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2010.10.20

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)

「戸祭(とまつり)村の九助(きゅうすけ)と申す若者も、困窮のすえに、村を捨てた一人です」
(---九助? 覚えがないないが、4年ほど前に、家僕・太作(たさく 70歳近く)たち一行が宿泊した旅籠が、たしか、城下はずれの戸祭という里にあったような---)

参照】2010年3月24日[日光への旅] (

宇都宮藩の寺社奉行の配下である、寺社吟味役の石原嘉門(かもん 38歳 80石)があげた戸祭村には、盗賊〔荒神(こうじん)〕の助太郎一味が住まっていたことがある、そのことは隠しておいた。

参照】2010年10月15日[十手持ちの瀬兵衛からの留め書 ]

このところ平蔵は、〔荒神〕の助太郎とはこれから先も---たぶん、一生かけての因縁付きあいになるだろう、と思いさだめていた。

それだけに、他人の介入を拒否する気持ちが強くなってもいた。

「村むらが疲弊だと、ご藩内の実穫(と)れ高にも影響がでてきましょう?」
「むろんです。出費を節するばかりでなく、藩士には去年から家禄の5分(5パーセント)借りが始まりました。数年はつづきましょう」

昨秋、宇都宮城下に足をいれたときには、それほど困窮しているようには見えなかったが、いわれてみると、旅籠〔喜佐見(きざみ)屋〕もどことなく活気がなく、客の泊まり部屋もぜんぶはうまっていなかった。

石原嘉門が申しでたのは、村抜けをした戸祭村の九助の手配りを、元締・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべい 41歳)にやるようにすすめてほしいということであった。

「たったそれだけのことに、拙が宇都宮まで出向くわけで?」
「藩が〔釜川〕の元締に頼んだら、江戸の長谷川平蔵さまが宇都宮までお越しになり、やってくれといわれれば、やってやらないこともない---と、国元からいってきておるのです」
「7万石のご家中の寺社奉行どのがお頼みになっても---?」
「左様」

火盗改メ・土屋帯刀守直(ものなお 45歳 1000石)への届けも、西丸・書院番4の組の番頭の水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 56歳 3500石)の許しも得てあるといわれた。

春とはいえ、江戸から関八州の子(ね 真北)へ27里16丁(110km)の地への道中に吹く風はまだ、冷たかろう。

「で、戸祭村の九助は、いったい、ご城下で何をしたのかな?」

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] ) () (4) () () () (

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コメント

荒神の助太郎は、たしかに、このブログのもう一本の縦糸ですな。
裏へまわったかとおもっていると、突然、表へあらわれては、また裏へ隠れる、神出鬼没の盗賊です。
鬼平が追うのは、結局、むすめのお夏とわかっていても、つい、助太郎とお賀茂へ視線が流れます。

投稿: 左衛門佐 | 2010.10.20 09:17

>左兵衛左 さん
お賀茂ですが、京都育ちで、それで助太郎とできたと考えたのですが、きょう、三島の地図を眺めていたら、山手のほうに賀茂ヶ洞という実際の地名があってびっくりしました。

投稿: ちゅうすけ | 2010.10.20 16:38

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