カテゴリー「075その他の与力・同心」の記事

2010.05.06

筆頭与力・脇屋清吉(きよよし)(2)

「女将どのからご老中のお耳に入ることもありますまい---」
火盗改メ・菅沼組の筆頭与力の脇屋清吉(きよよし 47歳)が里貴(りき 31歳)の顔に視線をはしらせながら、
「手ばやく申せば、長谷川さまのお知恵をお借りいたしたいのですよ」

里貴は、微笑みは絶やさないが双眸(りょうめ)をかがやかせ、平蔵(へいぞう 30歳)を瞶(みつめ)る。
(馬鹿だな。脇屋どのに発覚(パレ)るではないか)

白石どのはご健在でしょうか?」
白石? 書役(しょやく)同心・時次郎(ときじろう)がことでしょうか?」
時次郎どのとはおっしゃらなかったような---」
「隠居した友次郎ですと、昨年、亡くなりましたが、何か?」

参照】2009年2月9日[〔高畑(たかばたけ)〕の勘助] (

6年前に、友次郎の控え帳に記されていた盗人(つとめにん)のことを、脇屋与力に告げた。
「いや、別人の公算のほうが大きいとは思います」

その理由として、〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ)が生存しているという噂がないことをあげると、里貴のほうがおどろきの嘆声を発した。
(てつ)さ---長谷川さまは、盗人の世界にも密偵を入れていらっしゃいますのですか?」
「密偵? そんなものは使ってはおりませぬ」
「でも---」
「〔耳より〕の紋次(もんじ 32歳)という読みうりの集め屋と見知りの仲なのですよ」

本石町(ほんこくちょう)の刻(とき)の鐘が、暮れ六ッ(午後6時)を打った。
それを待っていたように、脇屋与力が、まだ、役宅に所要が残っているからと、立った。

見送りから戻ってきた里貴が、
「お品代をいただきました」
1分(4万円)つつまれていた。

「無理させたな」
「無理なものですか。お召しものだって、高価なものでしたよ。それに、今夕のは、さまのお知恵l料でしょ」
言ってから、里貴は舌をちろりとだした。
そういういたずらっ子らしい蓮っぱな仕草が、武家育ちでないことを洩らしているし、31歳という年齢を隠していた。

火盗改メの与力には、役料20人扶持が給される。
1人扶持は1日玄米5合である。
20人扶持だと1斗。
搗きべりを2割とみても、8升。
1升100文として、800文。
5日で1両(16万円)。
悪くはない。

帯のあいだから鍵を抜きとり、
「先にお帰りになって、いてください。なにか、酒の肴をつくらせます」
鍵を平蔵の懐に押しこんだついでに、乳首をつまんでから、板場へいいつけるために出ていった。
後ろ姿の腰のゆれが、喜びをいっぱいに語っていた。


       ★     ★     ★


いつものように『週刊 池波正太郎の世界 21 鬼平犯科帳六』(朝日新聞出版)が送られてきた。

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A__120この号で面白かったのは巻末の聞き書き[わたしと池波作品]で、同心筆頭・酒井祐助を演じている勝野 洋さんの裏話。[「死ぬ覚悟」を持った酒井を本気で演じています]というタイトルどうり、撮影にはいると、殺陣のシーンを撮ってほしいと頼んでいると。
さらに愉快なのは、まだ、原作は一次も読んでいないと。察するに、台本どおり、画面にあらわれたとおりの酒井祐介を演じているということであろう。
それも一つの役者魂とおもった。
もっとも、原作から自分の役のイメージをつくるのも、また、役者魂ともおもうが。

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2010.05.05

筆頭与力・脇屋清吉(きよよし)

長谷川さま」
西丸の大手門を出たところで、声がかかった。
声の主は、先手・弓の2番手組の筆頭与力の脇屋清吉(きよよし 47歳)であった。

「お差支えなければ、軽く---}
脇屋与力は、人のよさそうな笑顔でさそった。
平蔵(へいぞう)は、供の桑島友之助(とものすけ 43歳)や松造(まつぞう 24歳)たちに先に帰るように指示し、内濠沿いに北へ歩いた。

弓の2番手は、いま、火盗改メのお頭が菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2025石)で、屋敷は小石川大塚吹上---護国寺前からの富士見坂上である。
組屋敷は目白台だから、どっちにしても大手門からは北へ行くしかない。

