カテゴリー「101盗賊一般」の記事

2011.10.25

長(おとな)・千田聡兵衛からの封翰

武蔵国多摩郡(たまこおり)落川(おちかわ)村の長(おとな)・千田(せんだ)聡兵衛(そうべえ 60がらみ)から平蔵(へいぞう 40歳)あてに封翰がとどいた。
人柄と勝手向きを示すような上等の紙質の書箋に達筆で記されていた。

聡兵衛とは、つい先だっての盗賊〔染屋(そめや)の利七(りしち 35歳)の事件で知りあった。
聡兵衛は、村のおんながからんでいたので、老体にもかかわらず意欲十分、捕縛にひと役買ってでた。

参照】2010年10月9日~[日野宿への旅] () () () (10) (11) (12

開披した書面は、ことが見事に落着したことを慶辞したあと、被害者でもあり共謀者でもあった落川村の住人・お(そめ 26歳)が児・卯作(ぼうさく 6歳)をのこし、慰謝料の200両(3200万円)とともに姿を消したことを報じ、子守りのお(すず 11歳)が見たり小耳にはさんだところによると、そそのかしたのは、〔染屋〕の利七の弟分の〔四方津(しほつ)の勘八(かんぱち  33歳)らしい。

利七が処刑されてから、ほとんど泊まりこみ、夜は卯作をおの家へ連れていくように強制していたと。

四方津は、甲州道中の野田尻宿から小1里(4km)ほども巳(み 東南東)へくだった桂川ぞいの小郷であるが、勘八は村をでて国分寺で表向きは炭窯をやりながら、裏では悪事に手をそめていたらしい。

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(国分寺村炭窯 『江戸名所図会』 塗り絵師::ちゅうすけ


先般、顔つなぎができた千人同心頭(せんにんがしら)の窪田(平左衛門 へえざえもん 51歳)に訴えてあらためてもらったが、すでに窯を売りはらい、姿を消していた。
窯の買い主の話では、江戸の薪炭(しんたん)問屋の株を手にいれたからとのこと。

卯作千田家で預かっておるが、おを探しだし、引きとるように町奉行所なり火盗改メの手が借りられれば幸甚である---とのおもむきであった。

黙読し、平蔵は首をかしげた。
江戸の家々で毎日のように灰にされる薪炭はたいそうな量である。
しかも、薪や木炭には天気ぐあいによる豊・不作はなく、仕入れは安定しておる。
その問屋の株が200両ぽっちで売買されるであろうか。「

薪炭問屋は霊巌島の亀島川ぞいのこんにゃく河岸、神田川べりの佐久間町、横川東岸の猿江町河岸、芝湊町にあつまっていた。

とりあえず、神田川東から上野広小路一帯をシマにしている香具師(やし)の元締・〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 38歳)と、おなじく芝一円が縄張りの〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 55歳)元締に、問屋株の内偵を町飛脚で頼んでおいた。


千田聡右衛門への返書には、内偵のことには触れず、日野宿での厚意の礼Iにくわえ、〔四方津〕の勘八の体形や見かけの特徴、手下の数とその動きがわかれば教えてほしいと送った。

窪田平左衛門には、寺社奉行から旗奉行を通し、勘八の家へ踏みこんだときのありようを問い合わせた。


翌日。

火盗改メ・横田組の同心の沖津四郎(しろう 25歳)が西丸へ訪ねてきた。

「役宅へお運びいただけとの、筆頭与力のいいつけで参りました」
筆頭与力は門田紋三郎(もんざぶろう 55歳 1000石)、役宅は西本願寺裏門前であった。

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2011.01.02

〔三ッ目屋〕甚兵衛(3)

「ところで、お(てい 40がらみ)の隠れ家を聞いても、いうまいな?」
〔三ッ目屋〕甚兵衛(じんべえ 39歳)は、もう、平蔵(へいぞう 35歳)の目をみることができず、うなだれていた。

「おを、最後に抱いたのは、いつだ? 〔初鹿野(はじかの)〕一味の押し込みの前かい?」
目を伏せたまま、うなずいた。

「朝鮮人参のことをそそのかしたのは---?」
「知りあって、すぐでした」

「どこで知りあった?」
を、婀娜(あだ)な奥女中だとは、『房内篇』の写本を売りにくる躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の塾生たちからの噂で耳にしていていた。

