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2009.10.03

京都奉行所・西組与力の名簿

膨大な随筆の集成『翁草 2』(吉川弘文館 1978.4.5)をくっていたら、京都町奉行所の与力衆の名簿に行きあたった。

筆者の神沢貞幹が東町奉行所の与力・神沢弥八郎の養子に入り、その娘を妻とし、養父の跡目を継いでいること、『翁草』が明和・安永・天明・寛政の初期にわたって書きつづけられたことをおもえば、とうぜん、備中守宣雄平蔵宣以に筆がおよんでいるかもしれないとおもうのは、人情であろう。

それで、全巻に目を通してみた。
が、長谷川平蔵宣以の名は、天明7年(1787)の江戸打ちこわしのときの鎮圧組に発令されたと出ているだけであった。

もっとも、神沢与兵衛 よへえ 貞幹)が与力を勤めたのは享保19年(1734 25歳)から宝暦3年(1753 44歳)の20年間であったらしい。

あとは病身を理由に公事方を退任、養子・弥十郎と入れ代わった与兵衛貞幹)は、渉猟・執筆の日常に専念したようである。

奉行所の与力の移動はかなりくわしく記されている。
ただし、西組与力に浦部源六郎の名はない。
浦部与力が池波さんの創作であることがはっきりしただけでも、鬼平ファンとしては満足である。

それと、も一つ、大きな発見があった。

先月、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ]をめぐってあれこれ考察した。
処刑された首犯一味の一人---賄頭の飯室(いいむろ)左衛門大尉(だいじょう)については、かなり書きこんだつもりである。

翁草』に、奉行所西組の与力の一人に、飯室十右衛門の名を目にしたとき、鳶魚翁が、京都の町奉行所の与力・同心の中には、御所役人と縁つづきの者もいようから、幕府は探索を秘密裡にすすめよと山村信濃守良旺(たかあきら 45歳 500石)に命じたわけが、判然とした。

享保(1716~35)の初めのころとある、奉行所西組の与力名と担当職務を掲げる。

深谷平左衛門  (公事方)
熊倉市太夫    (同)
真野八郎兵衛  (同 同心支配兼)
野村与一兵衛  (勘定方 同心支配兼)
下田忠八郎    (勘定方)
石橋嘉右衛門  (目付新家方)
才木喜六     (同)
中井孫助     (同)
本多文助     (証文方)
三浦儀右衛門  (同)
手島織右衛門  (加番方欠所方兼)
棚橋源右衛門  (同)
入江安右衛門  (御番方)
砂川金右衛門  (同)
鵜飼冶五右衛門 (同)
渡辺熊右衛門  (同)
飯室十右衛門  (同)
木村源右衛門  (同)
比良甚兵衛    (同)


次に西組が記録されているのは、享保10年(1725)である。

熊倉市太夫    (公事方)
真野八郎兵衛  (同 同心支配兼)
野村与一兵衛  (同)
下田忠八郎    (勘定方)
才木喜六     (同)
石橋嘉右衛門  (目付新家方)
中井孫助     (同)
砂川金左衛門  (同)
三浦儀右衛門  (証文方)
手島織右衛門  (加番方欠所方兼)
鵜飼冶五右衛門 (上同)
手島織右衛門  (欠所方兼)
棚橋源右衛門  (上同)
渡辺熊右衛門  (御番方)
飯室十右衛門  (上同)
木村源右衛門  (同)
比良甚兵衛    (同)
元木平次右衛門 (同)
桂元右衛門    (同)
八田新左衛門  (同)
深谷平左衛門  (同)

一気に安永3年(1774)飛ぶことにする。

中井孫助     (公事方 同心支配)
入江吉兵衛   (同支配)
不破伊左衛門  (同支配)
深谷平左衛門  (勘定方)
熊倉市太夫   (同)
手島郷右衛門  (同)
前田忠次郎   (目付方)
真野八郎兵衛  (同)
飯室嘉伝次   (同)
渡辺熊右衛門  (証文方)
上田権右衛門  (嘉伝次アト)
桂元右衛門   (欠所方)
棚橋源右衛門  (権右衛門アト塩津改)
長尾十郎助   (御番方)
砂川直右衛門  (同)
入江判次郎   (同)
鵜飼孫之進    (御番方)
野村彦三郎   (同)
三浦儀右衛門  (同)
本多高四郎   (同)
  (いずれも先任→後任の順)

注目すべきは、安永3年(1774)の名簿から、飯室(嘉伝次)の後任として上田権右衛門が就任し、その上田もすぐに棚橋勝右衛門に席をゆずっていること。

安永3年といえば、御所官人・飯室左衛門大尉らが死罪に処せられた年である。
飯室嘉伝次も、一族ということで遠ざけられたのであろうか。

飯室家は、享保(1716~35)の初めのころの名簿の十右衛門から、助左衛門文右衛門(2人が襲名したもよう)とつづき、明和5年(1776)以降に嘉伝次が勤めてきた西町奉行所の与力職であった。

ついでながら、嘉伝次は、明和3年(1774)10月に番方4番手で病身でもあった飯室文右衛門に代わって真野姓で跡役として抱えいれられ、同5年(1776)に飯室姓となっている。つまり、養子に入ったのであろう。


それはそれとして、飯室家が上記の結果となって終わった真相は、いまのところ不明。
記録のありどころを探し、究めてみたいことの一つである。


ちゅうすけからのお願い】上記の西町奉行所・与力の末裔・縁者の方々、お話をお聞きしたいので、ご連絡いただけれるとうれしい。

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コメント

御所役人の不正の探索にからめて、首犯の飯室一族の出自から、氏姓のゆえん、武田方から徳川入りした家と、跡目に愛想をつかせて京へ流れて、禁裏へ職をえた者と奉行所の与力となった者、それぞれの運命を独力で探索なさったちゅうすけ探偵、すばらしいです。平成のシャーロック・ホームズか半七か。
学者先生は、こういうしもじものことには手をおつけにならないから、まさに、大衆的メディアのブログにこそふさわしいアプローチだとおもいます。拍手。

投稿: 文くばり丈太 | 2009.10.06 05:35

>文くばり丈太 さん
飯室一族の探索は、偶然も大きかったとおもいます。
銕三郎に発見させてやりたかった。
でも、銕三郎が京都を去るまで、数ヶ月あります(ブログでは2ヶ月前後でしょうか)。そのあいだに、後任の山村信濃守良旺になにがしかの手がかりをのこしてやりたいものです。

ブログは大衆メディア---にはおもわず笑ってしまいました。まさに、至言です。

投稿: ちゅうすけ | 2009.10.06 08:22

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