「一橋の北詰に、ちょっとした茶寮があります。そこでよろしいでしょうか?」
「なにしろ、祖父の代から目白台に住みついておりますので、こちらあたりはとんと---」
謙遜の辞に、平蔵は、内心で舌打ちした。

火盗改メの守備範囲は府内一円はおろか、関八州にまでおよんでいる。
市中身廻りも仕事のうちである。
適当な屯所の三つや四つは、城まわりにあるはず。

「お城へご用でも?」
「評定所に呼びだされましてな、お頭の代理で弁じてきました」

幕府の最高裁判所ともいえる評定所は和田倉門の東、道三河岸に面していた。
そこから大手門までは、8丁(約1km)近くはある。
(わざわざ大手門まできたということは、おれに用があったのだ)
しかし、茶寮〔貴志〕に落ちつくまでは、用向きの話題は避けておくにかぎる。

〔貴志〕では、平蔵を認めた女中が、ころがるように、
「女将さーん」

帳場から出てきた女将・里貴(りき 31歳)に、
「予約をいれていないが、いいかな?」
形だけ訊いてやった。

「ようこそ、お運びくださいました。すっかりお見かぎりと噂をしていたところでございます」
里貴も調子をあわせながら、脇屋の値ぶみをしている。
脇屋清助は、恰幅はいいし、温顔で目もふだんは細めているが、ときにまぶたがあがったときの眼光は鋭い。

「力になってくださるお人でな、火盗改メ方の筆頭与力さまだ」
「なにをおっしゃいます。手前どもの組のほうが、お力添えをいただいております」
「ま、ごあいさつは、お部屋へお通りになりましてから---」
平蔵の側に並んで案内しながら、それとなく触れていた。

並べてつくにられた席の前に、里貴が向きあって饗応するが、ともすると、笑顔が平蔵にそそがれた。
酒と料理がでても、脇屋与力は話をきりださなかった。
つききっりの里貴のせいと察した平蔵が目顔でしらすと、
「また、お伺いいたします」
たくみに座をはずした。

「きれいな女将ですな」
田沼意次 おきつく゜ 57歳 老中)侯のお声がかりです」
「われわれは相手になりませぬな」

脇屋語ったところによると、8日ほど前、四谷の南寺町の麟勝寺が山門の落成祝いをした晩に、奇妙な賊が押し入った。
庫裡にしのび入り、深酒で寝入っていた寺の者みんなを目隠しをしたうえで、住職を本堂へつれだし、須弥壇の裏に隠してあった山門の建て替え金の残金250両を持ち去ったという。

押しこんできたのは8人ほどらしいが、起きたとたんに目隠しされたので、はっきりしなかった。

平蔵の脳裏には、6年前にかかずらわった谷中の大東寺の事件が浮かんだが、黙って脇屋与力の語りに耳を傾けていた。
語り終わらなければ、どういう依頼かわからないからもあった。

参照】2009年2月2日~[{高畑(たかばたけ)〕の勘助] () () () () () () () () () (10) 

脇屋の話が終わったときには、銚子が空になっていた。
手をうつと、待っていたように、里貴が新しいのを捧げてあらわれ、
「お熱いところをお酌させてくださいませ」

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2009.10.03

京都奉行所・西組与力の名簿

膨大な随筆の集成『翁草 2』(吉川弘文館 1978.4.5)をくっていたら、京都町奉行所の与力衆の名簿に行きあたった。

筆者の神沢貞幹が東町奉行所の与力・神沢弥八郎の養子に入り、その娘を妻とし、養父の跡目を継いでいること、『翁草』が明和・安永・天明・寛政の初期にわたって書きつづけられたことをおもえば、とうぜん、備中守宣雄平蔵宣以に筆がおよんでいるかもしれないとおもうのは、人情であろう。

それで、全巻に目を通してみた。
が、長谷川平蔵宣以の名は、天明7年(1787)の江戸打ちこわしのときの鎮圧組に発令されたと出ているだけであった。

もっとも、神沢与兵衛 よへえ 貞幹)が与力を勤めたのは享保19年(1734 25歳)から宝暦3年(1753 44歳)の20年間であったらしい。

あとは病身を理由に公事方を退任、養子・弥十郎と入れ代わった与兵衛貞幹)は、渉猟・執筆の日常に専念したようである。

奉行所の与力の移動はかなりくわしく記されている。
ただし、西組与力に浦部源六郎の名はない。
浦部与力が池波さんの創作であることがはっきりしただけでも、鬼平ファンとしては満足である。

