カテゴリー「016三奉行 」の記事

2007.08.30

町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)

天明7年(1787)5月20日前後の、暴徒による江戸の商家打ち壊しのときの、月番町奉行は北の曲渕甲斐守景漸(かげつぐ 1650石)であった。

記憶力のいい、あるいは、長谷川平蔵の史実に興味の強い方なら、曲渕甲斐守景漸---いや、当時は曲渕勝次郎景漸という名前に覚えがあるはず。
宣以(のぶため)の父・平蔵宣雄(のぶお)が小十人(こじゅうにん)組頭に栄転(宝暦8年 1758)して、しきたりにしたがって先任の組頭たちを東両国の料亭〔青柳〕に招待したときに、宴が果ててから、舟に誘った仁である。

2007年5月29日[宣雄・小十人組頭を招待]
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]
2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸(2)]
2007年6月10日[羽太(はぶと)求馬正尭(まさかみ)]

曲渕勝次郎景漸は、小十人組頭を1年半で終え、宝暦9年(1759)1月には目付、明和2年(1765)には大坂町奉行(46歳)、同6年(1769)には江戸へ呼び戻されて北町奉行(50歳)に栄進。

天明7年5月の騒擾事件のときは58歳の分別ざかりであった。

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第3編[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]から、御庭番の風聞書に報告され北町奉行の評判を、現代文に書き換えて引用する。

一 このたび、町方(町人)たちが騒ぎたてた件は、はなはだご公儀を憚らず、恐れながら、ご威光も薄く、あれこれ宜しくありませぬ。上様の噂なども口にして、なんとも恐れおおいことであります。全町奉行の取り扱いが悪かった故と、もっぱら風聞しております。

一 町奉両人(南は山村信濃守良旺 たかあきら 59歳 500石)のうち、別(わ)けても曲渕甲斐守 (景漸)の風聞はよろしくありません。暴徒町人たちの取り鎮めは町奉行の手にあまり、お役目を果たしておりらぬといっています。
取り鎮めのために、町奉行、与力、同心がつぎつぎに現場にむかいはしますものの、騒ぎ立てている者たちの中へ入って召し取ることは一切なく、騒ぎにまぎれて小さな盗みや挙動の不審な者だけを逮捕しているにすぎません。騒動の現場には寄りつきもしないとのことです。
まあ、逮捕した者の中には、騒擾煽動者に近い者もいるようですが、騒ぎの中へ飛び込んで召し捕ってはおりませぬので、町人たちの風評もまことにもってよろしくありません。
そのくせ、打ち壊しのあった跡へ現れるのですから、鎮圧にはまったくならず、役柄に似合わないと、もっぱらの評判です。
こんどの騒動については、前ぶれのようなものを感じた与力の中から、甲斐守へうちうちの報告をしたようですが、奉行はまったく採り上げなかったそうです。そのときに手を打っておれば、かほどの騒ぎにならなかったわけで、もってのほかの大騒動になったのは、町奉行のあれこれの手違いが多かったためと取りざたされております。

いやはや、30代の小十人組頭のころの、目から鼻へ抜けるような俊敏さ---というより、出世に目のなかった目はしの利きようは、まったくうかがえない。

2006年9月26日[町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら)]

まあ、町奉行もそうだが、奉行所の与力、同心たちの逃げ腰ぶりも目にあまるとはこのこと。捕物帳にでてくる捕り方と似てもにつかない。これが史実---ほんとうの姿というのでは、あまりに情けない。

そんなこんなで、北町奉行の曲渕甲斐守景漸は、騒擾が鎮まった6日後の6月1日には早くも町奉行を免じられて、西丸の留守居に左遷されている。御庭番のリポートの威力も恐ろしい。

とはいえ、町奉行所は機動隊ではない。そういう大がかりな鎮圧訓練もしていなければ、装備も備えていなかったと思える。あったのは、1人か2人の悪人逮捕用の捕り道具であったろう。

機動隊といえば、火盗改メである。堀 帯刀秀隆(ひでたか)の組はどうであったか、非常出動命令をくだされた先手の10組はどうであったか、その風聞書もある。

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2006.09.26

町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら)

山村十郎右衛門良旺(たかあきら)が、安永2年(1773)6月22日に病卒した長谷川備中守宣雄の後任として、京都西町奉行に着任し、江戸へ帰る長谷川一家のことにあれこれ気を配ったことは、今年7月27日の本稿で述べた。

