宣雄、小十人組頭を招待
平蔵宣雄(のぶお)が、新任ごあいさつのために、9人の小十人組頭を東両国の料亭〔青柳〕へ招待したのは、宝暦8年(1758)の10月初旬のある日の夕刻であった。初冬をおもわす陽ざしは、はやばやと西の空に消えかかっていた。
東両国駒止橋ぎわ、料亭〔青柳〕(『江戸買者物独案内』1824)
非番組は、駒止堀ぞいの会場へ、それぞれに現れた。
宣雄は、宴会場の下座に陣どり、一人々々を参会への謝辞で迎えた。
出勤組にあたっていた組頭たちは、〔青柳〕が迎えに鎌倉河岸まで出した屋根船でやってきたところで顔がそろった。
改めて、宣雄は、今後ともよろしくお引き回しをと頼む。
当番の、3番組頭・荒井十大夫高国(たかくに)が、長老の2番組頭・佐野大学為成(ためなり)になり代わって、招待にたいする礼の辞を簡単にかえしただけで、さっそくな酒席となった。
宣雄は、銚子の弦(つる)をもって、一人々々の惣朱塗内金蒔絵の盃へひととおり酌をしてまわった。
6番組の本多采女(うねめ)紀品(のりただ)へ注いだとき、
「芝二葉町のご隠居が、長谷川どのの訪問を待ちわびておられますぞ」
と、笑いながら言った。
二葉町の隠居とは、紀品の一族---駿州・益津郡の田中藩の元藩主・本多正珍(まさよし)のことである。この仁と宣雄との交渉は、2007年5月18日[本多伯耆守正珍の蹉跌(その4)]のほかにも記した。
1番組頭の曲渕(まがりふち)勝次郎景漸(かげつぐ)の盃に酒を配ったとき、
「宴が終わってから、小半刻(30分)ほど、お手間をとらせたいのだが」
とささやかれた。もちろん、うなづいた。
宴は1刻(2時間)で無事に終わった。手土産は8番組頭・仙石政啓(まさひろ)の助言のとおり、元飯田町〔壷屋播磨〕の菓子類であったが、とがめた者はいなかった。
曲渕景漸は、宣雄を引き止めるのでなく、小ぶりの屋根船を 〔青柳〕に近くの船宿から雇わせていた。
船には、7番組頭の神尾五郎三郎春由(はるより)も乗っていた。神尾の屋敷は神田橋門外なので、昌平橋までとのことだった。
船が大川へ出ると、さっそくに曲渕がきりだした。
30歳代の組頭だけで講を設けたいと。
宣雄が、何のための講かと訊くと、曲渕は、いや、まさかのときに立ちはたらけるのは若い力であるから、と言をにごした。
宣雄は、「考えておきます」と、その場では受けなかった。
神田川まで神尾を送り、ふたたび大川へ出、鉄砲洲築地で宣雄が降りた。
宣雄は、船着場で木挽町の屋敷まで帰っていく曲渕の船の灯を見送った。
ひやりとする風が吹き抜けた。
【つぶやき】[宣雄は、銚子の弦をもって、一人々々の惣朱塗内金蒔絵の盃へ--]としたのは、徳利は座敷では使わなかったから。
居酒屋は燗をした<ちろり>のままで出し、料亭は<ちろり>から銚子へ移して出したと、喜多村守貞『守貞漫稿』は銚子の絵を添えている。
400石の宣雄でも私用外出には小者を従える。ましてや、1000石や2000石の役付き幕臣は一人では出歩かない。料亭は、小者たちのための食事も用意している。その分の請求は、もちろん、長谷川家へ。ただ、わずらわしいので、本文からは小者の影を消した。
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