それと、も一つ、大きな発見があった。

先月、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ]をめぐってあれこれ考察した。
処刑された首犯一味の一人---賄頭の飯室(いいむろ)左衛門大尉(だいじょう)については、かなり書きこんだつもりである。

翁草』に、奉行所西組の与力の一人に、飯室十右衛門の名を目にしたとき、鳶魚翁が、京都の町奉行所の与力・同心の中には、御所役人と縁つづきの者もいようから、幕府は探索を秘密裡にすすめよと山村信濃守良旺(たかあきら 45歳 500石)に命じたわけが、判然とした。

享保(1716~35)の初めのころとある、奉行所西組の与力名と担当職務を掲げる。

深谷平左衛門  (公事方)
熊倉市太夫    (同)
真野八郎兵衛  (同 同心支配兼)
野村与一兵衛  (勘定方 同心支配兼)
下田忠八郎    (勘定方)
石橋嘉右衛門  (目付新家方)
才木喜六     (同)
中井孫助     (同)
本多文助     (証文方)
三浦儀右衛門  (同)
手島織右衛門  (加番方欠所方兼)
棚橋源右衛門  (同)
入江安右衛門  (御番方)
砂川金右衛門  (同)
鵜飼冶五右衛門 (同)
渡辺熊右衛門  (同)
飯室十右衛門  (同)
木村源右衛門  (同)
比良甚兵衛    (同)


次に西組が記録されているのは、享保10年(1725)である。

熊倉市太夫    (公事方)
真野八郎兵衛  (同 同心支配兼)
野村与一兵衛  (同)
下田忠八郎    (勘定方)
才木喜六     (同)
石橋嘉右衛門  (目付新家方)
中井孫助     (同)
砂川金左衛門  (同)
三浦儀右衛門  (証文方)
手島織右衛門  (加番方欠所方兼)
鵜飼冶五右衛門 (上同)
手島織右衛門  (欠所方兼)
棚橋源右衛門  (上同)
渡辺熊右衛門  (御番方)
飯室十右衛門  (上同)
木村源右衛門  (同)
比良甚兵衛    (同)
元木平次右衛門 (同)
桂元右衛門    (同)
八田新左衛門  (同)
深谷平左衛門  (同)

一気に安永3年(1774)飛ぶことにする。

中井孫助     (公事方 同心支配)
入江吉兵衛   (同支配)
不破伊左衛門  (同支配)
深谷平左衛門  (勘定方)
熊倉市太夫   (同)
手島郷右衛門  (同)
前田忠次郎   (目付方)
真野八郎兵衛  (同)
飯室嘉伝次   (同)
渡辺熊右衛門  (証文方)
上田権右衛門  (嘉伝次アト)
桂元右衛門   (欠所方)
棚橋源右衛門  (権右衛門アト塩津改)
長尾十郎助   (御番方)
砂川直右衛門  (同)
入江判次郎   (同)
鵜飼孫之進    (御番方)
野村彦三郎   (同)
三浦儀右衛門  (同)
本多高四郎   (同)
  (いずれも先任→後任の順)

注目すべきは、安永3年(1774)の名簿から、飯室(嘉伝次)の後任として上田権右衛門が就任し、その上田もすぐに棚橋勝右衛門に席をゆずっていること。

安永3年といえば、御所官人・飯室左衛門大尉らが死罪に処せられた年である。
飯室嘉伝次も、一族ということで遠ざけられたのであろうか。

飯室家は、享保(1716~35)の初めのころの名簿の十右衛門から、助左衛門文右衛門(2人が襲名したもよう)とつづき、明和5年(1776)以降に嘉伝次が勤めてきた西町奉行所の与力職であった。

ついでながら、嘉伝次は、明和3年(1774)10月に番方4番手で病身でもあった飯室文右衛門に代わって真野姓で跡役として抱えいれられ、同5年(1776)に飯室姓となっている。つまり、養子に入ったのであろう。