病卒した長谷川宣雄の享年は55歳。
後任の山村良旺は45歳、よほどの能吏であったのだろう。着任2ケ月後、当然のように従5位上(---寛政譜。下の誤記か)信濃守へ叙爵。

この山村良旺がある内命を与えられていたとするのが、三田村鳶魚(えんぎょ)翁である。
すなわち、禁裏役人が納入商人となれあって不正をはたらき、私腹をこやしている疑いがあるから、真相を究明しろ、というのがそれ。
Photo_209幕府が立て替える禁裏の諸費用が水ぶくれしていたための、私曲摘発だった。
(鳶魚江戸文庫8『敵討の話・幕府のスパイ政治』中公文庫 1997.4.18)

山村奉行の下司のかたちではたらいたのが、江戸から従ってきた徒目付(かちめつけ)中井清太夫で、姪を問題の禁裏役人に嫁入りさせるようなことまでして内偵につとめた。
その経緯は、本稿の主旨ではないから、顛末は上掲書でお読みいただくとして---。

じつは、この探索事件のことは、平岩弓枝さんも『御宿かわせみ』の第3話[卯の花匂う](『小説サンデー毎日』1973年6月号 のち文春文庫『御宿かわせみ』に収録)で触れている。
とはいえ、同文庫の新装版では削られている。主役や準主役に子どもたちが生まれ、年代あわせが困難になったためだろうと推察しているが。

いいたかったのは、禁裏役人の私曲にともなう御所経費の増大は、山村良旺が着任前から始まっていたろうし、敏腕をふるっていた前任者の長谷川宣雄が病死するなどとは、だれにも予想できることではないから、とうぜん、長谷川宣雄にも密命が伝えられていたろう推理。

とすると、奉行所の与力・同心へはもらすことができなかった宣雄は、息子の銕三郎へひそかに探索方を命じていたのではないか、ということ。このとき、銕三郎は27,8歳、仕事をさせられる年齢であった。

もちろん、山村信濃守でもなかなか成果があがらなかったほどの奥の深い事件だから、銕三郎の調査は難渋、ほとんどなにもつかめなかったとはおもう。
しかし、いろいろと探索の手だてを考えるのちの平蔵を想像してみるだけでも愉しいではないか。

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2006.07.27

「今大岡」とはやされたが

「町奉行は檜(ひのき)舞台。火盗改メは田舎芝居」といわれた。
(当時のいい方では、火盗改メはおんでこ芝居……小屋がけ芝居)。

火盗改メがあつかうのは罪状が明らかな盗賊や博徒(ばくと)などの刑事犯だから、判決も手っとり早い。

南北の町奉行所は、それらしく広大な役所を構ええていたから、お頭(かしら)の自宅に取調べ室や法廷や留置場を併設している火盗改メは、くらべられるとどうしても貧弱にうつる。
白洲も三メートルに五メートルあるかなし。「田舎芝居」の評は仕方がなかった。
(小説の清水門外の役宅はあくまで、池波さんの便法だった)。

巨盗をつぎつぎに捕らえ、江戸庶民から「今大岡」とはやされていたといわれる長谷川組の与力・同心たちの組下には、それが憤懣(ふんまん)のタネでもあった。

「大岡」とは、いうまでもなくテレビトラマなどで知られている大岡越前守忠相(ただすけ)のことで、平蔵から70年ほど前の町奉行。
吉宗の享保の改革を補佐した官僚としてより、明察・頓知の名裁判官の名のほうが高い。その「大岡」の再来というわけ。

「次の町奉行は平蔵さま」と触れてあるく者もいた。いまでいう新聞辞令。これで持ちあげられた仁はたいてい失脚する。大望をつつみかくしている高級官僚や大物重役は、新聞辞令を巧みにかわす術にも通じている。

よくいえば天衣無縫、見方を変えると中間管理職の必須のこころえ……面従腹非が平蔵はできない。町奉行の椅子を強く望んでいることをかくそうとしなかった。

火盗改メ本役について2年目の寛政元年(1789)に、親しいと思っていた人へ洩らした。「おれは書物こそそれほど読んではいないが、町奉行火盗改メのことは、生まれつきのように悉知している。ちかごろの町奉行のやり方は見ていて歯がゆい」

