カテゴリー「097宣雄・宣以の友人」の記事

2012.04.19

盟友との宴(うたげ)(5)

宴が果て、市ヶ谷・牛小屋跡の屋敷へもどる浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石)、本郷元町に帰る長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)と、料亭〔美濃屋〕の前でわかれた平蔵(へいぞう 41歳)は、小石川門下にもやっている黒舟にいそいだ。

武家屋敷がつづいているので、一月中旬の六ッ半(午後7時)すぎの道は、ほとんど闇つづきであった。
(盟友といっても、なんだか、城仕えの延長のようにおもえてきはじめたのは、われの齢のせいであろうか)

暗い道が平蔵を感傷へ導いたのかもしれない。
高杉道場の剣友で下総国・臼井へ帰ってしまった(岸井)左馬(さま 41歳)や上方へ剣の修行へ行ったきりの(井関)の(ろく 37歳)とのような、男と男が裸でつきあう真友は、もう、できない齢なのであろう)

平蔵は、権力を狙った者たちの非情ぶりに、まだ気づいていなかった。
猿の群れの新しいボス猿は、前のボスによる子ざるたちを崖からつき落として殺し、母猿たちが母性愛と悲しみによって発情期を早め、新ボスの子を身みごもらせるといういうではないか。
小石川門の下では、行灯をともした舟に辰五郎(たつごろう 58歳)が待っていた。
「待たしたか?」
「とんでもねえ。〔黒船〕根の店のほうでよござんすね?」
「着くころには、亀久橋のほうへ帰っていよう」
「さいでやした」

深川冬木町裏寺の船宿〔黒船〕は、3年前、料理茶屋〔季四〕の隣りに〔箱根屋〕の権七(ごんしち 54歳)がお(きん 41歳)にやらせている店であった。
本店だから〔根の店〕と名づけ、黒船橋の支店は枝の店と呼んだところも、権七らしい工夫といえた。

参照】20111225[別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』] (

「お2人はん、お変わりおへんどした?」
平蔵の羽織と袴をたたみながら、奈々(なな 20歳)が問いかけた。
「もう2年近う、お顔をお見かけしてぇしまへん---」
べつに佐左が懐かしいのではなく、平蔵としゃべりあっているのが楽しいらしい。
躰を許した男といっしょにいると、わけもなく話しこみたくなる若いむすめ特有の興奮であった。

とはいえ、はや20歳になった奈々は、平蔵を受け入れてから足かけ3年、躰のすみずみまで熟してきていた。

閨では雛育ちの生(き)をのこしている奈々がいいとの平蔵の好みで、欲するするままに、応えてやってきた。
もっとも、1軒家に2人きりの夜という気がねのなさもあろうが。

平蔵に寝衣を着せかけ、
「一杯だけでよろしやろ?」
片口へ注ぎ、閨の行灯に灯を移した。

「日暮れどきに松造(よしぞう 36歳)はんが立ちよってくれはって、来月、目白会とやらの集まりを、いうことやったけど---」

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2012.04.18

盟友との宴(うたげ)(4)

(酒が苦くなった)
平蔵(へいぞう 41歳)は腹の中でひとり苦笑していた。

(あのご仁のことをおもうたびに、せっかくの酒の味がおちるようになった。困ったものだ)
平蔵とすると、松平定信には会ったこと もなければ近接的に言葉をかけられたこともない。

しかし、このところ、外様大名を見かけると、あの仁の息がかかっているのではないかと、疑いの目でみてしまう。
いまは、先手組の組頭として本城の躑躅(つつじ)の間へ詰めているから、廊下ですれちがうこともなくなった仁---西丸・若年寄の井伊兵部r少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 40歳 与板藩主 2万石)にまで、ともすると疑念をおよぼすことがある。

直朗は、田沼意次(おきつぐ 68歳)の四女を内室に迎えていたくらいだから、まさか反田沼派に与(くみ)しているとはおもえないのだが。
しかも、直朗は本家で大老・井伊掃部頭直幸(なおひで 57歳 江州彦根藩主 34万石)の男子を養子にむかえていた。