それはそれとして、飯室家が上記の結果となって終わった真相は、いまのところ不明。
記録のありどころを探し、究めてみたいことの一つである。


ちゅうすけからのお願い】上記の西町奉行所・与力の末裔・縁者の方々、お話をお聞きしたいので、ご連絡いただけれるとうれしい。

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2009.09.18

同心・加賀美千蔵(6)

「どうであったな、東町の同心衆は---?」
表の役所からさがってきた父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)が訊いた。

加賀美どのの祖は、武田勝頼(かつより)公の側近であった跡部(あとべ)尾張守勝資(かつすけ 1547~1582)に愛想をつかして、京へひそんだ仁だそうです」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)の受け売りに、宣雄は、
(てつ)。ものごとを片側からからのみ見てはならぬ」

戦前に出た平凡社『日本人名大事典』は、『甲陽軍鑑』の記述を参考にしたか、跡部勝資について、

戦国時代の武人。大炊助と称し、武田信玄に仕へて、その侍大将となる。信玄の歿後その子勝頼Iに事へしも、長坂釣閑と共に専権の行あり。ために誠忠の士多く勝頼を離れたといふ。

徳川の陣営にはいった跡部姓は、『寛政譜』には7家が収録されている。

太田 亮著・丹羽基ニ編『新編姓氏家系辞書』(秋田書店)は、

阿刀部(アトベ)氏 信濃【清和源氏、小笠原伴野氏族】又跡部とも書く。信濃阿刀部の後裔だが伴野時長の子長朝が阿刀武を称してから、系を小笠原に引くを常とする。
尊卑分脈に「小笠原長清-伴野時長-長朝(号阿刀部)-泰朝-時朝」と見える。
和名抄小県郡に跡部郷を載せているが、この氏は南佐久郡野沢町大字跡部を本拠とすると云う。

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跡部(アトベ)氏 信濃、甲斐【清和源氏、小笠原伴野氏族】前条の阿刀部氏の跡である。行忠より系がある。寛政譜に七家を載せる。家紋松皮菱(右図)。

また、近時は、『甲陽軍鑑』の呪縛から離れた評価が行われるようになってきている。、

参考】[跡部勝資]

おかしなことに(---といっても、おなじ小笠原流れなので、あたりまえかもしれないが---)加賀美一族の家紋も〔松皮菱〕である。

ふたたび『太田 亮博士著・丹羽基ニ編『新編姓氏家系辞書』から---。

加賀美(カガミ)氏 甲斐【百済帰化族か】美濃各務勝の一族中巨摩郡に移住して各務という地名を生じ、後に加賀美と云った。
甲州で大いに栄えたが、遠光が武田氏より出て此の氏名を冒したので全族が源氏を称している。
寛政譜ではニ家を記載。家紋中太松皮菱。割菱、五七梧桐、王文字。

加賀美(カガミ)氏 甲斐【成和源氏 武田氏族】前条氏名を冒したもの。
尊卑分脈に「義清-清光-遠光(信濃守、加賀美二郎)-長清-(加賀美小二郎)-長経」とあり、また「長清の弟光清(加賀美二郎)」と見え、成和源氏図には、「猶遠光-経光、加賀美四郎」と見える。武田系図に「義清-遠光(加賀美次郎)とあるのは誤りであろう。

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五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鑑』(吉川弘文館)は、足かけ5年がかり、全16巻、歴史学徒による詳細な注が有用という壮大な企画で、これまでのところ第6巻まで刊行されている。

同シリーズを杜撰ながらあたってみたところ。加賀美長清小笠原二郎)の名が4ヶ所、遠光(とうみつ)が1回現れているが、事蹟の記述はない。

それでウェブをあたってみた

参考】[加賀美遠光
[加賀美遠光館跡] http://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/site/page/info/bunkazai/shi/shiseki/kagami/
[鬼丸智彦さんのHP] http://www7b.biglobe.ne.jp/~onimaru/index.html
 


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[同心・加賀美千蔵] () () () () (

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2009.09.17

同心・加賀美千蔵(5)