先手組頭1500石高町奉行3000石高。が、平蔵とすれば収入の倍増をねらっての弁ではなく、桧舞台で腕をふるってみたかったのだ。

北の奉行は初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき 1200石)、南は山村信濃守良旺(たかあきら 500石)だった。

Photo_31山村信濃守は、平蔵の父:宣雄京都西町奉行に在職中に病没したときの後任者で、後始末をして江戸へ帰る平蔵の面倒をなにかとみてくれた人。
平蔵町奉行誹謗(ひぼう)を耳へ入れると、赤坂築地中ノ町(現・港区赤坂6丁目)の屋敷へ招いた。(山村家家紋=j丸の内一文字)
信濃守61歳、平蔵44歳。

「わたしは遠からず別の職へ移るでしょう。あとは平蔵どの、との声も城中にはあります。くれぐれもご留意を」
「うけたまわりました。したが、あれは南のことをいったのではありません。北も河内守どののご着任で面目一新と拝察」
「火盗と異なり、町奉行所にはしきたりやしがらみが多すぎましてな」

城中で「町奉行目付を経験していて家禄500石以上、爵位・従五位下がしきたり」との反対がでたことを、信濃守はあえて口にしなかった。
「瑕瑾(かきん)なきは人材にあらず」と信じていたからだ。

長谷川家400石、そして平蔵は目付の経験なし、従五位下より一ランク下の布衣(ほい)、しょせん町奉行の目はなかった。

つぶやき:
Tenkanki_1大岡忠相の政策企画者としての業績については、大石慎三郎先生の『大岡越前守忠相』(岩波新書)がもつともすくれているが、最近再読したばかりなのにいま手元にみつからない。
これにかわる著述てとして、同じく大石先生の『江戸転換期の群像』(東京新聞出版局 1982.4.23)の[大岡忠相と徳川光圀]をあげておく。

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2006.07.04

北町奉行・初鹿野河内守信興

初鹿野(はじかの)河内守信興というと、『鬼平犯科帳』文庫巻5に所載[鈍牛(のろうし)]に、北町奉行として登場。

長谷川平蔵が火盗改メの本役になるよりほんの一ト足早く、天明8年(1798)9月10日、浦賀奉行から北町奉行へ抜擢された仁。時に45歳。
着任のときはまだ河内守に叙爵されていなくて、伝右衛門という名で『柳営補任』に記録されている。

しかし、出自は、武田系の名門・依田豊前守政次の三男。将来を大いに嘱目されて、これも武田系の初鹿野家の養子に迎えられた。

『鬼平犯科帳』には、 〔初鹿野〕の音松という盗賊が登場している。そう、〔舟形〕の宗平のお頭である。

盗賊のほうの〔初鹿野〕は、ご想像のとおり、山梨県東山梨郡大和町初鹿野の出身だが、町奉行のほうのは、河内守の初鹿野家は、村名とは関係がなく、武田の部門に古くからつたわる苗字を、信玄が加藤伝右衛門昌久に継がせたものという。

それはそれとして、池波さんは、

 北町奉行・初鹿野河内守と火盗改方とは、どうもうまくいっ
 てない。                p265 新装p279

史実は、そんなことは記していない。

平蔵が寛政2年に設立した人足寄場の維持費を、幕府が2年目になってケチったため、幕府の金蔵から3000両借り出した。
その3000両で、当時、値下がりがはなはだしかった銭を買ったあと、両替商たちを北町奉行所へ呼び出して、初鹿野奉行同席のものと「銭の値をあげよ」と命じた。

銭の値が上がったところで3000両分の銭を両替商たちに引きとらせて、寄場の維持費400両をひねりだした。

これが、平蔵が策士などといわれた経緯である。

もともと体調がすぐれなかった初鹿野河内守は、このことを苦に病んだかして、その年---寛政3年12月20日に身罷った、48歳であった。

初鹿野河内守にご登場ねがったのはほかでもない。
2_4
山本一力さんの初期の作品『損料屋喜八郎始末控え』(文春文庫 2003.6.10)という、北町奉行所の米(こめ)方筆頭与力・秋山久蔵と、かつてその部下だった喜八郎が、蔵前の札差相手に活躍するアイデア時代劇の文庫の、文月信さんの手になるカヴァー絵が、『江戸名所図会』の雪旦の[鎧の渡]の部分アレンジで、おもしろいとおもったこと。

と同時に、秋山与力の上司が初鹿野奉行だったこともある。

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