参照】2012年3月1日[天明5年(1785)12月の平蔵] (

ちゅうすけの独白】そういえば、病院の病室で記した[天明5年(1785)12月の平蔵] ()に、退院したら意次の四女の墓があることになっている徳雲寺(臨済宗 文京区小日向4丁目)を探訪しようとおもっていたのに、まだ実現していないが、病気の進行と躰へのいたわりが重なり、気力が減退、実現がおぼつかない。
しかし、四谷須賀町の全興寺に眠っていた意次の三女・千賀姫の例もある。
遠州・横須賀藩主西尾隠岐守忠移(ただゆき)に嫁ぎ一児を産んで歿した。
2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の
諸賢はその史実をご存じないのか、意次が失脚したとき、あたかも生存していたかのような記述を散見する。


ここから先のことは、その時期に至ってから明かすべきことだが、一年先のその時期まで気力を保つ自信がちゅうすけになくなってきた。
料亭[美濃屋〕での、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)のつぶやき---
「さらにもう2万石収公などという追徴があるわけではあるまいな」
1年も経たないうちに現実のものとなった。

続徳川実紀』の天明7年10月2日の記述。

田沼主殿頭意次へ仰下されしは、勤役の中不正の事ども追々相へ、如何の事にかおぼしめしぬ。前代御病臥のうち御聴に達し御沙汰もありし事により、所領の地二万七千石を収納し致仕命ぜられ、下屋敷に蟄居し、急度慎み在べしとなり。(中略)
遠江国相良の城は収められ御前をとどろらる。

定信が老中職について4ヶ月後の決定であった。

参照】2006年12月4日[『甲子夜話』巻33-1
2006年11月28日[『甲子夜話』2-40


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2012.04.17

盟友との宴(うたげ)(3)

「お上が代わり、先代の寵臣が退けられた例は少なくはない。五代・常憲院殿綱吉つなよし 享年64歳)に重用された柳沢吉保(よしやす 享年57歳 15万1200石)どの、六代・文明院殿家宣 いえのぶ 享年51歳)に仕えた新井白石(はくせき 享年69歳 1000石)どのにしても、下賜された家禄を返却させられてはいない。相良侯田沼意次 おきつぐ 68歳)にとられたのは、まことに異例!」
いつもは醒(さ)めている浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石 小姓組番士)が、いささか義憤のこもった言葉を吐いた。

平蔵(へいぞう 41歳)がなにかと意次に目をかけられておることをふまえての大学の慷慨(こうがい)であったことは、永野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵 西丸・書院番士) も察していた。

西丸の主(ぬし)だった家斉(いえなり 14歳)が用取次の小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳 5000石)ほか、小姓組番士を引き連れて本丸へ移ったのに、書院番が残されたことも、佐左(さざ)の不満であったが、ここは大(だい)に同調し、
「まさか、もう2万石収公などという追徴があるわけではあるまいな」

「いまの宿老衆では、そこまではいうまいが---」
いってから平蔵は、自分の予見に穴があることに気づいた。
(老中に入れ替えがあれば、ありうる!)

(これは、日をあらためて、双葉町のご隠居・本多伯耆守正珍(まさよし76歳 遠州・相良 前藩主 4万石)侯のご意見を徴してみる必要がありそうだが、この場の話題ではない)

(だい)さんのところの久次郎(きゅうじろう)くんは幾つかな?」
(子ども自慢なら他愛もなくていい)

(へい)さんのところの辰蔵くんより6年遅れだから、いま10歳。そろそろ騎射を教えようかとおもっておる」
「そんなに大きく育っていたか。で、騎射の師は?」
大学は微笑んで己れを指し、
「この仁にまさる騎射の師はいないとおもうがな」
3人とも声をそろえて笑った。

参照】2010年7月27日[次女・清(きよ)]

