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2012年6月の記事

2012.06.30

おまさ、[誘拐](12)

誘拐]の1年前――すなわち[炎の色]でのお(なつ)、およびおまさに、いろんな意味でかかわりがありそうなあたりに網をはってみた。

えっ? どうして松平伊豆守信明(のぶあきら 35歳 三河・吉田藩主 7万石)がおおまさとかかわりがあるの?……訊ないでほしかったなあ。

2、3日前に書いたとおり、松平定信(さだのぶ 36歳=寛政5年 白河藩主 11j万石)が前年――寛政5年(1793)7月23日に将軍補佐と老中首座を解職されたので、平蔵(へいぞう 50歳=寛政7年)としては功績をゆがめて評価する上役がいなくなり、頭上の重っくるしい黒雲が晴れた気分になっていたところであった。

その分、おまさ救出のためにめぐらす案が、なんの制約もなしに立てられたとおもうのだが----。

それはともかく、いささか不安なのは伊豆守信明の寛政6年の年齢である。
寛政重修l諸家譜豊橋市史』は側室が産んだ男子なので幕府にとどけなかったとし、当主・信礼(のぶまや 享年34歳)が若死したので、幕府に「丈夫届」をだして菊之丞(のち信明)を世子としたと。
「上部届」の委細は下記【参照】を。

参照】2012年1月6日[「朝会」の謎] (

(のぶあきら 32歳 三河・吉田藩主 7万石)が正しい。

が、伊豆守信明が36歳であろうと33歳であろうと、おまさの気持ちにはまったくかかわりはない。


炎の色]で〔峰山〕一味と〔荒神〕のお一味が醤油酢問屋〔野田屋〕卯兵衛方を襲うという夜、

寝床へ入って両眼を閉じたとき、おまさの胸の内は、
(荒神のお頭だけは、御縄にかけたくない)
このおもいが、込みあげてきて、消えなくなってしまった。
捕らえられれば、いかに女といえども盗賊の首領だ。
打ち首は、まぬがれまい。
(けれど、到底、逃げることはできないだろう)
おまさは知らず知らず、左手て゛右の二の腕を摩(さす)っていた。
お夏に摩られていたときの感触とは、まるでちがう。(文庫巻23[炎の色]p254 新装版p  )


そのうちにおまさは自分の乳房をつかんでいた。
おまさの心の動揺であった。


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2012.06.29

おまさ、[誘拐](11)

当ブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]を立ち上げて3、4年のうちはのんびりとすすめていた。

しょっちゅ、わき道へそれては落ち穂でも拾うみたいに、銕三郎(てつさぶろう)の育った時代を横見しいしい楽しんで歩くことも辞さなかった。
2006年11月26日前後には雑史書『甲子夜話』なんかも大真面目で立ち読みしている。

参照】2006年11月26日[『甲子夜話』巻1―26] 

大石慎三郎さんは『田沼意次の時代』(岩波文庫)で、「田沼時代を知るには好適の史料とされ、田沼時代を語る場合には必ずといってよいほど引用されている史料である」が、「問題の多い史料」であって、とくに田沼関連の文章には要注意---とする。

その根拠として、「彼の叔母、戸籍上では妹は、本多弾正大弼忠籌(ただかず 陸奥・泉藩主 2万石)の室(妻)となっている」「この本多忠籌は、田沼意次の政敵である松平定信の最大の〔信友〕」であった。

「さらに、彼自身の室松平氏伊豆守信礼が女となっている」が、その兄は松平伊豆守信明(のぶあきら 三河・吉田藩主 7万石)で、「忠籌と並んで松平定信を支えた二本柱」

そんなわけで、静山の筆が田沼意次におよぶときには、公正さを欠くと。いや、悪意に満ちた捏造があるといったほうが、より実体にちかいかもしれない。

などとつぶやいている。

大石慎三郎さんの親身なご忠告を高澤憲治さんもそのまま服膺「松平定信政権崩壊への道筋――松平定信と一橋治済・松平信明・本多忠籌との関わり方を中心に―― 」( 国史学 第164号 1998.10)に、定信信明の関係を次のように紹介している。


松平信明(三河吉田七〇〇〇〇石)は、家祖の信綱および三代あとの信祝が老中を勤めた名門に生まれた。

この誕生秘話については、

参照

だが、信祝の子信復は無役、孫で信明の父である信礼は奏者番で死去したこことや、信明の婚約者および彼女の死後正室に迎えた女性の父が老中経験者(酒井忠恭、井上正経)であることは、彼の老中就任への同家の熱い期待をうかがわせる。


このあたり、学者の紀稿文にしては想像力がなまなましい。
大名家の婚姻の利得の一つは、たしかに将来の地位であちたのであろう。
それを史料と史料のあいだにこのようにずばっと挿入される高澤憲治先生の文章には胸がすく。
深井雅海先生の緻密な構成力、硬質文章とともに愛好しているゆえん。

さて余談は措いて――。


天明4年(1784)10月24日に奏者番に就任して老中への第一歩を踏み出したが、同5年に定信や忠籌らのグループに加盟した。


これは危険といえば危険な加盟であったかもしれない。
というのは前年の奏者番への指名は、今風の用語でいうと、田沼意次のチルドレンがための意味があった。
もし、御三家、一橋のクーデターじみた家治の臨終かくしが成功していなかったら、たいへんな報復をうけたかもしれない。

参照】2012年1月6日[朝会の謎] (
2012年3月7日[小笠原若狭守信喜(のぶよし)]) (

ここからが大石慎三郎さん説の踏襲――。


定信は信明に①忠籌の甥(肥前平戸藩主松浦 清)の室が信明の妹であり、②信明は田沼政権下で役職に就任したが、養母(父信礼の正室)の養父である駿河田中城藩主本多正珍は、田沼が関わった郡上騒動の審理で老中を罷免されており、③「才は徳にまさ」り「子にはことに服」す、ことから好感を抱いたとおもわれる。

参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] () () () () () () () () () (10) (11) 


当ブログ、8年近く、延々ときてひょんなところで本多伯耆守正珍侯や郡上八幡事件、さらには松平伊豆守信明侯との糸がむすばれようとは、ちゅうすけ自身もえにしの妙に驚いている

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2012.06.28

おまさ、[誘拐](10)

文庫巻24[誘拐]に先だつ[炎の色]の舞台であった寛政6年(1794)にいささかこだわっているのは、この年は平蔵(へいぞう 49歳)にとって幸運のきざしがみえた時期とおもうからである。

平蔵が火盗改メ・本役を拝命して7年目に入って徳川幕府270年間に100名を超える幕臣が火盗改メ・本役に任じられている。
火災の多い冬場の助役(すけやく)も加えると火盗改メの経験者は250名以上にもなるが、この際は本役にかぎって話をすすめる。

本役を務めた仁で、平蔵以上に永くこの職にあった人物はいない。
平蔵がこの役に適していたという見方もあるが、ちゅうすけは同意しつつ反論する。

ありようは平蔵田沼意次(おきつぐ)派とおもわれたために、寛政5年7月23日まで老中首座であった松平定信(さだのぶ 白河藩主 11万石)に嫌われ、懲戒の意味もあり、あしかけ9年間も火盗改メに塩づけされたのであった。

いや、塩づけてすんでよかったかも知れない。
というのは、平蔵は番方(ばんかた 武官系)で政治・行政には縁遠かった。
役方(やくかた 行政官)であったらああいうアイデアの塊りみたいな気質だから、難癖をつけられて無役ではすまず、閉門あるいは半知(知行地半分召し上げ)くらいは食らっていたかも。

平蔵自身は、
(これほど盗賊を捕縛して市井の安穏につくしたのだから、つぎは町奉行━━)
と期待していたらしい風評ものこされている。 

その定信をご三家と組んで老中へ推しあげたのは一橋治済(はるさだ 37歳=天明7年)であったが、高澤憲治さん「松平定信政権崩壊への道筋━━松平定信と一橋治済・松平信明・本多忠籌との関わり方を中心に━━
( 国史学 第164号 1998.10)は、治済の驕慢な要求を定信が老職としてぴしゃりと拒否したことから溝がはじまったと先行きを暗示している。

その後も幕府からの借入金に対する一橋家の大幅な返済遅れとか、治済の子女の行儀作法教育の粗雑さなどについて定信の意見じみた書簡もあったりして、双方の対立は大きくなるばかりであった。

一方の定信(36歳=寛政5年)は、寛政改革をすすめる過程での辞職願いの多発を逆用されて寛政5年7月23日に受理されてしまった。

高澤さんの論及は題名どおり、寛政改革の3本柱といわれたほど 濃い盟友であった本多弾正将監忠籌(ただがず 55歳=寛政5年 陸奥・泉藩主 1万5000石)との対立、期待をかけていた松平伊豆守信明(のぶあきら 33歳=寛政5年 三河・吉田藩主 7万石) 不信感の訴えといった上下左右できしみを生じていたときの解任であった。

老中に首座なしでは決裁がすすまない。
家柄からいっても所領高からいっても信明がその任にふさわしいとおもわれていた。

信明平蔵に特別な先入観はもっていなかった。
盗賊逮捕のために下屋敷に2刻(4時間)ほど待機させてほしいと頼まれれぱ、家臣を派遣して手伝うほどの熱意であった。

辰蔵(たつぞう 25歳)が事件後に年長の妻・於:( ゆき 33歳/公けには26歳)へ自慢した。
「さすがは宰相どのの下屋敷だった。
三ッ半(真夜中1時)まではまがありましょうと、もてなしにだされた酒がなんと、駿府の銘酒〔老宿梅〕であったのには、一同おどろろいた。同心の木村忠吾さんなどは一生のうちにお目にかかるのはこのときだけと興奮状態だし、長岡藩の浪人・丹羽庄九郎どのは、これで並み以上の働きができると小柳さんの分にまで手をのばしていたよ」

