菅沼摂津守虎常(3)
宮城谷光昌さん『古城の風景 1 菅沼の城、奥平の城、松平の城』(新潮文庫 2008.4.1)に、
以前、野田菅沼氏を小説にする、と私がいったとき、「小説新潮」の編集長であったMさんは、しきりに、
「宗堅(そうけん)寺」
を気にして、三重県長島町(現・桑名市)の役場に問い合わせしていた。それはとりもなおさず、
---菅沼定盈(さだみつ)を書くにちがいない。
と、Mさんがおもったからである。たしかに、定盈は天正(てんしょう)十八年(1590)に関東にはいった徳川家康に随(したが)って、上州阿保(あぼ いまの地図では埼玉県内)1万石をさずけられ、そこで隠居し、のちに嫡子(ちゃくし)の定仍(さだより)とともに伊勢の長島へ移り、慶長(けいちょう)九年(1604)七月十八日に亡(な)くなった。
没年は63歳(数え齢)であった。
宮城谷さんが小説にした菅沼氏は、東三河の野田城に本拠を置いていた、いわゆる野田菅沼の三代記で、『風は山河より 全5巻』(新潮社 2006.12..1~)となって結実している。
四谷戒行寺の墓域前で、銕三郎(てつさぶろう 24歳)に、
「こなたが銕三郎どのでしたか。相役の松田(彦兵衛)どのから、うわさは聞いておりますぞ。わが組の筆頭与力・村越増五郎へ通じておきますから、いちど、役宅へお遊びにおいでなされ」
と誘いをかけた、先手・弓の4番手組頭・菅沼摂津守虎常(とらつね 55歳 700石)の家筋は、この野田・菅沼定盈の3男がたてた家系である。
それで、『寛政重修諸家譜』の定盈のくだりを読んでいて、「これは---」という記述に目がいった。
永禄11年(1568)というから、定盈が27歳のときである。
家康軍の先手となって浜松を攻め落とした。
そのあと---、
馬伏塚(まふしづか)の小笠原美作守某、中泉東宝井の渡り西が崎に出張するのとき、大須賀五郎左衛門康高(やすたか)につづいて川を渡し、敵数騎をうちとる。
地元の人たちが馬伏塚(まむしづか)と読んでいる城址は訪れたことがある。
いまは袋井市に合併されているが、当時は磐田郡浅羽町であった。
『鬼平犯科帳』文庫巻11に[穴]というユーモラスな話が収録されている。もと首領・〔帯川(おびかわ)〕の源助(げんすけ)にしたがって引退し、京扇の店〔平野屋〕の番頭におさまっているのが〔馬伏(まぶせ)の茂兵衛(もへえ)である。
とんだところで、菅沼一門と『鬼平犯科帳』がつながったので、しばし、苦笑した。
いや、歴史を読むということは、こういうつながりで深まっていく---といっておこう。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)・宣以(のぶため)を、なめるように調べているのも、こういう出会いが楽しいからである。
通りいっぺんに読み過ごしていては、時間(人生)がもったいない。
ついで記しておくと、池波さんが直木賞をとって3年目、『鬼平犯科帳』の連載をはじめる5年前---1963(昭和38)年、40歳のときの短編に『鳥居強(すね)右衛門』がある(『小説新潮』3月号)。
長篠城に籠もった奥平貞昌(さだまさ)の配下の強右衛門が、武田勝頼の大軍に包囲されたのをかいくぐって岡崎城へたどりつき、帰りにつかまって城内の者たちへ真実をつたえて磔になるというのがあらすじである。
池波さんは、この短編を書くにあたっての観点を、[時代小説について]と題したエッセイに、
いまの若い人たちは、強右衛門の名をきいても、どんなことをした男か、ピンとこないだろうが、私どもの少年のころ強右衛門の忠勇無双の物語は誰でも一度は耳にしたことがある筈である。
武田の大軍にかこまれた長篠(ながしの)城を脱出し、織田・徳川の援軍を乞いに敵中を突破、見事に役目を果たした上、尚も、援軍を待ちこがれる城中の味方へこのことを知らせるため、危険をおかして只ひとり城へ引き返す。そして、ついに武田軍にとらえられる。
武田方は、強右衛門を城の前へ引き出し「もう援軍は来ないから、あきらめて降伏するように---」と言わせようとする。その通りにすれば、お前を武田方へ引き取り出世させてやるというのだ。一も二もなく強右衛門は承知をする。そしていざというときになると、「援軍はそこまで来ているから、いま少しの辛抱である。心を合わせてがばってくれ」と叫ぶのである。(略)
忠義というモラルが、今では通用しなくなっている。私自身でさえも、ただ殿様のため、味方のために何のおそれもなく命を投げ出せたという男を書く気にはなれない。
私が〔強右衛門〕を書こうと思ったのは、戦国時代に生きた男たちの姿を出来るかぎり深くさぐってみようと考え、そこから、なぜ強右衛門があのような見事なふるまいを行ったのかを考えてみたいと思ったからだ。
じつは、この長篠城は、『古城の風景 1 菅沼の城、奥平の城、松平の城』によると、永正(えいしょう)5年(1508)に、菅沼満成(みつなり)の子・元成(もとなり)が築いたものとある。
いわゆる、長篠菅沼家である。
正貞(まさただ)が、武田方に小諸の牢に幽閉されて疑われて死ぬのだが、牢内で夫人が産んだ子が正勝(まさかつ)で、家康に召され、のち、紀伊大納言頼宣に付属された正勝がその人である。
つまり、きのう、SBS学苑〔鬼平クラス〕の安池さんが、紀州へ行ってからの系譜がみたいとおもっている、田沼意次(おきつぐ)つながりの、あの菅沼なのである。
話を鳥居強右衛門にもどす。
宮城谷さんは、強右衛門を磔にして鑓で刺し殺させた武田勝頼について、心に彩(あや)のない武将となじり、強右衛門を「敵ながらあっぱれ」と放免していれば、後世、それを称える者が輩出していたろうにと。
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コメント
奥三河の古戦場を訪ねた折、長篠城址史跡保存館に展示されている壮絶な「鳥居強右衛門磔刑の図」を見て今でも強烈に印象に残っています。
鬼平の話から鳥居強右衛門に出会うなんて驚きです。
投稿: みやこのお豊 | 2009.03.21 22:33
>みやこのお豊 さん
奥三河の古戦場は、行きたいところの一つです。
おそらく、宮城谷昌光さんも、長篠城址史跡保存館で「鳥居強右衛門磔刑の図」に目をそむけて、勝頼の彩(あや)のない武将ごころをお感じになったのだとおもいます。
投稿: ちゅうすけ | 2009.03.22 08:47