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2009.12.25

茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)

「明日からは、しばらくお礼j廻りですな」
夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)は、だれにともなくいい、厠(かわや)へ立った。
やや太りがかっているので、用足しが近いらしい。
案内しようとした女将・里貴(りき 30がらみ)に、いや、存じている---とでもいうように、掌をふって断った。

信栄の姿が消えたところで、平蔵(へいぞう 28歳)は里貴に盃をうながしてから、
里貴どのには、木挽町(こびきちょう)の中屋敷でお目にかかったようにおもえてならぬ」
「お人違いをなさっていらっしゃいます」
「うむ。ちらりと見ただけゆえ、間違うているやもしれぬ」
「お間違いになっていらっしゃいますとも---」
こんどは、里貴の眸(め)が、意味ありげに笑っていた。
長谷川さま。いまのこと、夏目さjまにも、ほかのどなたさまにもおっしゃらないとお約束ください」
「心得た」

木挽町の中屋敷とは、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 3万石 相良藩主)の屋敷のことである。
見かけたようにおもったのは、もちろん、この安永2年(1773)から、4年ほども前であった。
その中屋敷は、明和9年晩春の行人坂の火事で焼失し、いまはいささか小さく建てられている。
焼ける前は、部屋数も多かった。

里貴を見かけたのは、久栄(ひさえ 17歳=明和7年)との婚儀の祝いに贈られた源内焼の皿のお礼を述べに訪れたときであった。

廊下に指をついた召し使いが、目くばせをすると、意次が立っていって、耳を寄せた。
何度か訪問していて、初めて目にする珍しい光景であったので、どういう格の召使であろうかと、おんなの顔をうかがった。
25、6とおぼしい召し使いは、眉をおとしており、とっさに、三島宿で14歳だった銕三郎を男にしてくれたお芙沙(ふさ)をおもいだした。

参照】2009年3月6日[蝦夷への想い
2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

茶寮〔貴志〕から、一橋小川町通りを表神保小路へ向かいながら、
「三番火除け地の角に、よくもあのような茶寮が建てられたものだな」
平蔵の問いに、信栄は、
「なんでも、重職のお歴々が、あのあたりは武家屋敷ばかりで、喉をしめらせる仮の水屋(みずや)があってもいい、ということで、去年、できたようです」

平蔵は、里貴に似たおんなを田沼宿老の中屋敷で見たと洩らしそうになったが、
「で、夏目うじは、いつからの馴染みで---?」
「室の菸都(おと 20歳)が、女将と知己とかで---」
「さようでしたか。菅沼さまは、紀州の出だから、知行地にゆかりでもあったのでしょう」
平蔵は、わざとカマをかけておいた。

(紀州藩士から有徳院殿吉宗)にしたがって直臣になり、数年前に歿した600石の家ということであれば、調べようもある)
ただ、平蔵にも、なんのために調べるのか、わかっていなかった。

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