「お義父(ちち)上のおかげですよ」
胸のうちで於:は声なしでいいながら、口から笑顔でこぼしていた言葉は、
「それはよろしゅうございましたなあ」
であった。

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2012.06.27

おまさ、[誘拐](9)

〔峰山(みねやま)〕の初蔵(はつぞう 50男)一派と〔荒神(こうじん)〕のお(なつ 25歳)一派が、箱崎町2丁目の醤油問屋〔野田屋〕卯兵衛方を襲う文庫巻23の中の長編[炎の色]を、このブログがその続編[誘拐]を書くというので、再読なさったファンの方々も多いと予想している。

もちろん、楽しみ方はそれぞれだから、聖典と離れた伸転をしているブログはブログ━━と割りきってお考えの向きの方もすくなくはあるまい。

たとえば、〔峰山〕組は2艘の荷舟に初蔵以下15人は入り堀へ、先発した〔荒神〕組17人は表戸から侵入するはずであったが、表戸組は向かいの松平伊豆守(信明 のぶあきら)の下屋敷(聖典旧版p262に中屋敷とあるのは近江屋板のミス。下屋敷)からあらわれた同心・小柳安五郎木村忠吾松永弥四郎岸井左馬之助丹羽庄九郎辰蔵に斬りまくられた。

峰山〕組は、平蔵(へいぞう 49歳)独りに、「貴様だけは許さぬ」と逃げる肩から背中を袈裟がけに割られた初蔵は堀へ、あとの賊たちも腕や片足を斬りおとされ、あげくのはてに船手方・向井将監(しょうげん)配下によって熊手などで全員捕らえられた。

なに、船手方━━平蔵(へいぞう 49歳)の内室・久栄(ひさえ 42歳)の父・大橋惣兵衛親英(ちかふさ 83 歳 200石)が7年前に船手頭で布衣の祝いをしたことを報告くしたっけ。
あのご老躰、いつまで船手頭を勤めていたのかな?

参照】2012年5月1日[義父・大橋与惣兵衛親英が布衣(ほい) ]

疑念を質(ただ)すために『寛政譜』をあらためてみたら、なんとこの事件の2年後の寛政8年春まで現役を勤めていたではないか。
平蔵から依頼され、

「婿どのの勇み姿を拝ませてもらおう」

老骨に鞭うち、直接に指揮をとったかもしれない。
そうおもって読むのも一つのたのしみであろう。

もっとも、ちゅうすけは、事件の年代からいって、平蔵を軽視していた松平定信が解職された翌年のこの事件、宰相の地位に就いた伊豆守平蔵をどう遇したかのほうに興味がある。
病室から外へでられるようになったら、図書館がよいをして調べてみたいことの一つである。

参照】松平伊豆守信明の個人譜は、2012年1月7日[「朝会」の謎] (

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2012.06.26

おまさ、[誘拐](8)

(りょう 享年33歳)という不思議なキャラのことを書こうとして、わき道へそれてしまった。

銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)は、盗賊の軍者(ぐんしゃ)をしていたお(29歳=当時)がお(かつ 27歳=当時)の立ち役であることはこころえていたから、そういう色模様抜きでおの知恵を借りようと、向島の寮を訪問したときのことであった。

明和3年(1766)のことであったから、いまの寛政7年(1795)からいうと30年ちかくも前のことで、銕三郎は先ゆき、〔荒神(こうじん)〕のお(なつ)に2度もかかわるなどと予見もしていなかった。

参照】20081116~[宣雄の同僚・先手組頭]() () () () (

変な表現だが、銕三郎はおの最初の男になってしまった。
もちろん、最後の男でもあった。

文庫巻23の[炎の色]でおまさ五郎蔵に語ったおの印象をまた聴きをすると、一瞬にしておをおんなおとこと推察したが五郎蔵にはふせ、五郎蔵の義理の父にあたる〔形(ふながた)〕の宗平(そうへえ 70代)にいいつけ、物乞い姿で弥勒寺門前に張りこませた。

門前のお(くま 70歳近い)の茶店〔笹や〕に寄留しているおまさを訪ねてくるに違いないおの本性をたしかめさせるためであった。([炎の色]p149 新装版p   )

訪ねてきたおは、おまさの右腕を両手でつかみ、ゆっくりと摩(さす)った。

おまさの躰が、かっと熱くなった。([炎の色]p146 新装版p   )
おまさ、37歳。
、25歳。

お腹がすいたというおのためにおまさが菜飯をつくっているそぱで、おは袂(たもと)からだした紙を引き裂(さ)き、竈から火を移しては燃えつきる炎のさまをうっとりと眺めていた。

それからしばらく措いた(旧暦)7 月初めの晩、奥方久栄(ひさえ 42歳)は、夫・平蔵が紙を細長く裂いて火鉢に落とし、めらめらと燃え上がるさまをむずかしい顔で瞶(み)つめている姿を見た。

二度目におの〔笹や〕へあらわれたおが、袖口からいれた指先で大胆にもおまさの乳房をなぶり、いまの仕事(つとめ)が終わった来年には、上方(かみがた)でいっしょに暮らそうと口説いたことは、たいていの鬼平ファンは記憶していよう。

 

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2012.06.25

おまさ、[誘拐](7)

当ブログに不思議なキャラが登場している。
中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)であった。
銕三郎(てつさぶろう 27歳=当時)より6歳年長であった。

なにが不思議かというと、大盗・〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ)と、これも盗賊としては横綱格・〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)につかえたおんな賊であった。
しかも、ただの引きこみなどではない。

_130は、軍者(ぐんしゃ 軍師)という格で両巨頭のためにはたらいたのである。

参照】2009年1月27日~[〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)〕] () (

聖典『鬼平犯科帳』には、おというおんな賊のキャラは登場していない――という声は当然である。

池波さんは、元盗賊の首領・〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろうぞう)の口を借りて、
「おんなという生きものには、どうしても、わからねえところがある」
「男とは躰の仕組みがちがう所為(せい)かもしらねえ……その日その日でがらりと気分が変ってしまうおんながいるものだよ。おまさは、それが少ないほうだとおもうが」([炎の色]p77 新装版p )

気分の急変ぶりは男に理解ができないところだと慨嘆している。
所帯をもっている男性なら、共感できる台詞であろう。
いや、軍者の気分がその日の気温や雲の形で変化しては、危なっかしい。

それはともかく――。

五郎蔵が〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 享年67歳)の下で修行をかさね、〔五井'(ごい)〕の亀吉(かめきち 享年50歳近く)とともに並び頭(がしら)として独立をゆるされていた時期があった。

統率者が2人――というのは、相手の気分を害しては、という遠慮が双方にあるから、人物をみるのにも手薄になるところがある。
そこを衝かれて亀吉は命をおとした。

小妻こずま)〕の伝八(でんぱち)のような腹黒い男を配下に加えたのがそのいい証拠であるが、昔のことはともかく、いまはおまさの物わかりのいい亭主として夫婦で平蔵につかえ、密偵たちの元締格で差配をしている。

その五郎蔵おまさから聴かされたお(なつ)の初印象は、


「眼がおおきくてねえ、なんとも妙な女なんですよ。一目(ひとめ)見たときには、何だかぞっとして……」
「眼が大きくて奇妙な女が、どうしてぞっとするのだ?」
「だって、それよりほかに、いいようがないんだもの」([炎の色]p138 新装版p  )


躰は少女のように細く嫋(しなや)か――ちゅうすけの年代だと浅丘るり子さんをおもいうかべるのだが、いま世代の人たちはだれであろう。
まあ、名前をあげられても、まるで別世界の女人であろうが。

とにかく、おは、いわゆる近代的というか、竹久夢二描くところの昭和初期のなよなよしい美人とおもっておこう。


は洗い髪を後(うし)ろへ垂(た)らし、その先を白縮緬(しろちりめん)で包んでいた。
紺一色の単衣(ひとえ)に、これも白の細い帯を、何十年か前の享保の時代(ころ)の女がしていた水木結(みずきむす)びにしている。(炎の色]p77 新装版p )


これを聴いただ゜けで、平蔵はおのある性癖を見抜き、五郎蔵おまさの夫婦関係まで先ばしって憂慮した。

つまり、おの存在が鬼平密偵団にとって間接的に脅威をおよぼすとも、平蔵が予想したということである。

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2012.06.24

おまさ、[誘拐](6)

未完の長編[誘拐]でのおまさの救出という場面を実現するにあたり、もっとも関連がありそうな〔荒神(こうじん〕のおなつ 26歳)という〔おんなおとこ〕のものの考え方に影響をおよぼしたとおもわれる人物たちの周囲をめぐっている。

の父親は、〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう)という盗賊の首領であった。
助太郎は、[炎の色]事件の13年ほど前に病死している。
寛政6年(1794)の夏が、13回忌にあたっていたらしい。

助太郎という首領(かしら)はいっぷう変わっていた。
旅が好きで、北は蝦夷(えぞ)から南は九州まで、そのときどきに応じて旅をしがてら――ということは好奇心が旺盛で土地々々の風土、人情、習慣に触れては楽しむとともに、つとめをするのにふさわしい商家を選別(えら)んでいた。

「こんどは東海道の上り筋、駿府と掛川だ」
「宇都宮から日光----もっともおいしい道筋に盗人宿はもうけてある」
こう告げるときの助太郎の采配ぶりは、まことに颯爽ちるものであったという。