塾生のひとりにわたりをつけ、半年前に上野・池の端の茶店で待ち合わせた。
誘うと、簡単に出会茶屋へあがりこんだ。

その後すぐに、〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへい 60すぎ)が店へやってき、おは〔初鹿野のお頭(かしら)のおんなだ、知れると命がなくなる。
生きていたかったらと、朝鮮人参を高値で引き取ることを約束させられた。

「いくらで故買した?」
「30両(380万円)で---といわれました」
「で、甚兵衛どんは、いくら転売するつもりだった?」
「〆て40両なら、本町あたりの薬種(くすりだね)問屋は、どこだって買ってくれます」

「買った問屋は、盗品ということで火盗改メに取りあげられている、甚兵衛どんの信用は霧消した」
「へえ---」

「甚兵衛どんの刑罰(おつとめ)だが、お町(奉行所)は、偽の人参を高麗ものと偽った罪で所払いと決めた」
「-------」
「火盗改メのここは、盗品を売買したということで島送りとのこと---」
「お武家さまは、火盗改メの与力のお方ではございませんので?」
「おれは、長谷川平蔵というものだ。親父の名前なら、甚兵衛どんもこころえていよう。備中守宣雄(のぶお)というんだが---」
「明和9(めいわく)年に放火犯をお挙げになりました---、あの、長谷川さま---」
「覚えていてくれたかい」
「もちろんでございます」

平蔵は、あと半月で、島送りの舟が出る。そのあとで手くばりするから、お前さんが差したとは〔初鹿野〕一味も気づかないとおもうから、おの隠れ家を告げないか。
「お礼は、甚兵衛どんの恩赦を、ここの組頭・(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳)さまへ頼んでやる。さらに、島での生きがいに、竹節(ちくせつ)人参が育てられるように、平賀源内(げんない)先生から種をわけてもらってやる」

は目黒村の盗人宿に隠れていたが、火盗改メが踏みこんだときには、もぬけの空で、脇屋清吉(きよよし 52歳)は大いにくやしがった。
もっとも、贅 越前守正寿(まさとし 40歳)は平然と、
「相手が一枚上手(うわて)だったってことさ。次はこっちが上手をとりにいけばいい」

ちゅうすけ注】平賀源内は、この前年---安永8年(1779)12月18日に牢死したが定説であるが、相良で源内の墓をみたちゅうすけは、田沼意次がひそかに手をまわし、その藩内に隠棲させたという異説にくみする。

参照】2007年3月12日[相良の平賀源内墓碑
2007年3月12日[源内焼


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2011.01.01

〔三ッ目屋〕甚兵衛(2)

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申しあげます。


〔うさぎ団子〕(十勝大福本舗 埼玉県入間郡三芳町北永井)。
年末のセフン・イレブンで見つけました。100円。


うさ忠まんじゅうのコーナーへ入れておきます。


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〔三ッ目屋〕甚兵衛は、小伝馬町の牢獄を引きだされ、九段下・俎板(まないた)橋西詰の(にえ)安芸守正寿(まさとし 40歳 300石)の屋敷の奥庭に設けられた仮牢に移されていた。

39歳と聞いていたが、でっぷりとした躰躯でずる賢そうな上目づかいの目つきのため、40を越しているようにも見えた。
(どこかで会ったような---?)
思い出をくり、広い海と島がうかんだ。
(江ノ島だ)
焦点があった。

参照】2008年2月2日~[与詩(よし)を迎えに] (39) (40) (41
2008年2月19日~[銕三郎(てつさぶろう) 初手柄] () () () (

(〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛といったな)

牢番の小者に錠前をあけさせ、狭い仮牢の中へ入った。
警戒した甚兵衛は脊を壁板にくっつけるほどに身をずらせた。

その前にあぐらをかいて向きあい、まず、訊いた。
甚兵衛。〔舟形ふながた)〕の爺(と)っつぁんは達者かい?」

相手は、驚いたように身ぶるいしたが、すぐに持ちなおした。
舟形の---とは?」
「おや。甚兵衛どんは、宗平(そうへい)爺(と)っつぁんにお目通りもかなわないほどの下っ端かえ? それでは、〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)お頭なんぞには、声もかけてもらえないほどの小者あつかいだったのかい?」