大学は、将軍・重臣」が供覧する騎射の催しに小姓組6の組を代表する射手として幾度も選ばれ、しばしば時服や黄金をたまわっていた。

「それはそうと、さんのところの名馬---」
「月魄(つきしろ)」
「そう、月魄。いちど騎射でせめてみたい」
「いま、下総のほうに放射にやっている」

「放射とは---?」
「雌の中へ---な」
「もう、そん齢か?」
「5歳だから、人でいえば20歳に近い」

さんは14歳だったな」
「忘れた」
また、笑った。

笑いがきっかけとなって、平蔵はある日の田沼邸でのことを思い出した。

参照】2010329[松平賢(よし)丸定信

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2012.04.16

盟友との宴(うたげ)(2)

家斉(いえなり 14歳)とともにご用取次として本城へ移った小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳 5000石)の動きはどうかと、浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石 )に訊いた平蔵(へいぞう 41歳)は、大学が聴かなかったそぶりをとったので、
(しまった。先だってのあの席には佐左(さざ)を招いてはいなかった。(だい)、つい、あせった。許せ)
胸のうちで、長貞に手をあわせた。

佐左とは、西丸・書院番3の組の番士・長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)である。

参照】2012年4月4日[将軍・家治の体調] () () () () () (

「本城の上っかたの衆は、相良侯主殿頭意次(おきつぐ) 68歳)への懲罰をどう見ておられるかな?」
とっさに問いを変えた。

将軍・家治(いえはる)が50歳で水腫という珍しい病気で、初秋に薨じたのを利用し、尾張・紀伊・水戸の三家と三卿の一橋民部卿治済(はるさだ 35歳)が策動、田沼派の追いおとしに動いた。

三家と一橋は、田沼意次の厳罰を申しあわせた。

諸施策は、吉宗時代に農民からのしぼりあげで破綻に瀕していた幕府財政の建てなおしのためのものであったが、その重商主義的な発想は、家康以来の農本主義の墨守を旨とする三家には理解できなかったのである。

現実主義というか、目の前のことをすなおに直視し、金銭の手当てもふくめた合理的な解決をもっぱらとしてきた平蔵とすれば、精神主義的なやり方には賛成しかねた。
田沼と共通するところが少なくなかった。

そうおもっていたところに、三家と一橋の謀略的な懲戒が昨年閏10月5日の処分であった。
続徳川実紀』は、

閏十月五日 田沼主殿頭、さきに職ゆるされしが、かねて思召旨もあればふたたび賜りし加恩の地二万石収公
せられ、御前をとどめられる。大坂にある所の蔵屋敷及び是迄の邸宅をも召上られ、今日より三日をかぎり立退くべしと命ぜらる。

重ねて書く。
田沼意次が公金を横領したとか他人を殺傷したとかいうのではない。
役人として発布された諸施策が気にいらなければ、政権をとって施政者となり、改めるなり廃止すればすむことである。
それをあたかも犯罪者視しての処遇をしたのは、大向こうねらいできった大見得にほかならないばかりか、ルール違反になる。

旧守門閥派が演じた度外れというか、幼児じみた追罰スタンド・プレイはまだつづきがある。

このときの笑劇を調べていて、攻防戦では、攻めるほうが一方的に有利だということ。
守衛にまわったほうは微綻も命取りになりかねないが、攻めるほうは押す手さえゆるめなければいい。

意次の微綻は、松平(松井)周防守康福(やすよし)のあいまいと小笠原若狭守信喜の裏切りであった。


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2012.04.15

盟友との宴(うたげ)

天明6年(1786)の閏10月のはじめ――。

佐左(さざ)。浚明院殿(家治 いえはる)が薨じられ(享年50歳)、近侍の衆からただちに本丸へお移りになるようにすすめられても、そのうちにゆるゆると……と逃げをおうちなされたのは、西丸・大奥のなじみのできたのに泣いてすがられたからだと蔭の声がもっばらだが、真相はどうなのだ?」
笑いながら酌をすすめて訊いたのは、本丸・小姓組の浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石 )であった。