もっとも、候補に立てても実際に押しいったのはその中の、1割あるかなしで、やりとげるまでの手だて――要員の人選から引きこみの潜入、連絡(つなぎ)の手配と実行季節、退路の道順や収穫の分配などを空想するのを楽しんでいたともいえる。

-盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
-つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
-女を手ごめにせぬこと。

三ヶ条を守りながらの押しいりだとそんなに頻繁には実行できない。

選出した店舗は、昼間の店頭の情景から、どうやって探りだすのか、金蔵の場所から部屋々々の配置ぐあいまで懐帳面に描いていた。
そんな帳面を土地々々の盗人宿の奥の床の間の天井裏に秘蔵していた。

の母親を、ちゅうすけはお賀茂(かも)と決めこんできたが、まったくの人違いをやっていたかもしれないし、あたっていたかもしれない。
池波さんが編集者に洩らした形跡はない。

参照】2008年3月27日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (10

ただ、手がかりは、おは「隠し子」であったというひと言だけだ。([炎の色] p73 新装版p )

ただ、おんなおとこについては、聖典の文庫巻12[白蝮]に津山薫という先走雌馬がいる。

神保町にそれ専門の書店があると聴いたが、外出もままならなくなったいま、関連本を探しにでることもできなくなった。

銕三郎がこのブログでいっとう最初に出会った盗賊の首領が〔荒神〕の助太郎であったことは、偶然のようで案外的を射ていたかもしれないと、最近ではおもうようになった。

2人目は〔蓑火()〕の喜之助(きのすけ)であったか〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう )であったか、ちょっとはっきりしない。
(いや、検索すればわかるはずだが、コンピューターはその手の検索には弱い。
ま、いずれ分明しよう)

参照】22008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (

このとき銕三郎喜之助から、煙草の益を説かれるが、結局、一生、煙管を手にしないですませた。
ちゅうすけ喜之助から人の育て方を学んだ。

納得してもらえまいが、ちゅうすけは、もう一つの毎日ブログの[創造と環境]で紹介している、20世紀の世界の広告革命の偉業を果たしたビッグ・ネイム――ビル・バーンバックさんを喜之助に投影した。

意外におもう人は、[創造と環境] http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/ にアクセスしてごらんください。

話がわき道へそれた。
本道へ戻ろう。

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2012.06.23

おまさ、[誘拐](5)

平野屋源助と茂兵衛は、峰山の初蔵について知るところはなかったが、荒神の助太郎の名は知っていた。
「なかなか立派な、ものの道理をわきまえたお頭だったようですよ」と茂兵衛がいえば、源助も、
「私が京で引退(ひき)祝いをいたしましたときに、会ったことはございませんが、使いのものをよこしてくれましてな、金五十両(800万円)の祝(いわ)い金(がね)を贈ってくれましてございます」
「つきあいもないのにか」
「はい。向こうは向こうで、私の評判をいろいろと耳にしていて、私を好(す)いていてくれたからでございましょう」
「なるほど。荒神の助太郎とは、そうした男であったか……」([炎の色]p93 新装版p )


末尾の一行は平蔵(へいぞう 49歳)の感嘆であった。

そういえば、このブログで平蔵(へいぞう 28歳)を称してからは、助太郎(すけたろう)を目にしていない。

じかに会話をかわしたのは14歳のときに箱根宿の芦の湖畔でと、18歳の小田原城下で透頂香「ういろう」の店の前であった。

あとは、〔荒神(こうじん)〕一味とおもわれる賊が押し入った形跡を探ったのと、じかに助太郎に会って風貌をおぼえていた下僕・太作(たさく)が宇都宮城下で見かけて手くばりしたのと、息・辰蔵(たつぞう 13歳)が、お賀茂(かも)とおもわれるおんなと大塚吹上(ふきあげ)の富士見坂上の茶菓子舗〔高瀬川〕ですれちがったぐらいであった。

西久保の京扇の店〔平野屋〕の番頭・茂兵衛(もへえ 40がらみ)は、かつては大盗・〔帯川(おびかわ)〕の源助(げんすけ 70歳前後)の敏腕の軍師であり右腕の〔馬伏まぶせ)〕の茂兵衛どんとして一目(いちもく)おかれていた。

その茂兵衛が「ものの道理をわきまえたお頭」ということが納得できる風評をなにか耳にしたのであろう。

「ものの道理」とは、約束を守り、金銭の貸し借りが清らかで、分をわきまえて出しゃばらず、長幼の序をたがえず、要するにはた迷惑をかけない――といったところであろうか。
いや、上の一つだってきちんと行うのはかなりむつかしいのだが。

源助の評価はかなり具体的である。
相手を認める、重んじる、喜びを共にする――とりわけ、〔帯川〕や〔荒神〕のような職業(?)の場合は、無事に引退できた、畳の上で死ねたというのは最高の人生だったのはず。
そのことを心底から銘じあっている同士――としての祝い金(がね)の交歓であったろう。

もっとも、源助のほうが、13年前に香典を届けたかどうかはわからないとしても……。
(引退祝いに50両は納得できるが、香典はいくらであろう? 50両の香典というのは、いくらなんでも道理にはす゜れているとおもうが――)
一瞬の妄想を平蔵は打ちけし、源助主従にほほえんだ。

志――あるいは人生哲学が似ている、尊敬しあえる、という先輩、同輩、後輩がいるだけでも、生まれてよかったと思える。
幸せである。

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2012.06.22

おまさ、[誘拐](4)

「〔三河そごう)の定右衛門(さだえもん)という盗賊の首領について、引き継がれている留め書きをのこらずに集めさせておいてくれ」
平蔵(へいぞう 49歳)が(たて) 伊蔵(いぞう 40歳 5年前に朔蔵改め)筆頭与力に命じたのは、[炎の色]で密偵・おまさ(37歳)が〔荒神こうじん)のお( なつ 25歳)にあった翌日の夕刻であった。

平蔵が〔三河〕の定右衛門に興味をもったのは、〔荒神(こうじん)〕の二代目に就いたおが、定右衛門の下で盗(つとめ)の修行を積んだと、おまさに打ちあけたからであった。(文庫巻23[炎の色] p146  新装版p142)

ちゅうすけからのお願い】このコンテンツは有明の緩和ケアの入院病室でしたためています。2週間の缶詰(予定)です。新装版を手元に持参していません。新装版でそろえていらっしゃるファンの方、新装版の当該ページをコメント欄へご教示のほどを。

鬼平犯科帳』を楽曲にたとえると、文庫24巻を通してあるときは強く、あるときは静かに流れている旋律の一つに、盗人(つとめにん)の3ヶ条の掟があるといえようか。

一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
一、つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
一、女を手ごめにせぬこと。

読み手はまず、この盗賊の頭は3ヶ条を守りとおしているかどうかで、その仁への好悪・愛憎の度合い決めてかかることが多い。

三河〕の定右衛門は3ヶ条を守りとおしてきたらしいが、寛政5年(1793)に病死し、息子が二代目を称しているものの、3ヶ条を踏襲しているかどうかは不明。

それというのも、初代・〔三河〕の定右衛門は、将軍の住まいがある江戸で盗み(つとめ)をするのは怖れおおいといい、府内はもちろん、駿府から東へは足をふみいれていないから、業績がほとんど記録されていなかった。

しかし、その薫陶を受けた〔荒神〕のおは、昨年の[炎の色]事件では〔峰山(みねやま)の初蔵(はつぞう)と組んで江戸での盗みに手をつけた。

と二代目・〔三河〕の定右衛門とのあいだはどうなっているのであろうか?

おまさの誘拐に二代目はかかわっているのか?

荒神〕の助太郎の教えは、おにどれくらいの影響をのこしているか?

ここでちゅうすけの判断に迷いの粉をふりかけたのが、元盗賊・〔帯川おびかわ)〕の源助(げんすけ)こと、平野屋源助の〔荒神〕の助太郎観であった。(文庫巻24[炎の色]p93 新装版p91)

源助は、ちゅうすけのとはいささか異なる見方をしていた。

   

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2012.06.21

おまさ、[誘拐](3)

盗賊・〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)と平蔵銕三郎 てつさぶろう)とのかかわりは、ざっと昨日、さらえておいた。

聖典『鬼平犯科帳』に、助太郎のむすめの〔荒神(こうじん)〕のお(なつ 25歳)が登場してくるのは、文庫長編[炎の色]をもって嚆矢(こうし)とする。p138 新装版p133

ちゅうすけのつぶやき】おが、「通り名(呼び名ともいう)」を変えてくれていたら、出生の地とか、いろいろ類推ができるのだが、〔荒神〕では、近衛河原の荒神口の店の〔荒神屋〕で生まれたか育ったかしたとしかおもえない。それだと、一味の者たちに隠しておけなかったとも邪推してしまう。

だけではなく、父親の助太郎当人が顔をみせるのも[炎の色]が最初である。

読み切り短編の連作形式である『犯科帳』とすると、どれが先、どれが次という見方は不自然で、次から次へとユニークな盗人(つとめにん)をくりだす池波さんの創作力に、読み手としては感嘆していればいいことはいうまでもない。

そうなのだが、おまさ助太郎のえにし、おおまさのきっかけのつくり方にも目を配っておくべきであろう。

おまさは17歳のときに、〔盗人酒屋〕の店主の父親・〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年51歳)と死別する。

参照】2009年11月30日~[おまさが消えた] () (

「流れづとめ」の忠助はかつてのゆかりで、盗賊の首領・〔法楽寺ほうらくじ)〕)の直右衛門(なおえもん)と親しくしていたので、忠助の歿後、おまさ直右衛門の手くばりで〔乙畑(おつばた)〕の源八(げんぱち)一味の引きこみとして鍛えられた。

一人前のおんな賊になったおまさは、銕三郎がいた京都にあこがれ、荒神さんへの参道口に木綿類の店〔荒神屋〕をかくれ蓑にしていた助太郎のところに身を寄せ、名古屋での仕事のときに、連絡(つなぎ)役・〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんのすけ)にしびれ薬入れの酒で躰の自由を奪われ、レイプされたという、まさに唾棄したいような記憶があった。

荒神〕の助太郎一味にいたのは16,7年前だから、もしかしたら当時10歳になるかならぬかの少女であったおに会っていたかもしれないが、おまさにはその記憶がない。

参照】2009年9月13日~[同心・加賀美千蔵] () () () () () (


とすると、おは別腹の子だったのであろうか。
いつ、どのようにして「おんなおとこ」に転じたのであろうか。
男を受けいれなくなるのは、まるでボロ人形でも抱いていめような無残なあつかいをうけた結果であることが多いとはいわれているが……。
[炎の色]に描かれている世をすねたような人生観は、どこからきたのであろうか。

本格派の初代・〔三河そごう)〕の定右衛門(さだえもん)に鍛えられたというが、どんなしつけであったのだろう?

