みの短文を書いてもいいといっていると告げると、
「それは重宝ですが、上方からの版木でなく、江戸で版木を彫ることになります」

そのことは、元締衆の賛同をとりつけるとして、囲みの短文の一例を元簡に求めた。

美しくなりたいと願っている若い女性をなやますものの一つに、ニキビがある。
自分も、10代の後半には悩まされた---と前置きし、
「『医心方 第四巻 美容篇』の[第十四章 治面方---ニキビの治療法]に、3年酢(黒酢)を満たした陶器壷に鶏卵を殻つきのまま沈めて油紙の蓋をし、首を紐でくくって密閉し、七日おくと、殻がぶよぶよになります。そこで白身と黄身をべつべつの容器にわけ、それぞれをニキビに塗ると、早いときには一晩であとかたもなく消えました」
「あら。うちの女中にニキビでなやんでいるのがいますから、早速、ためさせます」
里貴どの。効いたら教えてくだされ」
平蔵が他人をよそおった、

権七が口をはさんだ。
「清らかな色白になるとか、精が増し、ひと晩に数回も戦えるようになるというのはにわかには信じられないが、ニキビが一夜のうちに消えるというのは、ほんとうにできそうです」

「残った液で手の甲に塗り、乾いてから洗い流しますと、みごとに白くなっています。信じられないなら、片方の手の甲だけでためし、両手を比べれば信じざるをえません」

ちゅうすけ注】『医心方』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。


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