長(おとな)・千田聡兵衛からの封翰
武蔵国多摩郡(たまこおり)落川(おちかわ)村の長(おとな)・千田(せんだ)聡兵衛(そうべえ 60がらみ)から平蔵(へいぞう 40歳)あてに封翰がとどいた。
人柄と勝手向きを示すような上等の紙質の書箋に達筆で記されていた。
聡兵衛とは、つい先だっての盗賊〔染屋(そめや)の利七(りしち 35歳)の事件で知りあった。
聡兵衛は、村のおんながからんでいたので、老体にもかかわらず意欲十分、捕縛にひと役買ってでた。
【参照】2010年10月9日~[日野宿への旅] (7) (8) (9) (10) (11) (12)
開披した書面は、ことが見事に落着したことを慶辞したあと、被害者でもあり共謀者でもあった落川村の住人・お染(そめ 26歳)が児・卯作(ぼうさく 6歳)をのこし、慰謝料の200両(3200万円)とともに姿を消したことを報じ、子守りのお鈴(すず 11歳)が見たり小耳にはさんだところによると、そそのかしたのは、〔染屋〕の利七の弟分の〔四方津(しほつ)の勘八(かんぱち 33歳)らしい。
利七が処刑されてから、ほとんど泊まりこみ、夜は卯作をお鈴の家へ連れていくように強制していたと。
四方津は、甲州道中の野田尻宿から小1里(4km)ほども巳(み 東南東)へくだった桂川ぞいの小郷であるが、勘八は村をでて国分寺で表向きは炭窯をやりながら、裏では悪事に手をそめていたらしい。
(国分寺村炭窯 『江戸名所図会』 塗り絵師::ちゅうすけ)
先般、顔つなぎができた千人同心頭(せんにんがしら)の窪田(平左衛門 へえざえもん 51歳)に訴えてあらためてもらったが、すでに窯を売りはらい、姿を消していた。
窯の買い主の話では、江戸の薪炭(しんたん)問屋の株を手にいれたからとのこと。
卯作は千田家で預かっておるが、お染を探しだし、引きとるように町奉行所なり火盗改メの手が借りられれば幸甚である---とのおもむきであった。
黙読し、平蔵は首をかしげた。
江戸の家々で毎日のように灰にされる薪炭はたいそうな量である。
しかも、薪や木炭には天気ぐあいによる豊・不作はなく、仕入れは安定しておる。
その問屋の株が200両ぽっちで売買されるであろうか。「
薪炭問屋は霊巌島の亀島川ぞいのこんにゃく河岸、神田川べりの佐久間町、横川東岸の猿江町河岸、芝湊町にあつまっていた。
とりあえず、神田川東から上野広小路一帯をシマにしている香具師(やし)の元締・〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 38歳)と、おなじく芝一円が縄張りの〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 55歳)元締に、問屋株の内偵を町飛脚で頼んでおいた。
、
千田聡右衛門への返書には、内偵のことには触れず、日野宿での厚意の礼Iにくわえ、〔四方津〕の勘八の体形や見かけの特徴、手下の数とその動きがわかれば教えてほしいと送った。
窪田平左衛門には、寺社奉行から旗奉行を通し、勘八の家へ踏みこんだときのありようを問い合わせた。
翌日。
火盗改メ・横田組の同心の沖津四郎(しろう 25歳)が西丸へ訪ねてきた。
「役宅へお運びいただけとの、筆頭与力のいいつけで参りました」
筆頭与力は門田紋三郎(もんざぶろう 55歳 1000石)、役宅は西本願寺裏門前であった。
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