疑念と興味はつきない。

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2012.06.20

おまさ、[誘拐](2)

さて、聖典『鬼平犯科帳』でおまさが誘拐されたのは、寛政なん年であったろう?

この特定は、じつは、難事である。

史実の長谷川平蔵は、寛政7年(1795)5月10日(旧暦)に50歳で歿したと、菩提寺の戒行寺の霊位簿にある。

寛政重修諸家譜』には同年同月19日となっているが、これは公けの忌日である。
平蔵は現役の火盗改メ(先手・弓の2番手組頭)のまま病死しているから、退職願いを幕府に提出し、許可された日が公の歿日として認められ、記録されるきまりであった。

聖典『犯科帳』の130余篇の物語を、書かれている季節を追って並べていくと、寛政7年(1795)5月の事件は、文庫巻13の[熱海みやげの宝物]がその時期にあたる。
ということは、[熱海みやげの宝物]以降の物語は、じつは、平蔵歿後のことになり、未完の[誘拐]も当然以降にはいる。

というわけで、平蔵の[誘拐]での年齢を50歳とすると、おまさは38歳となり、平蔵の死の前年49歳の篇とみなすとおまさは37歳でなければならない。

熱海みやげの宝物]以後の篇で作中キャラクターは、加齢しては理があわなくなる。

そういう事情だから、平蔵49~50歳、おまさ37~38歳として考察をすすめることにしたい。
ほかのキャラも上にならえ! 


誘拐]では、〔荒神(こうじん)〕のおなつ)当人はまだ姿をあらわしていない。
が、前篇の[炎の色]で25歳とあるから、[誘拐]では26歳とみておく。

聖典では、〔荒神〕のおの父・助太郎(すけたろう)は13年前に歿したことになってい、その残党でおをかついで関東の盗賊{峰山みねやま)〕の初蔵(はつぞう)一味と組む、〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんのすけ)、〔袖巻(そでまき)〕の半七(はんしち)らは一網打尽、処刑されてしまう。

当ブログでは、未完[誘拐]とのかかわりを前提にして、〔荒神〕の助太郎銕三郎を34年前に会わせた。

参照】2007年7月14日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] () (
2007年7月16日[仮初(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)〕
2007年7月17日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] () (
2007年12月28日~[与詩をむかえに]  () () (10) (11) (12
2007年7月14日~〔荒神〕の助太郎] (5) (6) (7) (8) () (10

2022年2月23日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎の

助太郎にこだわったのは、おのおとこおんなの性癖が母親・賀茂(かも)の血をひいているのではないかと推察したからであった。

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2012.06.19

おまさ、[誘拐]

当ブログをたちあげたのは、2004年の12月の末であった。
池波さんが『鬼平犯科帳』を創作するときに脇へ置いていた基本的な資料――

-『江戸名所図会(ずえ)』
-「(近江屋板)切絵図
-『江戸買物独案内

つかわれたその場その場で図示しなから、作者の頭脳の経路を探索したいとの発起であった。

さらに、盗賊の出生地を求めるための

-吉田東伍博士『大日本地名辞書


つまりは、『オールカラー図解・鬼平犯科帳』を試みようとしたのであった。
そんな企画は、書籍では高価についてビジネスとしてはなりたたない。

そんなわけで、ブログの当初のタイトルは、[『鬼平犯科帳盗賊探索日録]だったようにように覚えている。

その名残りは400人ほどの盗人(つとめにん)の生国・年齢人相・顛末を50音順に整理した盗賊Who’s Whoの形でまとまっている。

3年間ほどそんな試行錯誤をつづけながら、長谷川平蔵銕三郎)が生きた時代の制度・役職・人脈・事件の調べへ発展していった。

と同時に、そのころの性風俗もからめるようになった。

もっとも注力したのは、アイデアマンとしての平蔵を生き生きと描くことであった。

その一つが[化粧(けわい)読みうり]の板行と、記事下に添えるお披露目(ひろめ)枠の商店えらび、その効果――いまでいえば広告効果であろうか。

じつは、ちゅうすけはコピーライターとして、20世紀の広告世界に革命を起こしたニューヨークのドイル・デーン・バーンバック社(略称DDB)の世界一の研究者である。
どういう語り口(アイデアとその表現)に読み手の信頼がえられるかを半世紀以上も調べてきた。
(その具体的経緯は、もう一つのブログ――[創造と環境]http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/に5年間にわたって毎日報告してきている)

そう、連日ということでは、当ブログも7年6ヶ月――2,575日間、1日も休むことなくつづけているということである。
3日坊主が常習のちゅうすけとしては、人生82年間ではじめてやった快挙がこれであった。驚愕!

当ブログは、4年ほどつづいたあたりから、終わりは、池波さんが未完で逝かれた文庫巻24の「誘拐」で何者かに攫われた密偵おまさ平蔵が救出したところが最終回と予告してきた。

そのつもりでゆっくりと枝道へそれてはそれなりに楽しんでいたら、本年の1月、末期がんにまですすんでいる喉頭の病巣が発見された。
患部は食道・肺にまでおよんでおり、余命6ヶ月との宣告であった。

ぼやぼやしていられなくなった。
余命6ヶ月だと、最後の3ヶ月はブログどころではあるまいと覚悟した。

で、この2月から筆(キー打ち)をいそぎ、昨日、やっと、文庫巻1収録の[唖の十蔵]につながるところへ駆け足で追いついた。

明日からは、一足飛びに寛政7年(1795)――平蔵が病床に就く前、おまさの救出にとりかかれるところからはじめたい。
むろん、池波さんの腹案は察しながら――である。

たぶん、1ヶ月もかからないとおもうので、おつきあいいただきたい。

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2012.06.18

各篇の年次順

池波さんは、当初、 『鬼平犯科帳』の連載を2年ていどで打ち切る予定にしていた。

その間に、在任中(足かけ8年前後)の物語を完結するつもりで年次を按配していたが、編集側や読者の強い要請で連載を引きのばすことになり、それまで書いたものの間を縫うように、新しい物語を補充していった。

これは、ひどく神経を使う作業であったことが、このリストからも読みとれる。
鬼平犯科帳』は、池波さんの代表作であるとともに、もっとも苦心を要した連載であったろう。

各物語の事件年次は以下のとおり。

●物語の年次

[1-1 唖の十蔵]      天明7年(1787)春から秋

[1-2 本所・桜屋敷]    天明8年(1788)小正月
[1-3 血頭の丹兵衛]    天明8年(1788) 10月
[4-3 密通]          天明8年(1788と明記)
                  11月末~12月

[4-4 血闘]          寛政元年(1789)早春
[4-5 あばたの新助]     寛政元年(1789)春~初夏
[5-3 女賊]          寛政元年(1789)初夏、梅雨
[1-4 浅草・御厩河岸]    寛政元年(1789)夏から秋
[1-5 老盗の夢]       寛政元年(1789)初夏から暮れ
[4-6 おみね徳次郎]     寛政元年(1789)夏から秋
[4-7 敵(かたき)]      寛政元年(1789)晩夏から晩秋
[4-8 夜鷹殺し]        寛政元年(1789) 9月から師走
[5-2 乞食坊主]       寛政元年(1789) 1 0月~12月
[5-1 深川・千鳥橋]     寛政元年(1789)秋から師走

[1-6 暗剣白梅香]      寛政2年(1790)初春
[5-4 おしゃべり源八]     寛政2年(1790) 2月
[1-7 座頭と猿]        寛政2年(1790)梅雨のあがった夏
[1-8 むかしの女]       寛政2年(1790)晩夏
[5-5 兇賊]           寛政2年(1790)秋
[5-7 鈍牛]           寛政2年(1790) 12月

[6-1 礼金二百両]      寛政3年(1791) 1月
[6-2 猫じゃらしの女]     寛政3年(1791) 1月~2月
[2-3 女梅摸お富]       寛政3年(1791)夏の陽ざし p97
[6-3 剣客]           寛政3年(1791)春


[6-4 狐火]           寛政3年(1791)夏         
[6-6 盗賊人相書]       寛政3年(1791)盛夏
[2-2 谷中・いろは茶屋]    寛政3年(1791)晩夏
[6-5 大川の隠居]       寛政3年(1791)初秋
[6-7 のっそり医者]       寛政3年(1791)初秋
[2-4 妖盗葵小僧]       寛政3年(1791)初秋から4年へ1年がかり
[7-1 雨乞い庄右衛門]     寛政3年(1791)秋
[2-5 密偵]            寛政3年(1791)初冬(12月) p 196

