北町奉行・初鹿野河内守信興
初鹿野(はじかの)河内守信興というと、『鬼平犯科帳』文庫巻5に所載[鈍牛(のろうし)]に、北町奉行として登場。
長谷川平蔵が火盗改メの本役になるよりほんの一ト足早く、天明8年(1798)9月10日、浦賀奉行から北町奉行へ抜擢された仁。時に45歳。
着任のときはまだ河内守に叙爵されていなくて、伝右衛門という名で『柳営補任』に記録されている。
しかし、出自は、武田系の名門・依田豊前守政次の三男。将来を大いに嘱目されて、これも武田系の初鹿野家の養子に迎えられた。
『鬼平犯科帳』には、 〔初鹿野〕の音松という盗賊が登場している。そう、〔舟形〕の宗平のお頭である。
盗賊のほうの〔初鹿野〕は、ご想像のとおり、山梨県東山梨郡大和町初鹿野の出身だが、町奉行のほうのは、河内守の初鹿野家は、村名とは関係がなく、武田の部門に古くからつたわる苗字を、信玄が加藤伝右衛門昌久に継がせたものという。
それはそれとして、池波さんは、
北町奉行・初鹿野河内守と火盗改方とは、どうもうまくいっ
てない。 p265 新装p279
史実は、そんなことは記していない。
平蔵が寛政2年に設立した人足寄場の維持費を、幕府が2年目になってケチったため、幕府の金蔵から3000両借り出した。
その3000両で、当時、値下がりがはなはだしかった銭を買ったあと、両替商たちを北町奉行所へ呼び出して、初鹿野奉行同席のものと「銭の値をあげよ」と命じた。
銭の値が上がったところで3000両分の銭を両替商たちに引きとらせて、寄場の維持費400両をひねりだした。
これが、平蔵が策士などといわれた経緯である。
もともと体調がすぐれなかった初鹿野河内守は、このことを苦に病んだかして、その年---寛政3年12月20日に身罷った、48歳であった。
初鹿野河内守にご登場ねがったのはほかでもない。
山本一力さんの初期の作品『損料屋喜八郎始末控え』(文春文庫 2003.6.10)という、北町奉行所の米(こめ)方筆頭与力・秋山久蔵と、かつてその部下だった喜八郎が、蔵前の札差相手に活躍するアイデア時代劇の文庫の、文月信さんの手になるカヴァー絵が、『江戸名所図会』の雪旦の[鎧の渡]の部分アレンジで、おもしろいとおもったこと。
と同時に、秋山与力の上司が初鹿野奉行だったこともある。
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