「お武家さんとは、お初にお目にかかりましたが、どなたさまで---?」
「人にものを訊くには、自分から名乗るのが礼儀ってものであろう? 甚兵衛どんの生まれは羽前の最上郡(もがみこおり)かえ、それとも甲州の山梨郡(やまなしこおり)?」

逡巡がはじまった。
平蔵が追い討ちをかけた。
「応えがないところをみると、武州多摩郡(たまごおり)の熊谷宿あたりかい?」
うっかり、頭をうごかしてしまった。
「そうかい、お(てい 40がらみ)かかわりか」

平蔵が、投げすてるようにいいはなった。
「おの黄粉(きなこ)まぶしのおはぎ好きは、いまも変わらずかい?」

参照】2008810~[〔菊川〕の仲居・お松] () (10

甚兵衛がくずれた。

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2010.12.31

〔三ッ目屋〕甚兵衛

桜花(さくら)が早緑(さみどり)にかわり、深川の堀の水面が靄ってみえるころ、平蔵(へいぞう 35歳)は、一夕を〔季四〕へ招かれた。
招いたのは火盗改メの組頭・(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳)であった。

贄家は紀州藩出身で、老中・田沼主殿頭(おきつぐ 62歳 相良藩主)とも音信があるということで、女将・里貴(りき 36歳)もかなり緊張して奉仕しているのが、平蔵の目にもはっきりとわかった。

越前守は、偉ぶったところを微塵もみせず、平蔵がくつろげる気くばりを示した。
「町奉行どののほうは、偽の人参を高麗ものと偽った罪で所払い、こちらは盗品を売買したということで島送りとの伺いあげた」
「盗賊の一味との自供はとれませぬでしたか?」
にやりと平蔵をみた 組頭は、
長谷川うじは、お上(家治 いえはる 42歳)が、有徳院殿吉宗 よしむね 享年68歳=宝暦元年)同様、深夜まで、評定所(幕府の最高裁判所)やそれぞれの奉行所の評決をお改めになっていることをご存じかな?」
「いえ---」
「お上の伽衆や小姓としてお側近くお仕えしたわれが、疑いだけで証拠もなしに重刑を科するわけにはいかぬ」
「恐れいりました」

里貴の酌でしばらく快げに盃を重ねながら、紀州のうわさをしていたが、
長谷川うじの示唆で、捕らえることができた〔三ッ目屋〕一統であるが、奥医・多紀(たき)法眼どのの被害であったので、お上はことのほかご機嫌であったと洩れてきておっての」
「それはよろしゅうございました」
「ついては、お礼だが---」
「その儀は、多紀さまから過分に---」
「いや、そうではない。長谷川うじを、とくべつに、〔三ッ目屋〕の主・甚兵衛を尋問させる機会をつくろうとおもってな」
「は---?」
「西丸の書院番頭・水谷(みずのや)出羽 勝久 58歳 3500石)どのには話はとおっておる。日時をお決めあれば、その前後3日の休仕を、与頭・牟礼(むれい)(郷右衛門勝孟 かつたけ 60歳 800俵)うじと、われのほうの脇屋清助(きよよし 52歳)がとりはからう」

(なにかの試問かも---)
平蔵はその疑念をふりはらい、
「ありがたき好機にございます」
「やってくれるか?」
「はい。よろこんで---」
里貴が、ほらほらといわんばかりの双眸(りょうめ)で微笑んでいた。

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2010.10.06

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(12)

「ご坊。じつは、壬生に伺う前に、上野の寛永寺の執事頭代(しつじがしらだい)・聡達(そうだつ 50がらみ)師のお話を拝聴しましてな」

寛永寺の名をだしたとたんに、大師堂の住持・玄敬(げんきょう 46歳)が緊張した。
「関東の聡本山に、なに用で---?」
「こちらの身代り地蔵の由縁などを---」
平蔵(へいぞう 32歳)が、住職の双眸(りょうめ)をふかぶかとのぞきんだ。