「それにしても、半刻(はんとき 1時間)のあいだに消えうせるとは---」
同心・加賀美千蔵(せんぞう 3歳)がくやしがった。

「われわれが訪れたときには支度ができあがっていて、裏の賀茂川で丑三(うしぞう 40がらみ)が小舟をもやって待っていたのでしょう」
銕三郎のなぐさめに、巳之吉(みのきち 25歳)が、奉行所の小者らしく、口をはさんだ。
「河原町通りをあがっていったうちらに出会わへんかったんは、小舟のせえだったんどすな」

「いや、小舟は、さがったとばかりはいえない」
「えっ?」
加賀美同心が、聞きなおす。

「ふつうなら、川をくだると考えましょう。しかし、われわれがどこにいるかは、あの者たちにはわかっていません。そこで、うまく誤魔化すには、流れにさからって、川上で舟を捨てて潜むところを整えておいたかも知れませぬ」
「なるほど。そこでほとぼりがさめるのを待つ---賀茂川をさかのぼったか、高野川のほうをとったか--?」

加賀美どの。きょうのところは、あきらめましょう」
4人は、先刻の茶店へ引き返し、あらためて、銕三郎が〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)との因縁を語ってきかせた。

13年前の、小田原城下の松島神社と芦ノ湖畔での再会、そして三島宿までの道ずれ。

参照】2009年7月14日〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2)

三島宿で本陣の主人・樋口伝左衛門の手引きで、14歳だった銕三郎が、お芙佐(ふさ)から、初体験をえたことは、さすがに、あたり前ではあるが、洩らさなかった。

参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・芙佐(ふさ)]

4年後、養女で妹になる与詩(よし)を迎えに駿府へ出向いた小田原城下、薬種舗〔ういろう〕の前で顔をあわせたこと、さらに彼が盗賊であったことを推測したこと。

参照】2008年12月27日~[与詩を迎えに] (
[{荒神〕の助太郎] (4) (5) (6) (7)

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)夫婦が、奇妙なことを思い出したものだから、銕三郎は、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)・お(かつ 27歳)のカップルと親しくなった。
しかし、お・おのことも、加賀美同心への経緯(ゆくたて)語りからは省いた。

参照】2008年3月29日~[荒神の助太郎] (8) (9) (10

銕三郎がかかわった、駿府と掛川の事件は、加賀美同心の興味をいたく引いた。

参照】【参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10)(11
12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () (

「賊としては、いろいろと知恵をはたらかせる方ですな」
「浅知恵ではありますがな。知恵よりも、実情を調べることには長(た)けています。それと、おんなをとろけさせる技(わざ)---」
「は---?」
「いや。なに---」


[同心・加賀美千蔵] () () () () (

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2009.09.16

同心・加賀美千蔵(4)

松造(まつぞう 21歳)と小者が戻ってくるあいだ、焦慮をまぎらわせるためか、東町奉行所の同心・加賀美千蔵(せんぞう 30歳)は、いましなくてもいい話題を披露した。

町奉行所の与力と同心の俸禄と屋敷について、大坂のそれとくらべての愚痴であった。

俸禄が大坂並みに、与力が200石、同心が10石3人扶持にあがったのは、東が12代j前の松前伊豆守嘉広(よしひろ 56歳=転出時 1600石)、西は11代前にあたる小出淡路守守里(もりさと 48歳=致仕時 1600石)---つまり元禄のころ---70年前だという。
(まさに、役人の待遇の差別は恨み骨髄だな)

屋敷の広さも、大坂は与力が500坪なのに、京都は200坪、同心も大坂の200坪に対して京都は半分の100坪と嘆いた。

加賀美どの。むしろ、狭いのは、それだけ地価が高いと誇るべきではないでしようか。江戸の町奉行所の与力・同心衆も、屋敷の広さは京師とおなじと聞いております」
「大坂がうらやましい」
「転勤をお望みですか?」
「とんでもない」

(役人衆の、いつもの高望みの愚痴なのだ。しかし、なぜ、拙に---?)
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が案じかけたところへ、松造が首をかしげながら戻ってきた。
「幼な子の声はしませんでした」

小者・巳之吉(みのきち 25歳)が顔色を変え、あたふたと駆けるようにして帰ってき、どもって、つまりつまり報告。
「み---店の、表戸が、し、しまっとりますねん。き、近所の衆は、た---たしかに、2つぐらいの、女の子ォが、いとるいうとりまねんけど」

