宣雄、小十人頭の同僚(3)
宣雄(のぶお)の同僚、小十人組の頭(かしら)の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)が、
「先手の役料は1500石。拙の家禄は2000石---なんのたしにもなりませぬわ」
といったことについて、若干の解説を付しておく。
まず、小十人組。
扈従が転じたものといわれる。主君をとりかこむ徒(かち)の士である。
組数は時代によって増減があったが、宣雄のころは10組。
番衆は1組20人。100石高10人扶持。
頭は1000石高で、布衣(ほい)。番方(武官系)幹部候補生のスタート・ラインの一つである。
次のステップは、1500石高の先手組頭。
中には、役方(行政職系)の目付(1000石高)を望む者もいる。町奉行(3000石高)への必須コースと思われているからである。
1000石高とは、ポストについている役料だが、家禄がそれ以下の場合は、家禄を差し引いた残り分を足(た)して役高になるようにする。その足し分を足高(たしだが)という。
宣雄の例でいうと、家禄が400石だから、小十人頭に就くと、600石の足高がもらえる。足高がつくこと、あるいは加増があることを、武家では出世という。
先手組頭は、役高は1500石だから、小十人頭はもとより、同じ1000石高の徒(かち)の組頭や目付などが狙っているから、競争相手は多い。
いっぽう、家禄が1500石以上---本多紀品のように2000石もあると、足高はつかない。
先のことになるが、鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の火盗改メの先任者・堀帯刀秀隆(ひでたか)も家禄が1500石だったから足高はもらっていない。
宣雄が小十人頭に抜擢されたときの同僚9人のうち、先手組頭になったのは宣雄を含めて6人だから、当時としては、かなり率がいい。
その6人の一人---仙石監物政啓(まさひろ)の『寛政譜』を掲げる。
仙石政啓が小十人組・8番手の頭になったのは宝暦3年(1753)で、50歳のとき。
先手・鉄砲(つつ)の19番手の組頭に栄転したのは宝暦12年(1762)の4月だから、10年近く、小十人組の頭をして待ったことになる。59歳になっていた。
34組ある先手組頭が、番方の爺捨て山といわれるゆえんでもある。つまり、ほとんど、行き止まりなのである。
しかし、仙石政啓は幸運にも、その上の持筒(もちつつ)の頭へ栄転している。これは頭が4人しかいないから、競争率はかなり高い。
もっとも、役料はあがらず、先手組頭と同じ1500石。組衆は50人だから、音物(いんもつ)は多くなるかもしれないが、配下が多い分、出費もともなおう。いってみれば、名誉職みたいなものであろう。
それよりも、87歳まで長生きした政啓が、致仕(ちし)後、300俵の年金をらもらっていることに注目。ある程度の役職をこなすと、この年金300俵がつく。
換算すると、年3000万円。
高級官僚が、退官後に退職金かせぎの渡りをするのは、この年300俵の養老米がつかないからかも。
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