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2007.12.11

宣雄、小十人頭の同僚(2)

「この先、御鉄砲場の近くに、わが家の縁者・長谷川久三正脩(まさなる 52歳 4070石)の下屋敷がございます」
「おお。御納戸町にお屋敷をお持ちの---下屋敷とはうらやましい」
「なに、1万坪もの土地に、いたずらに雑木を茂らせ、狐狸(こり)に貸しておるだけとか」

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(赤○=長谷川久三郎の千駄ヶ谷の下屋敷)

2人は笑った。小十人頭の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)と長谷川平蔵宣雄(のぶお 44歳)であった。
向かっているのは権田原。、同じく小十人頭の羽太求馬(きゅうま)正堯(まさたか 49歳 700石)の屋敷である。
ときは、宝暦12年(1762)10月の小春日和(こはるより)の午後。

つい、5日ほど前に、羽太の息・半蔵正忠(まさただ 21歳)の才幹を幕府がみとめたということで、家督前に書院番の第2組に召された。
その祝儀の品を届けるために、出向いている。
わざわざ---といってはなんだが、2人とも、それを口実に、憂さばらしをしようというわけである。
とりわけ、宣雄は、嫁に出した多可が、男児を産んだのはいいが、産辱熱であっけなく逝ってしまったことで、気分が沈んでいた。
本多紀品にさそわれのを機に、気分を改めようと思い立った。

幕府が、親がまだ引退していないのに、その嗣子たちを取り立てたのは、羽太家だけでなく、百人近かった。
一橋家の家老職を勤めている田沼能登守意誠(おきのぶ 42歳 800石)の息・主水意致(おきむね 22歳)は小姓組番士に、石谷淡路守清昌(きよまさ 42歳 勘定奉行兼長崎奉行 800石)の息・左衛門清定(きよさだ 17歳)は西丸小姓組に召された。

羽太どののお住まいは、六道の辻の近くと聞いております」
長谷川どのにお任せです」

2人は、大山街道(現・青山通り)から六道の辻へ向けて、駒を右折させた。
祝儀の品・鰹節は、従っている若侍たちが携えている。
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(右=伊勢屋伊兵衛 にんぺんの屋号で知られる鰹節問店
『江戸買物独案内』  文政7年 1824刊)

ちなみに、鰹節の贈答用商品切手を考案して大ヒットさせたのは、にんべんの伊勢屋の六代目伊兵衛で、もっと後世---文化文政のころである。

宣雄は駒足をすこし早めて従者との距離をとり、小声で、本多紀品に訊いた。
本多どのも小十人のお頭(かしら)が、10年近くになります。そろそろ、先手の組頭へ---」
「なにをいわれる。先手の役料は1500石。拙の家禄は2000石---なんのたしにもなりませぬわ」

それから2ヶ月とたたないで、本多紀品は、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭を命じられた。
先任の島弥左衛門一巽(かずかぜ 52歳 1500石)が、火盗改メを兼務していて、組下の同心が失態を演じて辞職に追い込まれたらしい。

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