池波少年の小説
講談社のヴェテラン編集者・小島 香さんの手で掘りだされた未収録エッセイ集5冊---
軽装単行本で2003年2月15日から月1冊ずつ順次刊行された、
『おおげさがきらい』(文庫化は2007.3.10)
『わたくしの旅』
『わが家の夕めし』
『新しいもの古いもの』
『作家の四季』
---に255本のエッセイが収められていることは、すでに述べた。
刊行時にむさぼるように読んだはずなのに、また読み返すと、見逃していたことを新しく発見する。
この稿の主題[長谷川伸師から修行時代の池波さんが受けた影響]からはいささかずれるが、第3集『わが家の夕めし』(2003.4.15)の[私の処女作「厨房(キッチン)にて」]の書き出しもそう。
私は昭和十六年か十七年に、時代小説をはじめて書いたことがある。十九か二十のころであったろう。
当時、婦人画報社で朗読文学という名のもとに、原稿用紙で五枚の小品を募集してい、私は何度もそれに応募し、[兄の帰還]というコントで入賞をした。この[帰還]とは、戦地(中国大陸)から東京へ帰還する兄を迎える前夜の妹と父親のことを書いたものだ。そのころの日本が、アメリカを相手に戦争の火ぶたを切ったばかりだったことはいうまでもない。(スクラップブック 昭和46年)
従兄弟だかに、戦地で亡くなった人がいたことは、いま確かめる時間はないが、別のエッセイで読んだ記憶がある。
ただ、昭和十六年か十七年---といえば、父御さんとは離ればれで池波さんは暮らしていたし、妹はもちろんいたわけではないから、作品はまったくの想像の産物といえる。
そのころからこしらえものの物語をつむいでいたということだ。これは、池波さんの想像力の飛翔力を示してくれる。
[私の処女作「厨房(キッチン)にて」]からの引用をつづける。
その前に書いたのが[雪]という小品で、これは、桜田門外に井伊大老を襲撃する水戸浪士の中に、ただ一人参加した薩摩の有村次左衛門が、雪の濠端(ほりばた)に同志とともにたたずみながら、故郷の母のことを想う心理を、ま、およばずながら書いた。(同)
池波さんは、30年前の習作を顧みて、「むろん、そのころの私は、小説書きになるつもりは毛頭」なかったといっているが、それはいささか疑わしい。
「そうなれれば---」ぐらいにはチラっとおもったかもしれない。
そうでなければ、毎月応募するものか。
もちろん、現実的に小説に手を染めたのは、、
恩師長谷川伸の強いすすめによるものであった---と[ショウ見物で小説のデッサン]に書く。
「絶対に、脚本だけでは食べて行けないし、作家としても、双方をやって、双方のよいところを吸収したほうがよい」(『問題小説』 昭和48年12月号)
と、師にいわれたのが引き金になったと。
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