目をそらした住職が、まるめている頭(こうぺ)をさげ、
「恐れ入り申した。破戒の儀は、総本山には内密に---このとおりです」
合掌していた。

「拙は地蔵ではない。おやめなされ。お(たま 28歳)のことはご放念できますな?」
「ご本尊に誓って--」
「そのご本尊だが---」

玄敬の面体に揺れがはしった。
「納戸ですかな? 天井裏?」
「納戸、です。いま、これに---」
松造(まつぞう 26歳)に目顔で、ついていけと報(し)らせた。

5寸(15cm)の半加(はんか)坐像の木彫り地蔵を丁重に袱紗で包み、
「この仏は、明日、宇都宮城下・伝馬町裏の骨董屋で見つかる。買いとるのは、香具師(やし)の元締〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 40歳)どのである。元締は、こちらのご本尊と知り、寄進なされる」
「南無阿弥陀仏」
「壬生藩主から、元締にいくばくかの礼がとどけられるが、ご坊にはなにもない」
「ありがとうございます」
「目算の金は手にできまいが、おと縁が切れれば、それだけでも仏恩とおもわれい」
「南無阿弥陀仏」

宇都宮城下・伝馬町裏の骨董屋へ地蔵像を売った男は、〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(とよじ 28歳)ということになり、豊次は盗賊・〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち 40がらみ)の一味の者として手配がまわり、壬生藩内では盗(つとめ)みができなくなった。

ところで、役目を果たした平蔵松造だが、壬生の町奉行が包んだ金で、小山(おやま)の須賀明神社前の旅籠に7日ばかり滞在し、毎日、前の通りを監視していたが、ついにおまさはあらわれなかった。

平蔵があきらめたように、つぶやいた。
「また、紀州の貴志村へ行く日数が足りなくなった」
(くめ 36歳)との夜と、お(つう 10歳)の手料理と善太(ぜんた 8歳)のことばかりおもっていた松造の耳にはとどかなかった。

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () () (

参照】2010,年6月27日~[ 〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () () (

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2010.10.05

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(11)

「けっこう、いい容姿(なり)をしておりましたが、なにで生計(たつき)をたてておるのかは話しませんでした」
芳佐(よしすけ)は、村でただ一軒の〔よろず屋〕をやっている。
店は女房にまかせ、当人は仕入れかたがた、壬生(みぶ)の城下や宇都宮、小山(おやま)あたりでの頼まれ買いものをこなしていた。

豊次(とよじ 28歳)を見かけたのは小山(おやま)の本通(日光道中)の須賀明神社鳥居の前で、おまさといっしょであったと。
「どんなおんなであったな、おまさは。齢のころ、顔かたち、着ていたもの---」
「はい。齢のころは20(はたち)を一つか二つ、出たかというところでした。双眸(りょうめ)がぱっちりしており、こころもち受け唇、肌はお義理にも白いとはいえませなんだ」
「ふむふむ。それで、豊次と夫婦(めおと)に見えたか?」
「そうではございません。近くの店で奥女中奉公しているとかいい、それらしく、きちんとしたものを着ておりました」

「店の屋号とか、業種を聞いたか?」
「いえ。豊次になにか渡すと、消えました」
「そうか」
「そうそう、豊次は、〔甲畑(こうばた)〕だったか〔乙畑おつばた)だったか、そんな組で、けっこう重宝がられていると申しましたような---」

それ以上のことは聞けなかったが、平蔵(へいぞう 32歳)には、それだけで充分であった。
(やっぱり、〔盗人酒屋〕で忠助ちゅうすけ 享年53歳)から聞いた、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 51,2歳がらみ)か、〔乙畑}〕源八(げんぱち 40歳前後)の一味になっていたか)

村年寄りの許を辞し、壬生城下へ戻りながら、平蔵は鞍上でものおもいに沈んでいた。

(たずがね)〕の忠助が病死したとき、平蔵は父・宣雄につきそって京都にいたから、じかにおまさの面倒をみてやることができなかった。
それは仕方がない。

しかし、権七(ごんしち 45歳)によくよく頼みこんでおき、おまさが困っていたら、江戸にのこっていた母・(たえ 52歳)へ伝えてもらい、手をさしのべることはできたはず---その配慮をしておかなかったのは自分の手落ちと、自らを責めた。

口なわをとっていた松造は、〔乙畑}〕の源八が盗賊の首領であることまでは察しがつかなかったが、平蔵おまさのことで沈みこんでいることはわかっていたから、なにもいわず、城下をめざした。

城下へはいると、平蔵は大師堂で下馬し、松造に、
「町奉行所へ馬を帰したら、〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)と本陣で待っていよ。もし、〔越畑(こえばた)〕の常八が宇都宮から戻っていたら、常八にもそのように伝えよ」

