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2010.05.29

火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)(3)

長谷川どのの組は、人選にたいへんでござろう?」
会話が一瞬、途絶えたところで、なにをおもったか、先手・弓の2番手の組頭で、火盗改メの本役を勤めている菅沼藤十郎定亨(さだみち 46歳 2024石)が、他人事(ひとごと)のようにつぶやいた。

先手・弓の7番手の組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)が、日光社参の組に選抜されたのはいいが、宿泊・炊き出し・予算などのこともあり、組下の半数しか供奉がかなわないので、選ばれた組の長は、みんな難渋していた。

選定の内幕が洩れると、組の規律と士気にかかわってくるからである。
もちろん、組頭がじかに人選するわけではなく、先手組のばあいは、それぞれの組に、5名から10名いる与力の、筆頭と次席といった役付が素案をつくり、組頭に提出するしきたりになっている。

しかし、告示の時期が早すぎると、よけいな思惑が飛びかうことになり、遅すぎたら、配下は支度が間に合わなくなる。
その時期選びは、微妙といってよかった。

菅沼さまは、このまま、火盗改メの役をおつづけになるおつもりでございますか?」
菅沼定亨が、日光参詣の話題をさりげなくもちだしたのは、先手・弓の2番手の組下の中に、不満を口にしている与力・同心がいるので、ここで、心の奥を吐きだし、脇屋筆頭からみんなへ伝えさせたいとおもっている、と平蔵は察した。
(そうか。それも招待の狙いの一つであったか)

「将軍家をはじめ、お歴々の衆が江府をお離れになったとき、府下をしっかりお護りするのは、臣下の義務(つとめ)というもの」
菅沼組頭は、自分にいい聞かせるように語調をつよめた。

「とりわけ、先手・弓の2番手のわが組は、有徳院殿(吉宗 よしむね)さまの日光社参からこちらの47年間の 火盗改メの経験を通算しますと、34組の中で、2番目に長いのです」
脇屋筆頭与力も、組頭の意を汲んだようなことを口にした。

ちゅうすけ注】長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手・弓の2番手の組頭となった翌天明7年(1787)から50年を遡って計算すると、2番手が157ヶ月、鉄砲(つつ)の11番手が104ヶ月と逆転し、2番手組がもっとも経験豊富となる。平蔵は、その組のお頭に任じられたのだから、よほど期待されていた。
とはいえ、これから20年後のことではあるが---。

「お頭に火盗の令がくだったのは、お上に、日光ご参詣の目途(めど)がついたときともおもわれます」
脇屋は、自分の推察をつけくわえた。

菅沼組頭がわずかに、眉根を寄せたのを見てとった里貴(りき 31歳)が、
菅沼さまのご先祖は、大権現(家康 いえやす)さまの田中城攻めにご参戦iなり、ご武勇をお立てになったやに伺っております。その前、長谷川さまのご先祖が、田中城をお守りになっており、甲州勢と手ごわくお戦いになったとか---」

あっさりと、話題が振れた。

参照】2007年06月01日~[田中城の攻防] () () (
2007年6月19日~[田中城しのぶ草] ((2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
2007年4月5日[寛政重修l諸家譜] ()

(いつの間に、誰に訊いたのか)

里貴の言葉には、菅沼定亨よりも、平蔵のほうがおどろいた。
寝屋で、田中城のことも、祖・紀伊守(きのかみ)正長(ながまさ 37歳=戦死)のことも、田中藩主であった本多伯耆守正珍(まさよし 66歳 前・田中藩主 4万石)侯のことも、洩らした記憶がない。
本多侯といえば、父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が亡じてから、芝口双葉町の藩の中屋敷への参上も怠っていた。

平蔵の顔をなにげないふりで見た菅沼組頭は、かすかに目元を微笑ませてから、
「女将どのは、紀州のどちらの出かな?」
「那賀郡(ながこおり)の貴志村でございます」
「といわれても、わが方は、新左(しんざ 新左衛門 菅沼攝津守虎常とらつね 61歳 700石 日光奉行)どのと異なり、同じ菅沼でも、紀州には縁が薄く、貴志村といわれても、な」

参照】2009年3月19日~[菅沼攝津守虎常] () () () (

「金剛峰寺さんの寺領の村でございます」
「真言宗か?」
「はい」
「いや。立ち入ったことを訊いてしまった。許されよ。これからもよろしゅうにな」
「こちらこそ、ご贔屓にお願いいたします」
頭をさげた。


参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (


       ★     ★     ★

調べものに追われていて紹介が遅れてしまったが、週刊『池波正太郎の世界 24』[夜の戦士 火の国の城ほか]---いわゆる、忍びの者シリーズが送られてきていた。

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懐かしかった---というのは、巻末の「池波さんと私」で落合恵子さんが「読売映画広告賞」での池波さんのことを話していたからである。
こまの審査員は、池波さん、落合さんといっしょにぼくも、10年以上もつとめた。
最終審査は年1回、3人のほかに映画雑誌の編集長の尾川さんの4人が同席して行なった。
池波さんは、一言居士で、「ぼくは、あれ」とひと言きり。
もっとも、審査の前は、お互い、気ぜわしいタイプだから、30分も前には会場にきて、雑談を交わした。

仕事の分野が異なるので、わけへだてなく会話した。

あの10数年間を、落合さんの言葉を読みながら思い出した。

審査が終わってからの帰りは、池波さんはほとんど落合さんと相乗りの車であった。
ぼくは、大手町からメトロで3駅なので、送迎の車はいつも断っていた。大気汚染をすこしでも減らしたかったから。
いまでも、ほとんどはメト利用である。
パルプ節約のために、本の上梓もひかえて、もっぱら、ブログ。
iPadが普及したら、電子本なら考えてもいいが。

この『Who’s Who』も、いい編集者がついて、このファイルとコノファイルをつないで---と電子本になることを、ときどき夢見ながら書いている。

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