〔耳より〕の紋次(その2)
「銕(てつ)や。この[読みうり]の、盗(と)られた金高が40両というのは、どういうことだ?」
一番町の本家の大伯父---というより、この場合は、火盗改メ方のお頭(かしら)・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)というほうが適切であろう、そのお頭が、笑いながら訊いた。
そばに控えている次席与力・高遠(たかとう)弥大夫(やたゆう 41歳)も笑いをこらえている。
きのう、銕三郎が両国・広小路の橋番小屋で、〔耳より〕の紋次に話したことが、もう[読みうり]に刷られて売られていたのである。
先手・弓の7番手の、用向きででかけていた小者が、九段坂上で1枚せしめてきて、当番与力に届けた。
小者は、袖口に火盗改メの長谷川家を示す文様を染めた法被(はっぴ)を着ているから、[読みうり]売り人は、心得ていて、代金をとらない。
記事の見出しは、
「竪川(たてかわ)北道は、盗賊どもがまた来た道に。
料亭の美人女中たちの悲鳴に、ついうっとりして---
先月晦日(みそか)深夜に緑2丁目の高級料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕をおそい、集金してきたばかりの400両近い大金をごっそり奪った灰色強盗の一味は、女将・お福さんをはじめ、美人の女中ばかりがそろっていたのに味をしめたらしく、昨日の夜、またも襲った。
集金日ではなかったから、獲物は40両たらずだったが、胸や腰にさらわられることに慣れてはいる美人女中たちだが、相手は盗賊でいつもと違って手荒だから、おもいっきりあげた阿鼻叫喚の悲鳴。それをたっぷり愉しみながら縛りあげ、さるぐつわをかけているうちに、首領(しゅりょう)とおぼしい〔舟形(ふながた)〕という名の小男が、不覚にも常づかいの紅花(べにはな)染めの手ぬぐいを使ってしまった。
舟形は、羽前の高峰・舟形山の水を集めて流れる最上川(もがみかわ)に沿った小村落で、ほとんどの家は上方へ送る紅花を栽培して暮らしているから、この盗賊たちもこのあたりの産の一味とおもわれる。山家育ちの男どものこと、江戸の水でみがきたてられた美人女中たちの素肌が触られなかったのがせめてもの幸い。
手がかりはこの紅花染めの手ぬぐいだけだが、盗賊たちの出生地が割れたからには、火盗改メによる逮捕も近いとおもわれる。(紋次記)
弁天の 五丁ひがしに 金(かね)ヶ渕
抜佐久(ぬけさく)
記事のほうは解説を要しないほど簡潔に記されている。
川柳もどきの弁天は、一ッ目之橋の南詰にあった、弁天前・八郎兵衛屋舗の5軒の、金猫銀猫といわれていたた私娼屋を指している。
(本所・一ッ目の弁天 『風俗画報』明治41年10月20日刊)
世をしのぶ商売なので、猫(私娼)を呼ぶのにも手をたたくのをはばかって禁じており、畳を拳(こぶし)でとんとんと叩いたという。
弁天の 客は拳に 畳だこ
金の猫 一時(とき)1分 目が変わり
揚げ代は一ト切りが一分(4分の1両)であった。
7丁ひがし」には、〔古都舞喜(ことぶき)郎〕があった。
(赤○=一ッ目弁天社 緑○=古都舞喜楼 近江屋板)
「金ヶ渕」とは、〔古都舞喜楼〕の飲食代などが、金猫銀猫より料金が高かったことを皮肉ったつもりらしい。
ほんものの鐘ヶ渕(かねがふち)は、『剣客商売』の秋山小兵衛とおはるの棲家のあったところだが、一ッ目弁天から北へほぼ30丁(約3km)。
「お頭に、申しあげます」
銕三郎がまじめな声で言うと、
「悪ふざけもほどほどにせい」
太郎兵衛がたしなめたので、遠山与力は、たまらずふきだしてしまった。
「きのう、その「読みうり」の紋次(もんじ 22歳)という男にあいました。[読みうり]屋というので、2つばかり餌針を仕掛けておきました」
「それが、40両と紅花染めの手ぬぐいだな?」
「さようです。40両じゃあないって申してでるものはいないでしょうが、呑み屋あたりでじつは120両だったという者があらわれれば、たぐれます。また、紅花染めは、〔舟形(ふながた)〕の宗平が、そんなはずはないのだがと疑心暗鬼にやなるかとおもいまして---」
「そう、うまく、素人の仕掛けた餌針に食いつくかな?」
「もともと、です」
銕三郎はけろりとしたものだ。
(今回は、食いついてこなくてもいい。紋次のお手なみが知れただけでいいのだ)
【ちゅうすけ注】長谷川平蔵宣以(のぶため)---すなわち、鬼平だが---史実の平蔵宣以を調べてみると、いくつかの特徴的な資質というか、幕府の番方(ばんかた 武官系)とはおもえない異才が目立つ。
その一つは、コスト意識である。これと経済意識については、稿をあらためて詳しく述べる。
もう一つが、いま風の用語でいうとパブリシティ---当時の言葉ではお披露目(ひろめ)であろうか。要するに、宣伝上手であったこと。
たとえば、「おれは拷問なんかしない。拷問しなくても、すらすらと白状してくれる」と高言したと、史料にある。
訊問上手であるが、それは父・宣雄から教わったと言っているのだが、ぼくが感心しているのは、そのことを盗賊世界にひろめた手腕のほうである。
どういうルートを使ったのか、一つや二つではないとおもうが、この「拷問」をしないということがひろまった結果、「おなじに捕まるなら、下手に町奉行所などで拷問されるよりも、拷問をしないといっている長谷川平蔵さまのところへ自首したほうがいい」といって、多くの小盗賊が自身から名乗りでたということが記録されている。
これは、コスト意識にもつながることで、捜査コストの低減をもたらすのだが、このことは改めてと---さっき書いたばかりである。
お披露目ルートの一つが、〔耳より〕の紋次であったろう、と考察しているのだが---。
話を戻して---。
太郎兵衛正直が指示した。
「銕よ。本所の四ッ目に〔盗人(ぬすっと)酒屋〕などという看板をだしておる不埒(ふらち)な店があるそうな。探ってみてくれないか。少ないが、軍資金だ」
紙包には3両はいっていた。
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