遥かなり、貴志の村
「ご本丸の御小姓2の組の夏目さまよりのお言づかりものでございます。ご開披(かいひ)は、くれぐれも、お退出なされてからとのことでございました。よって、お返書はご無用と---」
小姓組の夏目といえば、藤四郎信栄(のぶひさ 25歳 300俵)で、昨秋、戒行寺の会葬であったきりだが---とおもいながら、表書きも署名もない、中は書簡らしい封書をうけとり、
「ご苦労であった」
小粒をにぎらせ、同朋(どうぼう 茶坊主)を返した。
【参照】2010年6月13日[戒行寺での葬儀]
西丸の書院番4の組の番士・平蔵(へいぞう 31歳)は、400石の家禄なのに、遣いをした者には気前よく小粒をくれるということが、本丸の同朋のあいだでささやかれているらしい。
遣いの同朋はしごく当然のような態度で、すばやく、たもとに納めた。
宛名の記されていない封書が気にはなっていたが、まさか、動転するほどの内容とはおもわなかった。
それでも屋敷へ戻る前に中身をあらためたく、六間堀の猿子橋をわたった東詰の茶店で開披することにし、供の者を返した。
松造(まつぞう 25歳)だけは離れず、隅に席をとった。
書簡は、2重に封がされていた。
中の封にも、宛名はなかったが、ここで、平蔵は気がつくべきであったろう。
(念がいっていることよ)
あくまでも夏目信栄の借金の頼みぐらいにしか感じていなかったから、中がわの表紙を無造作に丸めた。、
現われた巻き紙は、おんなの見覚えのない筆づかいであった。
3行ほど読むと、平蔵の顔から血の気が引き、巻き紙をもつ手がふるえはじめた。
文の主は、茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 32歳)であった。
いや、女将を辞めたとあるから、単に、ひとりのおんな---里貴と書いたほうが正しい。
また、平蔵はこれまで、里貴の筆跡を見たことがなかったから、3行ほど読みすすむまで、里貴からの文とわからなかったのも無理はない。
お目にかかって申し上ぐるべきでしょうが、お会いしてしまうと決心がにぶり、離れがたくなることは、里貴の躰が痛いほど存じております。
こうして認(したため)ておりましても、銕(てつ)さまとの睦みあいがおもいだされ、下腹の芯が熱くなり、脇の下に汗がにじんでき、硬くなった乳首が肌着に触れて痛いほどです。
(北斎 〔浜千鳥〕 イメージ)
お会いしたい。抱かれたい。触れてほしい。入って満たして---。
お屋敷にとどけては差しつかえもございましょうから、夏目さまに託します。
紀州の貴志の村へ帰らなければならなくなったのです。
中気(中風)で寝たきりであった父を看(み)ていた母が倒れました。
妹夫婦が面倒を看てくれていましたが、そちらの家でも姑の具合がおかしくなり、里貴が生家の両親を看.るよりほか、なくなったのです。
銕さまとお別れするのは、死ぬほどつろうございますが、父母のためとおもえば、自分のことなどいっておられません。
とりわけ、親孝行がなににもまして大切なしきたりとして伝わっている貴志の村のことです。
夫が逝き、藪家とは縁も切れているのに、わたくしが帰らなかったら、わが家は村八分にあいます。
【参照】2009年12月25日~[茶寮〔貴志〕のお里貴] (1) (2) (3) 4) (5)
2010年3月31日[ちゅうすけのひとり言] (53)
里貴が悪(あ)しざまにののしられるのはかまいませんが、父母、妹夫婦、縁者すべてがのけ者にされるのです。
そういうしきたりの百済からの帰化人の村なのでございます。
田沼(主殿頭意次 おきつぐ 58歳 老中)侯にもご相談いたしました。
いえ、銕さまとのことは伏せております。
侯も、そうするしかあるまいと仰せになりました。
「いいにくいが、両親が仏になられたら、また、戻ってこい、いい婿を探してやる」
笑いながら、
「そうじゃ。里貴には、婿は無用であったな」
とまで。
(清長 里貴のイメージ)
侯のお言葉どおり、父母を看取りましたら、きっと戻ってまいります。
だって、躰がこんなに抱かれたがっているのですもの。
勝手なことを認めました。
生きる張りあいのあった日々、ほんとうにありがとうございました。
かしこ。
巻き紙をつかんで呆然としている平蔵に、松造は声をかけかね、見守っていた。
【参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] (2) (3) (4) (5) (6) (7)
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コメント
里貴さん、かわいそう。
キャリア・ウーマンとして肩入れしていました。
不倫の恋でも、愛することができればいいとおもっていました。
江戸の武家では、側室をもつことはあたりまえでしたから、不倫とはいえなかったろうし。
投稿: tsuko | 2010.06.20 10:07
>tsuko さん
『五月闇』で、伊三次が、殺されたとき、池波さんは、あそこで伊三次が死なないと、物語がウソになると書いていらっしゃいました。
ぼくのブログは、それほどのものではありませんが、やはり、里貴が両親の介護のために帰らないと、彼女の生まれた帰化人の村の伝統に逆らうことになるとおもったのです。
仕方がありませんでした。
投稿: ちゅうすけ | 2010.06.20 19:09