佐左と呼びかけられたほうは、西丸・書院番士・長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)で、平蔵(へいぞう 41歳)をふくめ、初見いらいの盟友である。

年齢と家禄が近いせいもあったが、窮屈なおもいをしてまで出世することはないと決めているところに共感しあい、永つづきしているのかもしれない。

将軍・家治死をうけての大げさな葬儀や新将軍・家斉(いえなり 14歳)の将軍職の相続の儀式が片づき、新君は本城へ移っていたが、去月来のうわさを、大学がたしかめたのだ。

それだけ、佐左大学は会っていなかった。

この日、3人は飯田町中坂下の料亭〔美濃屋〕の滝がのぞめる部屋で久しぶりの宴をもっていた。
初冬のことで、岩間から落ちる滝の流水は細かったが、残雪にえもいわれない風情があった。

「新君のおんな好きはうわさのとおりだが---」
いいよどむ佐左におっかぶせるように大学が、
「13歳か14歳でか?」
ちらりと平蔵に視線をやった。

「はるかいにしえのことながら、14歳であったわれは、25歳の後家にみちびかれ、立派に務めをはたしたぞ」

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

平蔵の14歳のときの初陣の手柄話は、佐左大学も聴きあきていたから、それ以上はつっこまなかった。
(このことばかりは、には勝てない)
いまさら、14歳に戻るわけにいいかないし、外での情事を内室が見逃してもくれまい。

(へい)の場合は、相手が 人妻としてよく耕かされていたから、うまく導かれたのであろう。西丸の大奥のおんなたちはも、いちおうは未通ということになっているのではないのか」

「40歳をすぎた男どもの話題とはおもえないぞ。それより、(だい)、上さまについて本城入りした小笠原信喜(のぶよし 69歳 5000石)どのの動きはどうなのだ?」

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2011.10.30

石浜神明宮の神職・鈴木氏

「このたびは、危(あや)ういとこころをお救いいただきまして---」
石浜神明宮の神職・鈴木知庸(ともつね 50代なかば)と名乗り、低頭して礼を述べた。

「おなおりください。賊を召し捕られたのは、横田組のお歴々です」
平蔵(へいぞう 40歳)も、つねになく恐縮していた。
薦樽が昨日とどけられていたから、〔四方津(しほづ)〕の勘八(かんぱち 33歳)一味の押しこみの前にふせいだ礼であることはわかっていた。

しかし、宮司自身が参上してくるとはおもってもいなかった。
出役の采配をした次席与力・高遠正大夫(しょうたゆう 49歳)が同道していた。
この与力の先代とは親しかった。

参照】2008年4月24日[〔笹や〕のお熊] (

〔五鉄〕へ誘った。

酒がはいり、与力の先代の弥太夫の回顧談になったとき、神職が、
「それがしの母親は、久太夫という者のむすめでして---」
太夫かかわりで何気なくもらした。

平蔵が触発された。
「もしや、姓を三木と---?」
「はい。松平大学頭(頼亮 よりあきら)さまの家臣で、三木久太夫忠位(ただたか)と申しました」
「奇遇です。手前の亡妹は、三木忠太夫忠任(ただとう)という人のむすめでした」
「縁者に、そのようなご仁がおられたと耳にしたことがあります」

参照】2007年10月28日~[多可が来た] () () () () () () (
2008年1月5日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) 

平蔵は、ちらりとしか会ったことない三木忠太夫忠任のことをもっと聴きたかったが、知庸の帰りの足をおもんぱかり、五ッ(午後8時)前に切りあげ、再会を約した。

帰館してみると、久栄(ひさえ 33歳)、辰蔵(たつぞう 16歳)、月輪尼(がちりんに 24歳)が真剣に話しこんでいるところであった

「どうした?」
(がち)さまにご本山からお召しがまいりました」
「なに---?」
津紀(つき 2歳)のことが発覚(ば)れたようです」
津紀のことやのうて、姦淫の破戒のお咎めらしおす」
月輪尼が凛(りん)とした口調で告げた。

