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2010.07.25

藤次郎の初体験(5)

佐和の身のふり方だが---)
菅沼家の門を出、目の前の大川に架かる新大橋の上に立ちどまって川面(かわも)へつぶやきを落としていた。、
(---誰に、どう、頼んだものか)

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(新大橋 菅沼家は橋の左端の広小路の向い
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)  

仮りにも、大身の幕臣の奥向きに勤めたおんなである。
顔のきく香具師(やし)の元締衆に頼むのは、筋ちがいもはなはだしい。

(かつ 36歳)の下で化粧(けわい)師範見習いというのも---
(いかん、市井向きを探している。実家が乾物屋だったとはいえ、7000石の大身幕臣の情けと精を受けた衿持(きょうじ)が佐和にもあろう。
その上、藤次郎の子でも孕(はら)んでおると、世継ぎはお上が認めまいが、1000石くらいの分家にはしてもらえよう)

市井の気易(きやす)い付きあいにひたりすぎた反省はしたものの、それを停(や)めようとはおもわなかった。
(おれ流の生き方を編みだせばいい)

係累の多い菅沼家のこと、どこかにはめこめないか?
土地(ところ)の者たちが〔エテ公ばし〕と呼びならしている猿子橋をわたったとき、ひらめいた。

火盗改メ・本役を勤めている菅沼藤十郎定亨(さだゆき 47歳 2025石)の、端正ではあるが艶のない肌色の顔をおもいだした。
いつだったか、一族の年配者らしい口調で、頼まれた。
藤次郎をよろしく」

参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () () () () () (

佐和が新大橋西詰の(野田菅沼家にいては、藤次郎の教育上よろしくないと訴えれば、内緒で引きとってくれるのではないか。

藤次郎佐和の出事(でごと 交接)は、情事というより幼稚な火遊びに近い。
母親・於津弥(つや 37歳)へ告げてことを大きくするまでもなく、秘密裡にすませるのがいい。
それには、菅沼定亨から、佐和の貰いをかけさせるという案はどうであろう。

定亨に事の次第を打ちあけると、笑って、
「おかしなものよのう。32歳の大年増が、13歳の少年を犯しても、精が出たのどうので済んでしまう。これが逆で、32歳の幕臣が13歳の未通の乙女を犯したことが公けになると、家をつぷしかねない。は、ははは。藤次郎のためだ、その大年増を貰いうけよう」

ちゅうすけ注】定亨は、この年---安永5年(1776)の12月12日付で奈良奉行へ転じ、継室を江戸の大塚の屋敷へおき、佐和を伴って赴任した。
継室を連れなかったのは、3人の子---いずれも女子が幼なかったせいもあった。
12歳、11歳、7歳であった。

赴任はしたもののstrong>菅沼奉行は、ほとんど病気勝ちで、佐和は、5,6年前iに織部定庸(さだつね 享年35歳)にしたのと同じ好情をほどこした。
定亨は着任8ヶ月でみまかった。
享年48歳。

末期養子の定富(さだとみ 9歳)に遺跡を継ぐことが認められたのは、重臣・久世一門で長崎奉行の丹後守広民(ひろたみ 46歳 3000石)の次男であったからであろう。
定富の内室には、定亨の12歳の長女があてられたが、婚儀があげられた年齢は不詳。
入れ代わりに、11歳の次女が久世家へ養女に出されている。

またも主(ぬし)に病歿された佐和のその後も未詳。

佐和に去られた藤次郎には、平蔵が馬術、弓術、水練の師をつけ、漢籍の講義も強(し)い、寝屋へはいるとたちまち熟睡するように仕向けた。
それでもときには夢の中で剣友・有馬の妹・智津(ちづ 14歳)を抱き、下帯を汚したという。

15歳で元服し、由緒ある新八郎を襲名、平蔵のすすめで、知行地・三河国設楽郡(しだらこおり)東・西杉山や新城などの村々、宝飯郡(ほういこおり)三蔵子村などの視察のための初旅をした。
若殿は大年増の後家がお好みとの噂がひそやかに流れ、村長(むらおさ)たちが村の後家に夜伽の話をもちかけたところ、みな二つ返事ではあったが、藤次郎の率直な感想は、
「知行地は二度と訪れたくない。おんなといえるのは江戸に集まっておる」


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(菅沼定亨・定富、次女の個人譜)


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2_360
(久世広民・定富、養女の個人譜)

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コメント

またまた「寛政譜」の掲示、ありがとうございます。
こうして、登場幕臣の家譜が掲示されますと、その人物の歴史的存在感が手にとるように感じられ、鬼平が身近になります。
ありがたいことです、ちゅうすけさんはたいへんなご苦労でしょうけども、ファンのためによろしくお願いします。

投稿: 左兵衛佐 | 2010.07.25 04:39

>左兵衛佐 さん
『寛政譜』は、江戸幕臣もののもっとも基礎的な史料です。
しかも、帰嫁・離婚・再婚、養子・養女と、基本的な人間関係も暗示していますから、眺めているだけでドキドキしてきます。
幕臣には幕臣の流儀があったとしても、基本的には人間なんですから。
『寛政譜』からそういうトキメキを感じられるようになったら、人間通になりつつあるんでしょうね。

投稿: ちゅうすけ | 2010.07.25 06:49

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