昨夜のうちに平蔵から何事か命じられ、今朝早くに、宇都宮へ手配をしに行った常平は、その結果をもって往復していることになる。

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2010.10.04

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(10)

翌早朝---夜明けまでに2刻(とき 2時間)以上もあるころ。

本陣〔蓬莱屋〕をそっと出た2つの人影があった。
平蔵(へいぞう 32歳)と松造(まつぞう 26歳)の主従であった。

2人は、会話も交わさないで、通町が西へ折れるところで別かれた。
平蔵は大師堂のもの蔭へ、松造は東へ下馬木(げばき)の桶屋の見張りに。

やがて、家々の軒下の蔭づたいに松造が忍んでき、さっと見渡し、大師堂の脇にひそむ平蔵に駆けよった。
「お(たま 28歳)が参ります」
「よし。隠れろ」

は、本堂には参詣せず、庫裡(くり)へ消えた。
「とんだ、願かけお百度だわ」

しばらくたたずんでいたが、おがあらわれないことがわかると、本陣へ引き帰った。

五ッ半(午前9時)に同心・角田主膳(しゅぜん)が馬とともにあらわれたときには、松造も〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)もすっかり足ごしらえをととのえていた。

馬の手綱とともに、角田同心は、七ッ石村の年寄りへの藩からの手配り書きを添えた。
「昼餉(ひるげ)を用意させますから、お着きになりましたら、真っ先にこれをお渡しください」

七ッ石村は、城下の本陣から子亥(ねのい 北々西)へ1里半(6km)の道のりであった。

黒川ぞいの堤のちょうど1里(4km)あたりで、杉平が右手を差し、
「こっちへ3丁も行ったところが、あっしが生まれた鯉沼郷でやす」
先夜と昨夜の酒盛りで、だいぶにもの馴れてきていた。

「ご両親は達者かな?」
「いえ。3年前の流行り病いで---」
「そうか。余計なことを訊いた。許せ」
「とんでもねえこってす」
香具師(やし)の一家へ転がりこんだほどだから、満足な生活(なりわい)ではなかったのであろう。

七ッ石の村年寄の家は、黒川の西を流れている思川(おもいがわ)を望む丘にあった。
手配書を示すまでもなく、昨日のうちに藩から指示がくだってい、茶菓子をしつらえて待っていた。

豊次(とよじ 28歳)のことを訊くと、3年前に村抜けをしたが、小山(おやま)の城下で、おまさとかいうおんなといっしょのところを、小山へ行った村の者が見かけたほかには、音沙汰がないと。
おまさというおんな?」
「たしか、そのような---」
「見かけたというその者を、昼餉にでも呼んでおいてもらえるかな?」
「造作もございません」

熊野神社の隣の七石山戒定坊で案内を乞うた。
あらわれたのは、白衣に首から最多角念珠(いらたかねんじゅ)というのか、無骨な大数珠をかけた入道であった。、
「西丸の書院番士・長谷川平蔵宣以(のぶため)」
名乗ると、
兎角(とかく)坊と申す」
ともかく、招じいれた。

飯炊きをしていたおのことを訊くと、
「そのような女性(にょしょう)がいたことは伝え聞くいておるが、吾坊(ごぼう)がここの執行(しぎょう)に就く---そう、8年ほども前のことであるな」
「便利されておったとか---」
「修験者というても、男であるからな。わっ、ははは」
(男なしではすまぬ躰にされてしまったな)

熊野山から吉野山へわたる順峰(じゅんぶ)や、日光連山での修行についての余談をちょっとし、おまさというおんなのことのほうが気に,なるので、はやばやと辞去した。


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2010.10.03

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(9)

「明日、七ッ石村まで、馬を借りたいのだが---」
平蔵(へいぞう 32歳)が、壬生藩町奉行所の角田主膳(しゅぜん 42歳)に頼んだ。

「身どももお伴をいたします」
「わがままな物見遊山にすぎないので、それには及ばぬ」
そういわれても、藩主じきじきの声がかりの客であり、一人でほおっておいてよいものか。
角田同心は逡巡していた。

そこへ、、鼻の頭に汗をうかべた〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへえ 20歳)が女中に案内されてきた。
「遅くなりやした」
言葉づかいに、角田同心が不審げな眼差しをした。