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2011.02.27

菅沼新八郎の初見

「殿のご帰館!」
先触れが門の外で声をはりあげた。

家治(いえはる 45歳)に初見(おめみえ)した当家の主(あるじ)・新八郎定前(さださき 18歳 7000石)が帰ってきたのであった。

菅沼一族のうち、奉書をまわされた諱(いみな)に「」がついた縁(えにし)の濃い家の当主たちがしきたりどおり、麻裃をつけて式台に着座し、出迎えた。

こういう時の序列のきまりにしたがい、年齢順に記すと、

菅沼主膳虎常(とらつね 67歳 小普請支配 700石)
菅沼左京定寛(さだひろ 39歳 舟手 3000石)
菅沼新三郎定喜(さだよし 20歳 2020石 中奥小姓)
菅沼藤十郎定富(さだとみ) 11歳 2020石)
(このうち、虎常定富の養父・和泉守定亨は、当ブログに登場ずみである)

平蔵(へいぞう 36歳)は、剣の師ということで、竹尾道場の主とともに、その末座につらなっていた。

それぞれに祝意を表して酒宴の席へ移り、定前が着替えてくるのを待った。

それまでの座つなぎに、『実紀』の天明元年8月6日の項に初見した者28人とし、その首頭に交代寄合・菅沼新八郎を記し、そのあとにつづいた、平蔵にもかかわりがありそうな4人をあげておく。

書院番頭
太田駿河守資倍(すけます 53歳 5000石)
 子・鉄五郎資承(すけつぐ 20歳)

西丸書院番頭
小堀下総守政明(まさあき 45歳 5000石)
 子・式部政共(まさとも 20歳)


渋谷隠岐守良紀(よしのり 51歳 3000石)
 子・采女良寛(よしひろ 32歳)

西丸小姓組番頭
酒井紀伊守忠聴(ただし 50歳 3000石)
 子・政太郎忠笴(ただもと 17歳)

新八郎が肩衣をとった袴姿で着座すると、客たちもそれにならい、くつろいだ。

酒が注がれた。
給仕しているおんなの一人に見覚えがあった、
(きく 22歳)であった。
2年前に新八郎の子を産んだはずであった。
新八郎の幼名の藤次郎をつけたと聞いたが---。

参照】2010年11月19日~[藤次郎の難事] () () () () () () (

がまわってき、なつかしげに笑顔で酌をした。
「和子(わこ)は---?」
とたんに笑顔が消えた。

声も消えいるほどに細かった
「育ちませんでした」
「それは、訊かでもがなであった」
平蔵も、まわりに聞こえないようにつぶやいた。

「お手水(ちょうず)でございますか?」
とつぜん、おがいい、銚子をおいて立った。
涙顔はこの座にふさわしくないとおもったのであろう。

「うむ。案内をたのむ」
平蔵も受けた。

廊下へでると、おは涙目を手巾で押さえ、
「その節は、おこころづかい、かたじけのうございました」
「いまも、この屋敷に---?」
「いいえ。東本所四ッ目の別宅で、殿のお渡りをお待ちしております」

菅沼家の四ッ目の別宅へは、新八郎のいまは故人となった実母・於津弥(つや 35歳=当時)に誘われたことがあった。

参照】2010年4月5日~[菅沼家の於津弥] () (

津弥も、きょうの新八郎の凛々しい当主ぶりを見たかったであろう。

新八郎どのは当家にとっても、お上にとっても大切なお人だ。大事にな」
「はい。こころいたしまして---」

「次の和子も、やすがて、さずかろうほどに---」
うなずいたおの頬に紅がさした。

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2010.08.02

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(6)

