〔初鹿野(はじかの)〕の音松(9)
横川に架かる法恩寺橋の北側の土手に腰をおろした2人の若者が話しあっている。
長谷川銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)と岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)であった。
うしろは、桜屋敷と呼ばれている草分(くさわけ)名主・田坂直右衛門の敷地だ。
銕三郎は、〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ 35歳)と〔軍者(ぐんしゃ)〕(47歳)を、しゃも鍋〔五鉄〕で見かけた晩、音松は深川森下町あたりに隠れているとおもいながら、長慶寺の参道前を疑いもしないで通りぎたことを悔やんでいた。
(〔五鉄〕からの帰り道、伊予橋の手前左手が長慶寺への参道。
池波さんがつねに愛用していた近江屋板切絵図)
「大伯父---いや、火盗改メのお頭(かしら)をはじめ、与力・同心衆も、〔初鹿野〕の音松が、まさか、墓守小屋にひそんでいたとはおもいもよらなかったらしい」
「寺は、寺社奉行の支配だからな」
「左馬さん。火盗改メは、僧侶神職であろうと、幕臣であろうと、引っくくっていいことになっている。それなのに、見逃した」
「墓守の---なんと言った?」
「徳造(とくぞう 42歳)」
「その徳造が消えたことを、長慶寺が寺社方(じしゃかた)にとどけでてはじめて、音松という首領が徳造の小屋で寝起きしていたことがわかったということなんだ」
「それは、すんだことだから、いまさらいっても仕方がない」
銕三郎が気にしているのは、〔初鹿野〕の一味が押し入った料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕での獲物が300両とちょっとだったことである。
押し入ったのは、掛取りの集金日のその晩で、料亭側が納入先への支払いをすませていないところを狙った。
手わけして掛取りにまわった店の者たちは、「ご苦労さん」酒に、いい気分で熟睡中だつたという。
「8人で押しいって、300両では、あやつらにしては無駄働き同然だろう」
「銕っあん。1人35両の収穫だよ。1家が3年は暮らしてゆける」
「左馬さん。ちがうんだよ。300両の3分の1---100両は次の仕事の仕掛け金として初手(はな)から除かれる。さらに、首領の音松がまず、50両は取ろう。〔軍者〕が30両。あとを1人10両平均---」
「120両を6人で割ると---」
「押しいったのは8人でも、見張りや舟方もいようし、徳造のような陰の者もいるから10人で分けてみる。10両そこそこでは、長屋の亭主のかせぎと変わらない」
「銕っあんは、まるで、盗賊の首領みたいに考えている---」
「そうでないと、あやつらの考え方についていけない。こんどの仕事の分け前がすくないといって不平がでると、一味の結束が弱まる。そこで、とりあえずの解散前に、もう一と仕事やるだろう」
料亭側の板場や女中で一件のあとに辞めていったものはいないから、内部で手引きをしたと思える者がいなかったことは、錠前あけの名手が一味の中にいることを暗示している。武田くずれの草の根(忍者)の末裔とおもわれる。ということは、次の仕事は、さしたる仕込みをしていなくてもやれるところを狙うとみていい。
「どこらだとおもう?」
「〔軍者〕次第だな」
「小男のことか?」
「侮れないよ。外見は非力そうだが、まさかの時には、2人や3人は殺してでもやりぬく肝っ玉をそなえている」
「で、その〔軍者〕の狙いを銕っあんはどう読んだ---?」
「うん---」
銕三郎がなにかいおうとした時、
「あら、お2人、ここにいらっしゃったのですね。いま道場へ草餅をお持ちしたんですよ。これ、余りものなんです、召しあがれ」
玉をころがすような若い声の主は、田坂名主の孫むすめ・ふさであった。
(春信 ふさのイメージ)
左馬が、たちまち、かしこまった。
【ちゅうすけ注】ふさのイメージに、春信をあてたのは、時代的にみて、ふさわしいとおもうからである。春信が初めて多色刷りの錦絵美人画を発表したのは明和2年(1765)。ということは、銕三郎が20歳の時の美人は、史実をふんでいうと春信風でなければならない。
歌麿も北斎も、銕三郎が平蔵宣以を称してから以降である。まあ、小説が史実ばかりでないように、浮世絵も史実をふむ必要はないのかもしれないが。
【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
最近のコメント