[7-2 隠居金七百両]      寛政4年(1792)正月~翌5 (1793)年夏 p41
[7-3 はさみ撃ち]        寛政4年(1792)初春 p75
[2-1 蛇の眼]           寛政4年(1792)の初夏村田銕太郎昌敷
                                  が寄場奉行
[7-4 掻堀のおけい]       寛政4年(1792)晩夏
[2-6 お雪の乳房]        寛政4年(1792)晩秋 p 237
[7-5 泥鱈の和助始末]     寛政4年(1792)秋・暮れ~正月 p144
[2-7 埋蔵金千両]        寛政4年(1792)末~5年の年初 p268


[7-6 寒月六間堀]        寛政5年(1793) 1月
[3-1 麻布ねずみ坂]       寛政5年(1793) 2月上旬
[7-7 盗賊婚礼]          寛政5年(1793) 2月                      
[7-7 用心棒]           寛政5年(1793) 2月
[3-2 盗法秘伝]          寛政5年(1793)春([女賊] p120 )
[3-3 艶婦の毒]          寛政5年(1793)春 p75
[3-4 兇剣]             寛政5年(1793)晩春 p161
[3-5 駿州宇津谷峠]       寛政5年(1793)初夏 p214
[3-6 むかしの男]         寛政5年(1793)初夏
[8-2 あきれた奴]         寛政5年(1793)梅雨~12月
[4-1 霧の七郎]          寛政5年(1793)梅雨の明けた夏
[8-3 明神の次郎吉]       寛政5年(1793)夏
[8-4 流星]             寛政5年(1793)7月 
[8-5 白と黒]            寛政5年(1793)晩夏
[4-2 五年目の客]         寛政5年(1793と明記)秋
[8-6 あきらめきれずに]      寛政5年(1793)秋
[8-6 雨引の文五郎]        寛政5年(1793)秋
[9-2 鯉肝のお里]         寛政5年(1793)晩秋
[9-3 泥亀(すっぽん)]      寛政5年(1793) 10月


[9-4 本門寺暮雪]        寛政6年(1794) 正月
[9-5 浅草・鳥越橋]        寛政6年(1794) 2月
[4-5 あぱたの新助]       寛政6年(1794)春~初夏
[9-6 白い粉]           寛政6年(1794)春の終わり
[9-7 狐雨]             寛政6年(1794)晩春

[10-1 犬神の権三]        寛政6年(1794)初夏
[10-2 蛙の長助]         寛政6年(1794)初夏
[10-3 追跡]            寛政6年(1794)初夏
[10-4 五月雨坊主]       寛政6年(1794)盛夏~翌年夏
[11-3 穴]              寛政6年(1794)夏の終わり
[10-5 むかしなじみ]        寛政6年(1794)秋      
[5-6 山吹屋お勝]         寛政6年(1794)秋
[10-6 消えた男]          不明
[10-7 お熊と茂平]         寛政6年(1794)秋
[11-1 男色一本儡鈍]       寛政6年(1794)秋
[11-2 土蜘蛛の金五郎]      寛政6年(1794)秋
[11-4 泣き味噌屋]         寛政6年(1794)秋
[11-5 密告]             寛政6年(1794)秋
[11-6 毒]              寛政6年(1794)師走
[11-7 雨隠れの鶴吉]       寛政6年(1794)秋から翌年正月

[12-1 いろおとこ]          寛政7年(1795) 2月
[12-2 高杉道場・三羽烏]     寛政7年(1795) 2月
[12-3 見張りの見張り]       寛政7年(1795)
[12-4 密偵たちの宴]        寛政7年(1795)春~10月
[12-5 二つの顔]          寛政7年(1795)花も散った春
[12-6 白蝮]             寛政7年(1795)晩春から夏

             ★この年の5月10日、平蔵病死(史実)

明日からの[おまさ誘拐]の事件は、寛政6年(1786)にはじまらないとつじつまがあわないことを、このリストでお確かめを。

文庫巻12からは平蔵の死後であることを池波さんも承知で書き進めている。

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2012.06.17

ちゅうすけのひとり言(95)

「これは、ひどい!」
思わず声をだしてしまったのは、青木虹二さん『百姓一揆の年次的研究』(新生社 1966.04.109)の天明7年の全国一揆のリスト131~4ページ)に目を通したときであった。

この年、都市打ちこわしと農村一揆がはげ゜しかったことは、以下のコンテンツにもふれていた。

参照】2012年5月9日~[天明7年5月の暴徒鎮圧 ] (1) (2) (3) (4
2012年5月13日~[江戸・打ちこわしの影響] () () () () (
2012年5月18日[鎮圧出動令の解除の怪

しかし、江戸、大坂、駿府の都市型打ちこわしをふくめて、全国で51件もの一揆がおきていたとは、こころえていなかった。

同書によると、()内は天領の件数
天明1年   2件
   2     3  (2)
   3    20  (3)
   4     7  (1)
   5     1  (1)
   6     6  
   7    52 (16)

天明7年の天領とは、江戸、大坂、奈良、駿府、甲府、大津、堺、五条、枚方宿、京都、伏見、長崎、藤枝宿、丸子 、神奈川宿、八尾、古市であった。

騒ぎの原因を著者はほとんど、米価高騰としているが、もちろん、買占め、隠匿、売り惜しみもふくまれていることは容易に想像がつき、都市や主要街道の宿場、藩の城下町はそうで あったろうが、米の生産地では過酷な収奪にたいする抗議もあったようにおもうのだが、どうであろう。
 
個々の史料をあたっている余裕が、ちゅうすけにはいまのところも、これからもないので、概括であきらめておくよりほかない。
(自由に図書館へ行けないというのは、つらい)


これほどに幕府直轄領で騒ぎがおきれば、幕府の為政者――老中、勘定奉行、町奉行、遠国奉行、代官の責任が問われても仕方かなかろう。

田沼意次(おきつぐ)が去ったあとの老中は、

松平周防守康福(やすよし 71歳 石見藩主 6万400石)
牧野備後守貞長(さだなが 57歳 笠間藩主 5万石)
水野出羽守忠友(ただとも  57歳 沼津藩主 3万石
鳥居丹後守忠意(ただおき 71歳  壬生藩主 3万石)
阿部伊勢守正倫(まさとも  42歳 福山藩主 10万石)

家柄はいずれも申し分ないが、器量が大きく経験が豊富な老中は、水野忠友ぐらいであろうか。
幸い――といってはなんだが、この5藩の城下では、この年には一揆をみていなかったということか。
それだって、上掲書の記録漏れということもある――というのは、天明4年(1784)12月の信濃・松代藩へ平蔵(へいぞう 40歳)が出向いた一揆の記録が欠けていることからの類推だが。

参照】2012年1月20日~[松代への旅] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) 


将軍が未熟であれば、訓育者がしっかりと教導をしなければならなかったとおもうが、それにふれている論文を寡聞にして目にしていない。

家斉(いえなり)は、公式の文書からはうかがえないが、父・治済(はるさだ)の策謀家の性格をどれほど受けついていたのであろうか。

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2012.06.16

平蔵、初仕事(15)

〔三文茶亭〕が戸をたてまわす暮れ六ッまでまだ間があるどころか、平蔵(へいぞう 42歳)と松造(よしぞう 37歳)は昼食も摂っていなかった。

「〔五鉄〕へでも寄り、軽く昼餉(ひるげ)をすませてから屋敷へ戻ろうか」
平蔵の提案でそうすることにした。
飯どきには早かったので、階下の入れこみはほとんど空席であったが、平蔵の旅姿に三次郎(さんじろう 38歳)が気をきかせて、2階に席をつくった。

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(〔五鉄〕入れこみパース 知久秀章・画)

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(〔五鉄〕2階の間取り図 同上)


幕臣はそれと察しがつく衣装( みなり)のときは、市井の〔五鉄〕のような店での飲食はひかえるようにいわれていた。
役人としての威厳を保つためであったろう。

「しかし、殿。〔大調(おおづき)屋〕の飯炊き婆ァさんのお(たん 50歳すぎ)がことを、なかったことにしてしまって大丈夫ですございますか?」
「大丈夫かって、なにがだ?」

「泥棒を引き入れたことでございますよ」
(よし)。そなた、夢をみているのではないか。おは、恋しい男に人目をしのんで会いにでただけのことだ」
「しかし、女(め)たらしの友蔵(ともぞう 30歳がらみ)の誘いにのって……」

「おは、友蔵のことをめたらしと知っていたというのか?」
「それはなかったでしょう――」

「孫が7人もおる50の後家が、息子ほどの齢の友蔵にわれを忘れるほどに入れあげてしまうというのは、友蔵のなにがよほどの逸ぶつか、技に長(た)けているのであろうよ。できることなら教わりたいほどのことだ」
「殿!」

「冗談だがの。ところで、おは、友蔵が〔熊倉(くまくら)〕の惣十(そうじゅう)一味の盗人としって身をまかせていたとおもうか?」
「それはないでしょう」
友蔵もおのれが盗人であることは洩らしてはいまい。そうだとすると、おは、自分のやっていることが盗賊方を利しているとは寸毫もおもっていまい。そんな老婆やその一族にひどい罰をあたえていいものか――」

〔大調屋〕でみんなから飯炊きおんなとほとんど無視同然のあつかいをされていたのであろう。
そこへ、まだ汁っ気十分とおだててくれ、失神するほどにもてあそんでくれる男があらわれた。
その気にならないほうがおかしい。