加賀美さん。急いで!」
銕三郎が飛び出た。
松造がつづく。
加賀美千蔵同心は、お茶にむせ、息をととのえる分、おくれをとった。

表戸を蹴破って入ったが、もぬけのから。
昨夜から準備をしていたらしく、奥はきれいに片づいていた。
店内の商品も、よくみると、のこしているのは安物ばかり。

「しまった。拙が来たことで、奴らは警戒したのです」
丑三(うしぞう 40がらみ)に、あんじょう、騙されましたな」

竃の前に、童女のものとおもわれる、片袖がなくなっている人形が落ちていた。

「いえ。手前が、きんのう、予告したよって、消えたんです」

       ★     ★     ★

[同心・加賀美千蔵] () () () () (

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2009.09.15

同心・加賀美千蔵(3)

賀茂川の手前に、いつかのとおり、その店はあった。
〔荒神屋〕と書いた看板もそのままである。

参照】2009年7月26日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (

刺し子をしていた店番の中年おんなも、まるで蝋人形のようにそのままの姿でいた。

ずいっと入っていった加賀美千蔵(せんぞう 30歳)同心が、
「亭主を呼べ」

おんなは、刺し子から目をはなさないで、
「きょうは、いてまへん」
「どこへ行った? 帰りは?」
「聞ィてェ、しまへん」

加賀美同心が、おんなの腕を打ち、
「こっちを見て、答えろ。きのうのうちに、きょう、来ることを報せておいたはずだ」
「そんなん、うち、聞ィてやおへん」
おんなは動じない。

「亭主が帰ってきたら、きょうのうちに、奉行所に出頭するように伝えろ。きっとだぞ」
「へェ」

加賀美同心は、銕三郎(てつさぶろう 27歳)を、丸太橋西詰の茶店に導き、茶をすすりながら、助太郎から〔荒神屋〕の屋号も店の品も居抜きで、買ったのが丑三(うしぞう)という中年男だと告げた。

20日ばかり前に会った中年の、大福餅のような丸顔で、人のよさそうな店主をおもいだしていた。
「いつ、店を買ったと言ってましたか?」
「所司代のご与力から、うちのお奉行に話がきてすぐだったから、7年前(明和2年 1765)の---」
加賀美同心は、初夏---4月の晦日近くだったようにおぼえていると。

参照】2008年3月23日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (

(出仕をするということは、記憶を研ぎすますということらしいな)
加賀美千蔵からも、銕三郎は一つまなんだ。

(まてよ。お(りょう 31歳=当時)から〔盗人酒屋〕あてに文をもらったのは、2年前(明和7年=770) だった。名古屋で助太郎と身重の賀茂(かも 30すぎ)らしいのを見かけたと書いてあった。賀茂は、前の女の子を悪い風邪で亡くしているとも報じてあった。
賀茂がややを産み、育てるとしたら、1年ほどは旅はできないfず。どこかに定着して育てているに違いない)

参照】200年4月30日[お竜(りょう)からの手紙] () () (

加賀美どの。さきほど、〔荒神屋〕の奥で、子どもがぐずる声かしませぬでしたか?」
「さて、気がつきませなんだ」
松造。あの店の裏手へまわって、しばらく、耳をすませてこい」

加賀美同心についていた小者が、
「近所で、それとのう、訊きこんできまひょ」
出ていった。

ちゅうすけ注】〔荒神こうじん)〕のおが、長編[炎の色]に登場したときは25,6歳---とすると、安永元年(1772)の年11月のこの時期、2歳に育っていないと辻褄(つじつま)があわなくなる。


       ★     ★     ★

[同心・加賀美千蔵] () () () () (

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2009.09.14

同心・加賀美千蔵(2)

「まず、近衛河原へご案内します」
役宅の通用門で待っていた同心・加賀美千蔵(せんぞう 30歳)は長身を折ってあいさつをすと、歩みはじめた。

(ずいぶんと、ぶっきらぼうな仁だな)
銕三郎(てつさぶろう 27歳)と若党・松造(まつぞう 21歳)は従うよりなかった。

昨夕、加賀美同心に会っている松造は、その人柄までは告げていない。

押小路を東へ向かう加賀美と並んだ銕三郎が、
「ご出身は、甲斐ですかな?」
加賀美同心が足をとめ、見下ろすように見詰め、
「巨摩郡(こまこおり)加賀美村ですが、それがなにか?」