布団のかたわらに、皺になった桜紙が10ヶ近くも散らかっていた。

(へい)さまは、火盗とお親しいのですか?」
「火盗---? ああ、火付盗賊改メか。そういえば、もう5年も前のことだが、(だい)の頼みで、が安房国朝夷郡(あさいこうり)へ盗賊を捕まえに、そのときの火盗改メのお頭(かしら)・永井---おれとは字がちがう、永遠の「永」の永井采女直該(なおかね 52歳=当時 2000石 鉄砲(つつ)組の4番手組頭)さまの組下の同心と出張(でば)ったことがあったな」

参照】2009年5月16日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (
2009年5月21日~[真浦(もうら)の伝兵衛] (1) (2) (3) (4) (5) (6) () (

深川・海辺大工町の一劃---本誓寺の脇の二階家であった。
小料理〔蓮の葉(はすのは)〕の女連れの客のために整えられているのだという。

真夏の宵らしく、蚊帳の男女は巣裸で、腰のあたりにさえ布もまとわず、あられもない。
もちろん覗いているのは、行灯の細くした炎だけであった。
凝脂(ぎょうし)がみなぎった肌をさらしているおんなは、〔蓮の葉(はすのは)〕の女将のお(はす 31歳)。
同年配とみえる男は、幕臣で西丸・書院番3の組の番士の長野左左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)であった。

さまは、おんなは---?」
「おいおい---」
「そうじゃ、ないんです。奥方をお貰いになるまえにいらっしゃったんです、雑司ヶ谷の料理茶屋の座敷女中だった人---」
「知らなかったなあ」
「大年増---30も半ば---あら、わたしはそのころ、20(はたち)を出たばっかり---。なんですか、指をおって数えたりして---」

銕三郎(てつさぶろう 平蔵の家督前の名)が事情があって、お(なか 34歳=明和5年)を雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛に頼みこみ、住みこみの座敷女中に雇ってもらったのは、8年前であった。

参照】2008年8月4日~[〔梅川の仲居・お松] () () () (
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] () () () () () () () (
2008年8月29日[〔橘屋(たちばなや)〕忠兵衛]

「すると、おどのは29歳?」
「齢など、どうだってよろしいではないですか。佐左さまより齢上ってこはありません。お互い、これに満悦すればいいのです」
おとこの両股に差しいれていた太腿を軸に、上にのしかり、舌を差しいれた。

「そろそろ、お眠(ねむ)にしますか?」
「眠いのか?」
「わたしは大丈夫ですが、佐左さまには、明日のお勤めがおありでしょう?」
「ひと晩くらい、眠らなくても---」
「たのもしい」

腰を浮かせ、位置をきめながら、
さまに、いま、おんなは?」
「また、のことか。あいつは、年増にもてるのだ。なんでも、息子が剣術を習っている大身の後家に口説かれているとかいっていたが、どうなったことやら---む」
「膝の内側を引いてください」
「こうか?」


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(栄泉『艶本華の奥』部分 イメージ)

参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () (

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2010.08.01

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(5)

「いい人---?」
佐左(さざ)が聞きとがめた。
今宵、こうしてじゃれあっていても、佐野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)には、お(はす 31歳)の情人(いろ)になったという実感はない。
色欲のつよいおんなに、たまたま出会い、しばしの出事(でごと 交接)を悦しんでいるだけだと、あきらめている。

「いい人になってくださいますか? こんな好色婆さんでは、お嫌でしょう?」
「嫌ではないが、すぐにというわけにはいかない」
佐左は、茂みから指を離した。
の手がそうさせなかった。

「おことほどのおんなに、うしろ楯がいないはずがない。今宵のことは、はずみとおもっている」
「悲しいことをおっしゃいます。はずみなんかで、こんなこと、できましょうか?」
「おれのどこが---金はないし、権力もない」
「ここに、お力が---」
指がつまんで、動きはじめた。
刺激され、佐左の指も芝生の溝をひらき、潜る。

不思議なことに、最初のときよりも、快感が昂(たか)まっていた。
(早くも、おの躰に馴れはじめたらしい)

