現代語訳『江戸時代制度の研究』火附盗賊改(1)
松平太郎さんは幕府の陸軍総監として、榎本武揚とともに函館五稜郭<に立てこもり、降伏後、榎本武揚は明治政府に仕えたが、松平太郎さんは忌避、野に下った。
『江戸時代制度の研究』(大正8年)は、その長子で同名を継いだ太郎さんの名著。実業でなした財をすべて、史料の収集・整理・研究へつぎ込み、前半部をやっと刊行した(後半部は空爆で焼失---極めて無念!)。
同著の[町奉行と其所管]の「第六節 火附盗賊改」は、池波さんも『鬼平犯科帳』の執筆にあたり熟読した項なので、現代語訳を試みた。
松平太郎著『江戸時代制度の研究』(復刻版)
第六節 火附盗賊改
火附盗賊改メは市中を巡回して、火災を予防し、盗賊を逮捕し、博徒の考察(探索)をつかさどる。
この職は、初め、盗賊改メと火附改メとに分かれていた。
盗賊改メは寛文5年(1665)10月に先手頭の水野小左衛門守正が初めて兼務で任命された。
それから下って天和3年(1683)正月に火附改メが設けられ、これも先手頭の中山勘解由直守に兼務させた。
元禄12年(1699)12月、両職を廃し、その仕事は、寺社領内の事件は寺社奉行へ、町方の事件は町奉行へ、幕府直轄領内で起きた事件の処理は代官をつうじて勘定奉行へ、知行地の場合は地頭からおのおのの支配へ訴えでるようにふられた。
しかし、3年後の元禄15年(1702)4月、ふたたび、盗賊改メを置き、先手頭の徳山五兵衛重俊を任じた。
ついで翌16年11月、佐野与八郎政信に火附改メを命じた。
宝永6年(1709)3月にいたって、持頭(もちがしら)の中坊長左衛門秀広に盗賊火附の両役のことを兼務させ、享保3年(1718)12月には、元禄15年(1702)閏8月から先手頭・赤井七郎兵衛正幸が兼務していた博徒改メの職掌も中坊に兼掌させた。
以後、この職は、先手頭から選ばれた者が兼職するきまりとなり、毎冬---すなわち、火事の多い10月から3月の間は、もう一人の先手頭を任命して補助させ、これを加役と呼んだ。で、年間をとおして勤めている者を本役と称した。したがって、世間で火盗改メのことを加役と呼んでい.るのは間違いである。
この職は、本来は町奉行管轄の事件を代行するものだったから、非違の検挙と糾弾、科刑の裁定、そのほか一切の規格はみんな、町奉行所が定めているところに準ずるように決められていた。
安永2年(1773)11月、日本橋以北・以南に分けて巡邏地域の分担を定めた。
以北---神田、浜町、矢の倉、浅草、下谷、本郷、駒込、巣鴨、大塚、雑司ヶ谷、大久保とその近辺は本役の組の担当。
以南---通町筋、八丁堀、鉄砲洲、築地、芝、三田、目黒、麻布、赤坂、青山、渋谷、麹町、深川、本所、番町とその近辺は助役の組の担当。
神田橋外、一ツ橋外、昌平橋外、上野、桜田用屋敷、書替所、御厩2カ所と溜池などの定火消屋敷のあるところは定火消にまかせることとなった。(つづく)
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