「ご苦労。つもる話は、のちほど---」
平蔵の気持ちをとっさに察した〔越畑(こえばた)〕の常八(つねはち)はさすがであった。
よ。裏の井戸で汗をぬぐったら、向こうの松造どんの部屋でひと休させてもらいな」
せきたてるように、自分が先にたった。

なおも、角田同心が問いかけた。
「馬の口取りは---」
「いや、早駆けを試みることもあろうから、その儀はご放念を---」
「では、明朝、六ッ半(午前7時)に馬をおとどけいたします」
「五ッ半(午前9時)ではいかがかな?」
「こころえました」

角田同心が首をかしげながら退出すると、常八たちが部屋へ戻ってきた。
杉平が、待ちかねていたように、一気に話したところによると、ここ10年のうちに、七ッ石村を抜けたのは5人ほどいるが、無宿になったのは1人だけで、名は豊次(とよじ 28歳)、熊野神社で下働きをしていたが、3年前にふっといなくなった。
賽銭箱が空になっていたが、たいした金子がはいっていたわけではないので、とどけてないと。

{ちょっと、待ってくれ。山伏たちの七石山戒定坊というのは、熊野神社の脇にあるのではなかったか?」
「へえ、さいで」
「その山伏の坊で働いていた、お(たま 28歳)というおんなのことをなにか聞きこまなかったかな?」
「んにゃ」
「悪いが、明日、もういちど、七ッ石村へ行ってくれないか?」
「あっしも、お伴をいたしやす」
常八が先に申し出た。


その夜もまた、酒盛りなった。
本陣の宿主・庄兵衛も加わったが、平蔵は、いつもより控えているのを、松造(まつぞう 26歳)は、不思議なこともあるものだとおもいながら、盃をあけていた。

赤い顔をした庄兵衛が引きさがろうとすると、平蔵も立ち、廊下でささやいた。
「明朝、七ッ(午前4時)前にちょっと出かけるから、戸をあけておいてもらいたい。なに、1刻(とき 2時間)もしたらもどる」

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2010.10.02

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(8)

翌朝---。

「通町枝町の下馬木(げばぎ)の桶屋の近所で、新造・おの人となりや実家の生業(なのわい)などを、それとなく訊きこんできてくれまいか。さとられるなよ」
平蔵(へいぞう 32歳)から命じられた松造(まつぞう 26歳)が、飛ぶように出かけた。

火盗改メ・土屋(帯刀守直 もりなお 44歳 1000石)組の同心・高井半蔵(はんぞう 38歳)が、誘った。
「すぐそこの雄琴(おごと)神社が秋祭りの準備をしているそうです。暇つぶしに、のぞいてみませんか?」
本陣・〔蓬莱屋〕の主人の庄兵衛が案内をかってでた。

庄兵衛は、壬生(みぶ)がこの地の領主であったころ、旧家臣・松本姓の子孫であるといった。
雄琴という社号は、琵琶湖畔の壬生氏の遠祖が領していた里・雄琴に由来しているとも。

それとなく、太師堂の住持の風評を話題にしてみた。
「数年前に飯塚からきた僧ですが、詳しいことは存じません。しかし、このあたりは真言系の寺が多いから、檀家が少なく、藩の補助がなければやっていけないでしょう」

参拝をすまし、境内末社の金比羅、厳島、稲荷などにも賽銭を奉(あ)げ、獅子舞いの稽古に足をとめたぐらいで戻り、あとは〔鯉沼(こいぬま)の杉平(すぎへえ 20歳)と〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)を待つしかなかった。

まず、松造がf訊きこみを終えて帰ってきた。

50過ぎの桶屋の伝六は、若いころからの坐り仕事で腰を悪くしているらしい。
「桶屋といいましても、井戸のつるべ桶とか墓場の手桶ていどの小さな桶づくりしかやっておりません」
が女房にきたときには、腹がふくれてい、6ヶ月だろうと、近所のおかみさん蓮がささやきあっていたといいます。いま8歳の長男がそれだそうで---」

「出はどこだ?」
「七ッ石村の熊野神社の脇の小作人のむすめとか称しているそうですが、山伏の七石山戒定坊の飯炊きをしているときに腹がふくれてきたので、山伏の一人が桶屋の伝六にわずかな金とともにおしつけたのだというのもいました」