しゃも鍋が煮立っていた。

「昼間っから、こんなに精のつくものを摂っていいのだろうか」
うっかり松蔵がつぶやいたのへ、平蔵がかぶせた。
「お(くめ)は春がくると幾つになるかの?」
「48歳でございます」
「おといくつ違うかの?」
「あっ!」

「おんなの業よ。おには幸い、といういい相手がいるから、女たらしの餌食にならないですんでおる。おんなの性は、つねに崖っぷちにある」

平蔵が鍋に箸をいれた。
松造もつづいた。

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2012.06.15

平蔵、初仕事(14)

帰りの脚はみんな速かった。
浦和を六ッ半(午前7時)には発 ち、板橋までの3里半ちょっとを1刻半でとばした。

白山神社下の鶏声が 窪で平蔵(へいぞう 42歳)が、
「おのおの方とはここで別れよう。往路に祈願してさっそくにお聴きとどけいただいたので、お礼を奉納しておきたい」

それでは、われわれも――という次席与力・小島与大夫(よだゆう 39歳)に、このたびは組頭・長谷川平蔵の初仕事としての祈願であったので、
「お礼も平蔵独りでいたさねば、神さまへ失礼にあたろう」
理屈にもならないことをいい、白山前で別れた。

参詣を終え、松造(よしぞう 37歳)とだんご坂へむかいながら、
「〔三文茶亭〕でひと休みしがてら、お(つう 20歳)のご新造ぶりでもおがませてもらおうか」
「おんなは嫁にいっても実家をわすれないと申しますから、おもいだしてくれる実家づくりをしてやらないと――
と、お(くめ 47歳)と話しあっております」
「よいこころがけじゃ」


が汲んだ茶をうまそうに飲んでいる平蔵のこんどの手柄を、松造がおに、
「江戸を発ったときには手がかりひとつなかったのに、ひと晩あけた翌日には、賊たちを手びきをした者から押しこんだ首領の名前までさぐりだしておられたんだから、火盗改メ 組のお役人衆も密偵たちも舌をまいてござった」
長谷川さまにかなう賊がいてたまるものですか――」
平蔵の手なみの鮮やかさをわがことのように喜ぶ。

「これ松蔵。そなたは長谷川平蔵のイの一番目の配下であるぞ。なれば、このたびの事件が師走(しはす)の中旬におきたと耳にしたときに、変だと気づかないではならぬ」
「申しわけございませんでした」

「いやな、大節季の集金があつまるまで待てなかったということは、段取りのお粗末な首領の一味であること、手伝った者たちも歳が越せないほどつまっており、餅代ていどで手をかしたこと、それには仕掛けのいらない店を狙うこと、浦和の辻々をよく知っている土地育ちの者が手を貸していること、当夜は旅籠に泊まらないで辻堂あたりで夜明けを待ったこと――ぐらいはすぐおさえられる」
「はい」

「〔大調(おおづき)屋の亭主の卯右衛門をなんとみた?」
「大店(おおだな)の当主みたいにおっとりしておりましたが……」
「ああいうのを、売り店と、唐様(からよう)に書く、三代目――というのだな」
長谷川さまのおじさま。それ、どういう意味ですか?」

「功なった大店(おおだな)の坊(ぼん)に生まれていても、三代目ともなると商売のことより芸事上手で、手習いなんかも筆跡聖人ほどに達筆だが、その字が役に立つのは、店売りますと 書くときぐらいということ」

(よし)とっつぁんの悪筆で、〔三文茶亭〕売りますと書いても、誰もちゃんと読めないから売れっこない」
が横から口をはさんだ。

「女房の、茶々がはいれば、亭主よし――という川柳もある」
平蔵がまぜっかえした。
別の意味にとったおが、顔を赤らめた。
この夫婦には、いい正月がきそうだ。

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2012.06.14

平蔵、初仕事(13)

長谷川さま。申しわけない」
宴を始める前に、〔白幡(しらはた)〕の長兵衛(ちょうべえ 50歳)が謝った。

上座にしつらえられた平蔵(へいぞう 42歳)、松造(よしぞう 36歳) の席から折れて、長兵衛、お(こう  20歳)の膳がならべられていた。

「元締。お手をおあげください。それでは宴が始まりませぬ」
平蔵がとりなしたが、
「いや。面目次第もございません。うちの者たちが盗みの衆をかばったりはしておらんと信じておりやす」
ますます、大きな躰をちぢめた。

「お身内の衆としても、漠然とした話なので、おもいだせなかったのであろうよ」
「おのほうはいかがでしたか? 朝から身内のものたちの聞きこみにかかりっきりで、おとはまだ口をきいていなかった不ざまで――」

「われのほうも、おさんに結果を告げておらなんだので、あわせてお聴きねがおう」


白幡村で養生しているのは、20年ほどまえにちょっとしたかかわりがあった秀五郎(ひでごろう)という70歳の老人だが、この老人の知りあいで針ヶ谷村生まれの友蔵というのが、女(め)たらしだと告げてくれた。

それで配下を針ヶ谷村へやって索(しら)べさせたら、〔大調(おおづき)屋〕に盗人が押しこんだころに村へ戻ってぶらぶらしていたことがわかったが、あの晩から姿を消してしまってい、せっかくの手がかりりが途切れてしまった。

長谷川さま。そのおんなたらしは、針ヶ谷村とおっしゃいましたか?」
「さよう」
「齢恰好は――?」
「30がらみ……」
「ちょっとお待ちを。ひょっすると、その友蔵とやらの幼ななじみだったのが、うちの身内にいるかもしれません。お資作(すけさく)を呼んでこい」

はたしして、30がらみの小頭・資作は幼な友だちで、友蔵の名を告げられると、
「あれは人間のくずでございますよ。おんなをたぶらかしては捨てて食ってる奴で、男の風上にもおけやせん」
太い眉を寄せ、吐いてすてた。

「たしかに非道な男だが、誰の下で働いているといってなかったかな?」
「2ヶ月ほど前に八雲神社の祭礼で会ったときには、いまは上州の、あんまりしられてない村――ええと、鹿でもない、猪でもない――そうだ、[熊倉(くまくら)〕の惣十(そう じゅう) という首領の下で重宝されていると、自慢してやした」

ちゅうすけ注】〔熊倉〕の惣十は、『鬼平犯科帳』では、さほど主要な首領としては描かれてはいない。おまさが引きこみとしてほんのしばらく勤めたぐらいで、そのあと、ひとり働きに近い友蔵が性技を活かした引きこみもどきをおこなったのであろう。

熊倉〕一味が火盗改メに捕縛された記録もない。

ということは、平蔵が火盗改メ・助役(すけやく)になっての最初の仕事は、〔大調屋〕へはいった盗賊の首領の名前と侵入の手口を明らかにしただけで終わったということである。

が、口約束どおり、3日のうちにそれをやってのけただけで、先手・弓の2番手の組下たちは畏敬してしまい、その後の働きぶりがまるで異なってきた。

秀五郎が寄こした煙草入れには、小判が50枚(800枚)はいっていたが、平蔵は幕府には報告せず、戸袋へ投げこんだままにしておき、天明8年10月2日に本役に就いてから密偵になった〔小房こぶさ)〕の粂八(くめはち)に船宿〔鶴や〕の運営をまがたとき、
「密偵でお金で困っている者がいたら用立ててやれ」

毎年の年賀に、粂八は残額をこっそり報告していたが、そのたびに平蔵は、
「あれは、そなたに託したのだ。答申には及ばぬ」

寛政7年(1795)の年賀では、残金23両2分(376万円)と報告したが、平蔵側の記録にはのこっていない。

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2012.06.13

平蔵、初仕事(12)

「遅くなりました」
戻ってきた組を代表し、与力・小島与大夫(よだゆう 38歳)が謝った。

「なに、ぎりぎりまで働いたということは、それだけの実りがあったからであろう。苦労をかけた。さ、聴かせてくれ」
平蔵(へいぞう 42歳)の大仰な迎えぶりに、かえって恐縮しながら、
友蔵(ともぞう 30がらみ)を見た者は見つかりましたが、本人はもぬけのからでした」
生家の近所の者たちの証言Iこ、この2ヶ月ばかり、針ヶ谷村の生まれた家のまわりをぶらぶらしていたが、3ヶ日まえから姿を消したという。

平蔵が目で、昨日、今日と旅籠まわりをした〔南百(なんど)〕の駒蔵(こまぞう 36歳)と〔越生(おごせ〕の万吉(まんきち 23歳)呼んだ。

2人の密偵が前でると、
「事件のあった夜、50過ぎの婆さんと、30すぎのいい男が夜中に部屋をとった旅籠が、仲町のまわりにあったろう?」
万吉がうなずいた。

鈴木同心といっしょに行き、その前にも部屋を使っているはずだから、そこのところを調べてくるように――」

「みなも、もう、わかったとおもうが……」
苦笑しながら種あかしをした。

針ヶ谷〕の友蔵はおんなだましの泥棒なのである。
盗賊団がこれと目をつけた家の中で、欲求不満のおんなをみつけ、手だてを構じて近づき、躰のわたりをつける。
おんなが離れられなくなったころあいに、外泊をもちかける。
おんなはみんなが寝静まった時刻にそっと戸締まりをはずして抜け出す。
そのあと、賊たちははずれされたままの出入り口から侵入し、盗(つとめ)をおこなう。
引きあげるときは、ことさらにその戸をくく゜り抜ける。