ちゅうすけ注】現・山梨県南アルプス市加賀美

「いや、江戸にも、武田方から参られた加賀美姓の方がおられるので、ご縁のあるお家かと---」
千蔵は不審の眉を解き、頬をゆるめ、

加賀美一族---といっても数家が、跡部大炊助勝資(かつすけ)の同心衆に配されていたが、かの人の勝頼公への側近ぶりに離心し、わが祖は京へ逃げて処士(浪人)、のち東町奉行所で働かせていただくことになった---と述べた。

徳川軍団に組みこまれた跡部一族の衆とは、さようなかかわりがおありだったのですか」
「御所かかわり付(つき)ならともかく、東町奉行所にだけは、跡部さまがご赴任にならないことを願っております」
「これまでのところは---?」
「甲斐あってか、無事でした」
瞔(め)をあわせて笑いあった。

「わが長谷川は、今川方から徳川で、しかも、祖は三方ヶ原の戦いで武田方に討たれておるゆえ、おこころおきなく、おつきあいを---」
銕三郎の冗談めかした口調に、加賀美同心は好意をもったようであった。

加賀美どののご先祖のように、跡部方から京へ逃れた武田方の数は多かったのですかな?」
銕三郎は、歩きはじめながら、なんの気なしに訊いた。

「2,3家はわかっております。御所で賄方におつとめで、越後方からの武田勢入りされた飯室(いいむろ)一族の左衛門大尉さまもそのお一人です」

ちゅうすけ注】加賀美同心がなにげなく口にした飯室こそ、地下役人の不正事件の首犯の一人だったのだが、銕三郎は聞き流してしまった。
ミステリーだと、これは重大な伏線だから、ここで注などはいれない。

2人のうしろでは、加賀美つきの小者と松造が、たのしそうに何事か話し合っている。

銕三郎が借りている家のある、押小路の路地口にさしかかった。
横目で加賀美同心の表情をうかがったが、変わりはない。
(西町奉行所は、東のお町へは、どうやら、通じてはいないらしい)

加賀美どの。先刻、近衛河原と言われたように聞きとりましたが---?」
「失礼。このごろは、荒神河原と呼んでいるようです」
(それで納得。〔荒神(こうじん)} )の助太郎(すけたろう 50すぎ)の店が以前あった所へ向かっているのだ)

御所の東南角---寺町通りを左折した。
仙洞院御所脇の武家町門(寺町門)をすぎ、先日訪れた下(しも)の禁裏付・高力土佐守長昌(ながまさ 54歳 3000石)の役宅の北から川原町通りを横切って、銕三郎が思わず声をだした。
「あっ」

加賀美同心がふところの十手へ手をかけ、ふり向き、
「どうか、なさいましたか?」
「いや。仔細ありませぬ。河原町通りの名づけの理由(わけ)がわかっただけのこと」
「近衛河原で---?」
「さよう」

笑顔が交わされた。


       ★     ★     ★

[同心・加賀美千蔵] () () () () (

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2009.09.13

同心・加賀美千蔵

(てつ)。東の酒井丹波 忠高 ただたか)どのから、言伝(ことづ)てがあった」
西町奉行として、奉行所の与力・同心たち全員との顔合わせもようやくにすませたらしい父・宣雄(のぶお 54歳)は、役宅へさがってくるなり、息・銕三郎(てつさぶろう 27歳)を書院へ呼びつけた。

「拙にでございますか?」
「うふ、ふふふ。釣り天狗どのは、よほどに、のことがお気に召したようじゃ。もの好きにもほどがある」

参照】2009年9月7日[備中守宣雄、着任] (

宣雄は、苦笑しながら、
「ほれ、〔荒神(こうじん)〕の---なんとやらいうたな、盗賊---」
助太郎(すけたろう)---です」
「そう。その助太郎のことを調べた同心に引きあわすから、暇なときに役宅へ参るようにとのことであった」
「は。では、お伺いしてよろしいのですね」
「別に、かまわぬ」
「西のお町の息が、東のご奉行のところへ参っても---」
「なにをとぼけたことを。なんぞ、西の奉行所の端くれにも入っておらぬわ---うふ、ふふふ」
よほどにご機嫌がいいらしい。
きょうの宣雄は、笑顔が絶えない。

