« 菅沼摂津守虎常 | トップページ | 菅沼摂津守虎常(3) »

2009.03.20

菅沼摂津守虎常(2)

2008年3月4日の[田沼意次(おきつぐ)の父]は、SBS学苑〔鬼平クラス〕でともに学んでいる、安池欣一さんの研究リポートであった。

安池さんは、.『南紀徳川史 第5冊』をあらため、田沼意次の実父・意行の、その父は、紀伊藩士・菅沼半兵衛の倅で、同じく紀伊藩士・田代七右衛門のところへ養子にはいった専左衛門重意(しげおき)であろう---との推察を記していた。

紀伊侯へ出仕するとき、田代の「」と、菅沼の「」をあわせて田沼を名乗ったとも。

それで、『寛政重修諸家譜』はすでにお調べであろうとおもったが、念のために『寛政譜』の菅沼一門のページと、その180年ほど前に編まれた『寛永諸家系図伝』の菅沼家のページのコピーを送った。

コピーの到着を告げ、
「送っていただいた 『寛政譜』のコピーの4ページ目にある、巻第三百五の「菅沼満成正勝」のこの続きがしりたいです。紀州藩の家臣ですから対象外ですね」
とのメールがきた。

満成正勝は、三河国設楽(しだら)郡長篠(ながしの)に住した、いわゆる長篠菅沼の一門である。
半兵衛の名を初めて称した正勝は七代目で、武田勝頼の麾下にあったが、その後、家康の陣営に加わって2500石を給され、紀伊大納言頼宣(よりのぶ)に配されて和歌山へ去った。

_360
(半兵衛正勝の個人譜)

安池さんのいうとおり、紀州家の家臣となった半兵衛正勝以後の家譜は、当家が吉宗に従って江戸城へ勤仕しないかぎり、『寛政譜』には載らない。
もっとも、『寛政譜』編纂部署の求めに応じて、家譜を呈出したことはかんがえられる。
もしかしたら、国立公文書館の奥ふかく、所蔵されているかもしれないが、田沼意次を調べた人で、半兵衛菅沼家の上呈草稿の存在を明かした人は、まだ、いない。

_130宮城谷昌光さん『風は山河より 全5巻』(新潮社 2006.12..1~)は、野田菅沼家に光をあてた大河小説である。
いま、その中に手がかりをさがしている。

参照】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (3) (4)


|

« 菅沼摂津守虎常 | トップページ | 菅沼摂津守虎常(3) »

032火盗改メ」カテゴリの記事

コメント

お久しぶりです。

菅沼氏が、長谷川平蔵に関係してくるなんて、ちゅうすけどのの鬼平ブログだからこそ到達できるんですね。
それをお調べになった安池さんにも、さすが、ちゅうすけ一門---といった風韻を感じました。
ひきかえ、ただただ感心しながら読んでいるだけの自分がはずかしい。
いい機会だから、おすすめの宮城谷昌光先生の『風は山河より』を読んで勉強します。

投稿: 文くばりの丈太 | 2009.03.20 05:48

>文くばり丈太 さん
ほんと、お久しぶりでしたね。
でも、アクセスしていてくださったそうで、なによりです。
このブログも、ページ・ヴューが500/日を軸にして、上下しています。
こういう堅い、歴史に即した鬼平もののブログに500/日ものアクセスがつづくというほうがむしろ、驚異的なんだと納得しています。
宮城谷さんは、いいですよ。ぜひ、ご堪能ください。

投稿: ちゅうすけ | 2009.03.20 08:35

ちょっと面白い田沼意次ものを見つけたので。
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/cat6639401/index.html

賄賂の額などの出所があかされていないので、俄かには全面肯定はしかねますが、砂糖栽培の思いつきには合点がゆきます。

投稿: ちゅうすけ | 2009.03.20 11:23

確かに、寛政年間に提出した資料ですから、正勝以降寛政までの家譜も記載されていたでしょうね。今は誰にも見られることもなく保管されているのかと考えますとワクワクします。

投稿: 安池欣一 | 2009.03.20 11:36

>安池欣一 さん
菅沼一門の『寛政譜』前書きには、紀州の家からも草稿を取り寄せたフシがうかがえますから、かなり、国立公文書館にありそうなのは有望とおもっています。
ただ、活字文ではなく、手書きのお家流でしょうから、すこし、古文書を読む力がないと、その場でもコピーをとらしてもらうとか、なんとかの処置がとれません。それで、古文書解読の本をとりよせたのですが、練習する時間がしれなくて。でも、今年中にはなんとか、こなしてみようとおもっています。

投稿: ちゅうすけ | 2009.03.21 13:29

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 菅沼摂津守虎常 | トップページ | 菅沼摂津守虎常(3) »