一同が合点したあとで、高井同心が問うた。
「御手洗(みたらし)にけえろ――は、なんと解釈いたしましょう?」
「おお、それか――[御手洗にけえろ]は手代の聴きまちがいであろうよ。おんなだましのことを、あの者たちの隠語で、女(め)誑(たら)し、とも呼ぶ。゜[めたらしに消えろ]といっておきますとでも、首領に告げたのではないか」
同心が膝を打った。

「侵入の手口はわかりました。しかし、盗賊一味の正体がまだはっきりしておりません」
小島次席与力が憮然とした表情でつぶやいた。

「おう、そのこと、そのこと。夕餉(ゆうげ)がすんだら、みなもかんがえてくれ。われは旧友と呑む約束があるので、ちょっと失礼する」
松造(よしぞうに 36歳)に合図して席を立った。

残された一同は、
「さすがはお頭だが、いったい、と゜こで〔針ヶ谷〕の友蔵を掘りだしてこられたのであろう?」
「昨夕もだが、今朝、共にでかけた若い美女は何者?」
「今夕の行く先は? 尾行(つ)けていって、発覚(ばれ)たらことだしなあ」
口々にいいあっていた。

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2012.06.12

平蔵、初仕事(11)

使用人たちが寝泊りしている2階の3間つづきの表に面した手代たちの部屋である。

番頭の菊三(きくぞう 51歳)通いで夜は近くの自宅なので、尋問からはずされていた。

留め方同心・高井半蔵(はんぞう 39歳)の訊きとりをうけているのは、2人の手代・又八郎(またはちろう 22歳)と喜代治(19歳)で、3人の小僧は、隣の窓のない中の間で待たされていた。

小僧たちには密偵・〔南百(なんど)〕の駒蔵(こまぞう 36歳)がつき添い、私語を禁じ、同じ問いかけをされるからよく聴き、述べる言葉をきちんとかんがえておくようにいいきかていた。


高井次席の問いの1:賊に襲われるまでの1ヶ月のあいだに卯右衛門夫婦に代わった挙動はなかったか?
又八郎「変わったとは――?]
:食事のすすみぐあいとか……
「食事はわたしども使用人とは別です」
:挙措ふるまいとか訪ねてきたものとか……
「旦那さまのことを観ているわけではない――」
:たとえば店の金を使ったとか……
「金庫の中のことは手前どもにわからない仕組みになっている」

高井の問いの2:同じく1ヶ月のあいだに不審な客はなかったか? たとえば、ふだん買っている銘柄を変えたとか、量が増えたとか、初めての客が何回も訪れたとか――?
「懐が暖かいときに量をふやすのはいつものことで、誰れそれとはいえない」
「蔵元を変えるのは、こちらがすすめたときだ」

高井の問いの3:この店の掛け売りの〆で当月末、翌月末、節季ごとの割合は? とりわけ、この大晦日払いになっていた総額はいかほどか?
「掛け売りの上限と〆日はわたしたち手代で決めていいが、それぞれの割合は番頭でなければわからない。この大晦日払いの額も番頭しか知らない」

高井の問いの4:出入り口は幾つあるのか? その出入り口に不審の細工跡はなかったか?
喜「表と裏庭に一つずつ」
又「細工の有無はお役人のそちらさまがお調べになった」

高井の問いの5:店主夫妻の寝所に店の者が集められたということだが、全員か? 洩れた者はいないか?
「…………」
「お丹(たん)婆さん がいなかったようにおもう」
:お丹――?
「飯炊きの老婆」
「でも、朝はちゃんと飯を炊いてた」

高井の問いの7:賊たちは揃いの盗み支度であったか? 各人がそれぞれであったか? それぞれであったのでれば、おぼえているその装束は?
「灰色の頭巾はそろいで、装束はそれそぞれだが、黒っぽい着物と裾しぼりの袴が野良着のように見えた」
「裏返しに着ていたようだ。裏がわに盲縞の柄が見えたのがいた」

高井の問いの9:賊たちの脚許は?
「紺足袋に草鞋(わらじ)」
「それも、真新しい草鞋」

高井の問いの10:賊たちが話した言葉や脅した言葉になまりはかなかったか?
「気がつかなかった」
「帰りぎわに首領株の男に話しかけた男の言葉に秩父なまりがあったような気がした」
:なんと話しかけた?
「御手洗(みたらし)にけえろ」

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2012.06.11

平蔵、初仕事(10)

もともと、物語を書くつもりで始めたブログではない。
といって、史実を羅列したいわけでもない。

史料探索メモであったり、史書の紹介であったり、池波鬼平の江戸やそのほかの土地の案内であったり、長谷川平蔵がかかわったはずのキャラクターたちとの交遊録であったり、とにかく、めちゃくちゃではあるが平蔵という逸材の素描と当時の風俗・習慣をこころがけてきたつもりでである。

わき見や寄り道をしながらこの8年間で、小説 『鬼平犯科帳』の第1話[唖の十蔵]につなげる直前まで年月をすすめてきた。

ここで風変わりな叙述をしても、ほう、そんな手もあったかと、笑って見逃していただけるのでは――と甘えることに決めた。


先手・弓の2番手組の組頭で火盗改メを命じられている平蔵は、組の与力・同心、それに密偵3名、家士の松造(よしぞう 36歳)を引き連れて中山道の第3の宿場――浦和宿で事件の探索をすすめている。

盗賊に襲われたのは、浦和宿の中山道に面した仲町の酒問屋〔大調(おおづき)屋〕卯右衛門方で、天明7年(1787)12月の下旬――旬日たらずで元旦が明けようというせわしない歳の暮れであった。

小説ふうに、〔大調屋〕を訪れ、昨日も訊いたが 今日は火盗改メのお頭がじきじきにお訊きになる――などと二度手間を弁じているわけにはいくまい。

窮すれば通ず――昨日の与力・小島与大夫組の吟味ぶりを平蔵が暗(あん)にたしなめた形の念押しの問いかけに、午後は〔大調屋〕が答えた記述にすれば、手間がはぶけよう。

というわけで、いまは平蔵たちは〔大調屋〕にい、高井同心は別室で番頭・手代を相手にしているとおもっていただきたい。

奥の間では平蔵松造が卯右衛門に対していた。


問いの2:この1ヶ月のあいだに不審な客はなかったか? ふだん買っている銘柄を変えたとか、量が増えたとか、初めての客が何回も訪れたとか?
卯右衛門「手前はずっとは店にでてはいないので答えられない。番頭・手代がお答えする」

問いの3:当店の掛け売りの〆で当月末、翌月末、節季ごとの割合は?
「店売りと卸しでは異なるとおもうが、番頭がお答えする」

問いの4:出入り口は幾つあるのか?
「えー、表の大戸――と、裏道から庭へ入るのとの2つとおもう」

問いの5::ご当主夫妻の寝所に店の者が集められたということだが、全員か? 洩れた者はいないか?
「賊が全部集めたといっていたからそうだとおもった。恐ろしくてよくは覚えていない」

問いの6:当店では若い者たちによる戸締りと火の用心の家中夜廻りをなん刻(どき)に行っているか?
「江戸の大店(おおだな)と違い、浦和の店は小さいからそういうことをしている店はないはず」

問いの7:賊たちは揃いの盗み衣装(こしらえ)であったか? 各人それぞれであったか? それぞれであったのでれば、おぼえているその装束は?
「揃いであれば覚えているだろうが、覚えていないところをみると、各人それぞれであったようにおもう。これもほかの者に問うてほしい」

問いの8:ご当主は短刀でおどされたということだが、大刀を帯びていた賊はいなかったか?
「お金のことが気がかりで覚えていない。これもほかの者に問うてほしい」

問いの9:賊たちの脚許は?
「紺足袋におろしたての草鞋(わらじ)であった」
:えらい! 恐怖の中、よくぞそこまでみとどけた。ところで、草鞋に特徴は?
「そこまでは――」

問いの10:賊たちが話した言葉や脅した言葉になまりはかなかったか?
「気がつかなかった」

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2012.06.10

平蔵、初仕事(9)

午後の組みあわせ は、平蔵(へいぞう 42歳)の組が、留め方同心・高井半蔵(はんぞう 39歳)、密偵は〔南百(なんど)〕の駒蔵(こまぞう 36歳)、それに松造(よしぞう 36歳)で、被害店〔大調(おおづき)屋〕卯右衛門方の訊きとり直しにあたった。

次席与力・小島与大夫(よだゆう 38歳)の組は、廻り方同心・鈴木重平太(じゅへいた 26歳)、密偵・〔麦塚(むぎづか)〕の瀬兵衛(せべえ 42歳)、〔越生(おごせ)〕の万吉(まんきち 23歳)が〔針ヶ谷(はりがや)〕の友蔵(ともぞう 35,6歳)の訊きこみということで、昼餉(ひるげ)を早々とすませ、街道を北へ向かった。


〔大調屋〕の組は、出かける前に、前日に卯右衛門方の聞きとlりを書きとった高井同心に、そのおおよそを口上させ、平蔵が疑念を糺(ただ)した。

その1:賊に襲われるまでの1ヶ月のあいだに卯右衛門夫婦に変わった挙動はなかったか?
そのことを店の者に訊いたか?

高井同心の応え:確かめていなかった。

その2:同じく1ヶ月のあいだに不審な客はなかったか?
たとえば、ふだん買っている銘柄を変えたとか、量が増えたとか、初めての客が何回も訪れたとか?

高井同心の応え:確かめていなかった。

その3:〔大調屋〕の掛け売りの〆で当月末、翌月末、節季ごとの割合は?
とりわけ、この大晦日払いになっていた総額はいかほどか?