「行水を、いいつけてきましょうか?」
「いや。このままでいい」

「先だっての浅野さまのお話、感動しました。お身内の方を、あんなふうに、冷静に見られるのかって---」
(だい)は、なにごとにも醒(さ)めており、その目で対策を立てる男なのだ」
佐左さまは?」
「おれは、疑い深い」
「こうなっても---?」
「そうだな」
指が乳頭をなぶっている。
おんなの太股が差し入れられてきた。

「今宵のこと、(へい)さまだけにはおっしゃらないでください」
「誰にもいわないが、どうしてなんだ?」
「あの方、わたしの前のお勤め先のご主人とお親しいんです」
「前の勤め先---?」
「雑司ヶ谷(ぞうしがや)のほうの料理茶屋」

腰が押しつけられ、佇立していたものが迎え入れられた。


参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(ながさだ)の異見] () () () () (

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2010.07.31

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(4)

浅野さまと長谷川さま、それにあなた---どういうもおつながりですの?」
裸の男女が蚊帳の中で、さっきから睦言(むつごと)をつづけていた。

おんなは、すぐ近くの小料理〔蓮の葉〕の女将・お(はす 31歳)であった。
なめらかで艶のある白い裸身を、おしげもなく行灯のあわい光にさらしていた。
そうしていたほうが、男がよろこぶことを、しりつくしていた。

男は、先日、食事にきた3人組の一人---長野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)であることはいうまでもない。

いわれたとおり、五ッ半(午後9時)まえに高橋(たかばし)北の横筋の小料理〔蓮の葉〕を訪れると、すっかり灯をおとしてい、あらわれたおが、
「泊りこみの板場の者と仲居がいますから、そこまで---」

連れてこられたのは、高橋を南へわたった海辺大工町、本誓寺(現・江東区清澄3-5)の脇のふつうの二階家であった。
軒をくぐる前に、
佐左(さざ)さま。お泊りになれますか、それとも、お帰りに---?」
「泊まれるのか?」
「ええ」
「それでは、泊まろう」
「うれしい」

二階には、蚊帳と寝床がしつらえられた一部屋しかなかった。
「行水もできますが、あとでよろしいでしょ?」
なれた口調だったが、すぐにいいわけをした。
「お連れさまとのお客さまの中には、お食事のあとに、こういうところをお求めになる方が少なくないのです。それで、出店みたいに整えているのです。わたしは、今夜が初めて---」
つくり笑いを、小舌をちょろりとだしてごまかした。

「いつまでも、暑さが去りませんねえ」
さっと帯を解いて蹴だし一つになり、うながした。
乳房は豊かであった。
吸ったのは前夫だけではあ.るまいが、佐左は考えないことにした。
横にならぶと、すぐに腰巻をはずし、佐左の下帯にも手をかける。

「お(ひで)さんとおっしゃいましたか、お子とともにお亡くなりになったのは---お幾つだったのですか?」
「---19歳」
「これから、というお齢でしたね」
「なにも覚えないうちに、ややができてしまった」
「でも、乙女だったのでしょ?」
「それはそうだが---」
「今夜は、熟れきって、なにもかも存じているおなとのおなごでございます、お覚悟をなさって---あ、そっと、やさしく---」
の指の動きは、微妙で、これまで体験したことがない巧みさであった。

気がつくと、上半身が蚊帳の外にはみでていた。

「小名木(おなぎ)川が傍(そば)ですから、蚊にお気をおつけになって---」
「蚊は驚いて、退散したであろう」
「そんなに、声をあげましたか?」
「うむ」
「だって、すごくよかったんですもの。ほら、まだ、こんなに濡れて---」
指をみちびいた。

冒頭の会話は、このあとのものである。
男は指をそのままあずけて、
「8年前に初見(はつおめみえ)した仲だ」

参考(2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 
2009年5月12日~[銕三郎、初見仲間の数] () () () () (
2009年5月17日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (

「殿方のそうした仲って、8年もつづくのでございますか。うらやましい」
「おんなは、つづかないのか?」
「いい人ができると、疎遠になりがちです」

参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () () 


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