下がろうとする銕三郎へ、
久栄(ひさえ 20歳)の手がすいていたら、肩をもんでくれと伝えてくれ」
「かしこまりました」

上洛の旅のあいだずっと、本陣へ落ち着くとすぐに、久栄に肩をもませていたらしい。
奥どうぜんの(たえ 47歳)が、この齢になって異国の水は飲みとうないと、夫とともに京へ上ることを承知しなかったせいもある。
「それでは、お舅どのが若い京女(おなご)をおつくりになります」
久栄がおどすように誘ったが、
「子種がのこっておりますものか」
「まだ、54歳のお若さです」
久栄どのの手でもにぎりましたかえ」
久栄が赤面するのを、うれしげに眺めていたという。

銕三郎は、若党・松蔵(まつぞう 21歳)を東町奉行・酒井丹波守忠高の役宅へ使いに出し、明五ッ半(午前9時)に参上してよろしいかと伺わせた。

松造が戻ってきたのは、半刻(はんとき 1時間)もたった夕刻であった。
「たかが3丁半(400m)ほどの往還に---」
言う前に、松造が言い訳をした。
「ご同心・加賀美(かがみ (30歳)さまの組屋敷をお訪ねしておりました」

松造が弁解したところによると、酒井町奉行は、そのことは加賀美千蔵同心が掛りだが、すでに帰宅しておるから、組屋敷へまわって時刻をじかに打ち合わせるように。加賀美同心は宿直あけの公休日やもしれぬゆえ---との示唆であったと。

「それで、上へあげられまして、かように遅くなりました」
「苦労であった。して、加賀美どののお返事は?」
「用向きのことはお奉行から指示があった。あすは公休ゆえ、五ッ半にこちらへお迎えに参られると---」
「迎え?」
「お目におかけしたいものがおありになるとか---」

       ★     ★     ★

[同心・加賀美千蔵] () () () () (

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2009.08.15

与力・浦部源六郎(5)

「浦部さま。じつは今宵のお願いごとが、一つ、のこりました」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が姿勢を改めると、
「ほう。なんでございましょう」
浦部源六郎(げんろくろう 50歳がらみ)も形をあらためた。

「絵師の冬斎(とうさい)どのとお親しいとか---」
「ああ、戯(ざれ)絵師の北川冬斎なら、碁仇(がた)きのようなものです」

浦部与力の話によると、あまりに露骨な枕絵を描いて露店で売らせているので、奉行所へ呼んできつく叱ったことから縁ができたのだという。

「戯(ざれ)絵ですか?」
「いや、腕は西川祐信(すけのぶ)仕込みで、あることはあるのですが、なにしろ、おんな遊びがはげしくて、その金算段に困っての秘画描きなのです。で、冬斎にご用とは?」
「化粧絵をとおもいまして---」
「ああ、〔読みうり]の?」
「はい」
「そのような仕事でしたら、いつにてもお引きあわせいたします」
「では、明日にでも---」
「今宵、帰りに寄ってみましょう」


北川冬斎の住まいは、千本出水(せんぼんでみず)の華光(けこう)寺の裏長屋であった。

ちゅうすけ注】千本出水・七番町の華光寺は、翌安永2年(1773)に、平蔵宣雄(のぶお 享年55歳)の葬儀が挙げられた寺である。
冬斎がその裏に住んでいたのも、なにかの因縁であろう。

冬斎、おるか?」
布団からこっちを見た男が、あわてて起きあがってきた。
下帯ひとつの裸にちかい、狸づらの40男であった。

「こら、与力はん。なにごとでおじゃります?」
「なんや、その姿は。お客さまをお連れしてんのに---」

浦部同心は、銕三郎を引きあわせると、
「あとはよろしゅうに---」
さっさと帰ってしまった。

銕三郎が化粧(けわい)指南の〔読みうり〕の案を話すと、
「ただでも、描かせてもらいまひょ」
冬斎は、島原をはじめとする色街の人気美女をモデルにした似顔絵と聞いて、妓女たちがモデルになりたくて売りこみにくる---つまり、ただで遊べたうえにもてる---とふんだらしい。

いまでいうと、テレビに出たがるタレントみたいなものか。

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