本陣の庄兵衛を呼び、七ッ石村の戒定坊について、訊いた。
熊野神社を勧請したときについてきた山伏がひらいた坊とのことであった。
「お手数だが、町奉行所の角田同心に、使いをだしてもらえまいか?」

入れかわりに〔越畑〕の常八が帰ってきた。
「いそぐほどのことではあるまい。昼餉(ひるげ)をいっしょにとってから、ゆっくり話を聞こう」

「そうか、藤井村まで足をのばしてくれたのか。ご苦労であった」
「とんでもございやせん」

藤井村は、城下の南にあたり、常八はその西を流れる思川(おもいがわ)ぞいに下稲葉村・上稲葉村へも訊きこみにいっていた。

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(赤○=壬生城下 緑○上から七ッ石、上稲葉、下稲葉、藤井村)

最初の元町---とはいえ村---で、大師堂のことなら取りあげ婆ぁが風評の元だと教えられ、村々では取りあげ婆ぁをまわった。
ほとんどの婆ぁさんが住職から、水子したあとの躰の治まりと流した子の供養になるとの噂のひろめ賃を握らされていた。
「どうせ、そんなことだろうとおもっていた」

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2010.10.01

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(7)

「15日前の朝、参詣した通町下馬木(げばき)の桶屋の新造が、本堂の蔀戸(しとみど)が半開きになっておったので、変だなとおもいながらのぞくと、須弥壇(しゅみだん)の様子がいつもとちがうので、庫裡(くり)に声をかけ、厨子に鎮座していた地蔵像が消えていたというわけです」
壬生町奉行所の同心・角田左膳(さぜん 42歳)が、よどみなく話した。
すでに昨日、江戸からの火盗改メの同心・高井半蔵(はんぞう 38歳)に説明して、順序もおぼえこんでいたのであろう。

「げばき---と申されたか?」
「失礼しました。通町の枝町の町名です」
「その町内の桶屋の新造の名と齢は--?」
「失礼しました。名はお、齢は27です。子は上の男の子が8歳、下の女の子か5歳。もう一人ほしいと、身代り地蔵に魚断ちの願(がん)をかけての早朝お百度参りをしております」
「早朝というと---?」
「失礼しました。明けの七ッ(午前4時)参りです」

「疑わしいところはないのですな?」
「まったく、ありません」

「庫裡では、桶屋の新造に---」
「おです」
「失礼。おに告げられるまで、庫裡の者は、まったく、盗難に気づかなかったということですな?」
「さようです」

平蔵(へいぞう 32歳)が末座にひかえていた松造(まつぞう 26歳)を招き、なにことかささやくと、
角田どの。小者を太師堂まで走らせていただけませぬか。これから、拙が話をうかがいに参ると---」

本陣から大師堂までは、ほんの2丁のへだたりでしかない。

平蔵たちが山門をくぐると、痩身の住職・玄敬(げんけい 46歳)が庫裡の玄関まで迎えにでており、望みどおりに本堂へ案内した。

戸締まり、須弥壇の裏、庫裡からの渡り廊下などをひととおり眺めていたとき、松造が〔越畑(こえはた)〕の常平(つねへい 25歳)とともに、大徳利にたづなこんにゃくと干瓢巻き寿司をもちこんだ。
気ばたらきのきく常平が、庫裡から茶碗や湯呑みを人数分かかえてくる。

酒盛りがはじまった。
酒がまわったところで、隣りの住職に、
「お地蔵さまのご利益(りやく)としては、地獄苦からの抜けのほかには---」
「さよう---子授け、子安(こやす 安産)、乳足(た)り、夫婦(めおと)和合---」
「水子供養は---」
住職は、茶碗の酒を干し、
「こっそり、供養しております」

大徳利が5巡りほどしたところで、平蔵は厠を借りるふりで常平を目顔で渡り廊下へ呼び、
「明日、盗まれた地蔵像の水子供養の功徳が、どのありの村までゆきとどいているか、訊いてまわってくれるとありがたい」

座へ戻り、さりげなく、
「盗まれたご本尊の大きさは---?」
「5寸(15cm)ほどの半加(はんか)という、地蔵像ではきわめて珍しいとされているお姿でな」
「5寸ならば、おんなでも持ち運びできる---」

住職の茶碗酒を持った手がとまた。
言葉をきった平蔵が、相手の目をと瞶(みつめ)た。


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