高井同心の応え:確かめていなかった。

その4:出入り口は幾つあるのか?
その出入り口に不審の細工跡はなかったか?

高井同心の応え:全部を調べたわけではないが、調べたのに不審はなかった。

再質問:調べたといえる出入り口は幾つか?

高井同心の応え:賊が帰り口に使った表戸の一つだけ。(失笑)

その5:卯右衛門夫妻の寝所に店の者が集められたということだが、全員か? 洩れた者はいないか?

高井同心の応え:全員という返答であった。洩れた者については確かめなかった。

その6:〔大調屋〕は店の者による火の用心、戸締りの用心の家中夜廻りを何時に行っているか?

高井同心の応え:確かめなかった。

その7:賊たちは揃いの盗み支度であったか? 各人がそれぞれであったか? それぞれであったのであれば、おぼえているその装束は?

高井同心の応え:確かめていなかった。

その8:卯右衛門は短刀でおどされたということだが、大刀を帯びていた賊はいなかったか?

高井同心の応え:確かめなかった。

その9:賊たちの脚許は?

高井同心の応え:確かめなかった。

その10:賊たちが話した言葉や脅した言葉になまりはかなかったか?

高井同心の応え:確かめなかった。

高井同心の応えを聴きとったあとで平蔵がみんなに申し渡した。

「われのいまの問いかけについて、今夜でも夕食をすませてからでも思い出して、高井同心を助けて、長谷川組流の訊きとり作法としてまとめておくように。なに、ほかにも訊きとりのツボはあるから、みなであとで足していけばよい。1ヶ月もあれば、あらまし、まとまるであろうよ」

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2012.06.09

平蔵、初仕事(8)

「…………」
急に秀五郎(ひでごろう 70歳がらみ)が、瞼(まぶた)を閉じ、黙りこんだ。

平蔵(へいぞう 42歳)が耳元へ口を寄せてささやいた。
「どうかしたか、お頭――? 躰のどこかが痛むのか?」

かすかに頭をふり、細い目でお(こう 20歳)をさぐった。
「おさんなら大丈夫だ。お(よし)どんから聴いてないのか?」
秀五郎がまた、頭をふった。

長兵衛(ちょうべえ 50歳)元締のむすめさんだ。同じ白幡村の出だからひょっとしたら知りあいかとおもったが――」

かすかに頭を動かしたのへ、
「そうだった、早くに村を出たといっていたな」
うなずき、口の中で15歳とだけいうと、布団から細った手をだして平蔵の膝におき、
長谷川さま。後生(ごしょう)ですから、このままここで、お(すえ)の側へ行かせてやってくだせえ」

その手を握りかえし、
「江戸へ帰ったら、〔墓火(はかび)〕の初代・秀五郎どんは、去年の秋口にお上(かみ 家治 いえはる)公の先立ちをする形で三途(さんず)の川の瀬ぶみをしたと、留め書に添え書きしておくよ」

秀五郎が掌を返して平蔵の掌を重症人とはおもえない力でにぎりかえし、耳を貸せと手ぶりで伝え、
「煙草入れをお持ち帰りになり、中のものをお役目に使ってくだされ。せめてもの罪ほろぼし――」
枕許の印伝づくのりそれをまさぐる。

「これか――?」
印伝はおもった以上の持ち重りであった。
秀五郎がうなずいた。
糸のように細い目が笑っていたが、目尻からなみだがひと筋すじ流れていた。

「18年前に、受けとっていただけなかったのの片が、やっとつきました。大手をふってお(すえ)の傍らへ安住できます」

「預かっておく」
秀五郎が小さくうなずいた。
なんと、細かった目が刀身の峰ほどに 硬くひらいていた。
精いっぱいに平蔵の姿を記憶にのこそうとしたのであろう。


帰り道、おがつぶやいた。
さまのこと、ますます、分からなくなりました」

平蔵は腹へ納めた煙草入れが重みをましているのを右手で抑えながら、
(中身をしったら、おはもっとたまげよう)
本陣〔星野〕で改めたら小判が50枚(800万円)入っていた。


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2012.06.08

平蔵、初仕事(7)

街道筋から西へはずれた村道を2丁も行き、さらに枝道へそれた、前庭だけがひろい百姓家で、お江(こう 20歳)がよく通る声で、
「お(よし)ちゃん、来たよぉ――。わたし、おッ!」

その声に、庭先で餌を拾っていた放し飼いの雌鶏が3尺(1m)ばかり、つんのめるように羽をばたつかせた。
と、雄鶏が声をあげ、鶏冠(とさか)を立て、とがめるように平蔵(へいぞう 42歳)に数歩寄った。

「番犬よりはしっかりしておるらしい」
苦笑しつぶやいた平蔵へ、話の主(ぬし)の爺さんが病気躰のために卵をとるといって飼っ.たのだと、おが受け売りを口にしたとき、奥から赤ん坊に乳をふくませたままの格好でおがあらわれ、
「こっち……」

母屋の脇の納屋へ案内された2人の鼻を、病室特有の薬くさい匂いがついた。
半開きの雨戸の向こうに形ばかりの縁側としめきった障子がのぞける病室から洩れているらしい。

「爺ぃちゃん。ゆうべ話したお侍さんがみえたよ」
の下 足脱ぎ石の手前からの呼びかけに、しわがれた声の応答かあり、
「どうぞ、おあがりください。お茶は、あとでお持ちしますで……」

寝たきりの老人がこちらへ寝返った。
細い目だけはそのままだが、福々しかった面影はほとんど消え、皺のような筋ばかりが目立つが、平蔵にはその奥に、生命力をいまだに秘めている〔墓火(はかび)〕の秀五郎(ひでごろう 70歳がらみ)であった。

「〔墓火〕のお頭(かしら)、一別以来です。お変わりなく――」
「やっぱり長谷川さまでした。あの世からのお迎えを待っておる、あっしのようなものを、わざわざ尋ねてお見えになるほどご縁が深いお武家さまといったら、長谷川さまきり、思いだしませなんだ」
区切り、区切りの、念をおすようなゆっくりした口調は、老齢になってから会得したものであろうか。

参照】2008年3月26日[墓火(はかび)〕の秀五郎・初代] (

「お懐かしゅう。それにしても、お身内をみごとにお退(ひ)かせになったようで――」
「いえいえ。息子の秀九郎(ひでくろう 50がらみ)に――引きとらせたのでごぜえますが、だらしがねえ、半数以上ももてあまして去らせっちまうていたらくで――」
「お(すえ 45歳=明和6 1769)さん――といいましたか、秀九郎どんの産みのお母ご?」
「あれとは川越で知りあったんです。あっしは、やはり手前が生まれた白幡村の畳の上で死にてえとおもいやして――人間、強がりいっておっても、やっぱり、生まれた土地の土に帰りたいもんらしゅう――いえ、おは5年前に川越に墓をつくって葬ってやりました」

「さようでしたか――」
「ところで、長谷川さまのご用の向きは、3、4日前の浦和宿の〔大調(おおづき)屋〕の件のご吟味でございやすか?」
「いや。〔墓火〕のお頭によく似たお人がこちらで静養中ということで、懐かしくなり、たまたま〔大調(おおづき)屋〕の件もあり――」
「もったいないようなお話でごぜえます。あっしも、長谷川さまが火盗改メに就きになった噂を耳にしてからこっち、しきりに、〔(たづかね)〕の忠助(ちゅうすけ 46、7歳)どんの〔盗人酒屋〕での情景が目先に浮かぶようになりやして――」

用意した紙包みを布団の端にすべりこませた平蔵に、ちらっとおをうかがってから、
「あわだしく発ったもので、なんにも用意ができなくて――雌鶏が卵を産まなかった日の卵代にでも――」

「お志なので、黙って頂いておきます。ところで長谷川さま。ここから北へ30丁ばかりいったところに針ヶ谷(はりがや)という村があります。その里名( さとな)を通り名にして盗(おつとめ)をしている男を使っていたことがあります。色男なもので、大々年増の後家とか婆さん連中がひっかかります」
針ヶ谷(はりがや)村の――?」
「――友蔵(ともぞう)」

「齢のころは――?」
「あっしが退く、そう、3年ばかり前が27,8――でしたから、いまは、30歳をでたところ――」、
「おぼえておこう」

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2012.06.07

平蔵、初仕事(6)

翌朝。

次席与力の小島与大夫(だゆう 38歳)の朝餉(あさげ)の膳を平蔵(へいぞう 42歳)の部屋へ運ばせ、共に食しながら、
「のう、小島。われはこれから昼前まで、そのほうたちとは別の探索ごとがあり、ともに動けない。きのうの続きをやりとげる〔南百(なんど)〕の駒蔵(こまぞう 36歳)と〔越生(おごせ)〕の万吉(まんきち 23歳)はのけるとして、あとの3人にどのような仕事をいいつけたものよのう?」
「はっ……」

応えたきり、与大夫は黙ってしまった。
(にえ) 越前(守正寿 まさとし 38歳=安永7年1778)さまがお頭であれば、いかような手配をなされたであろうのう?」

贄 越前守正寿は、平蔵の3代前の先手・2番手の組頭で 火盗改メを5年ほど勤めた。
その永年ぶりは、江戸時代を通じて、平蔵に次いでいる。
もちろん、このときは平蔵とて、おのれが8年も塩漬けになるなどとは予見もしていないから、こそもっとも信任の篤かった火盗改メと尊敬していた。

参照】2010年12月3日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 
2011年1月18日[贄(にえ)家捜し] () () () 

「申しわけございません。 さまが組頭として着任されたとき、手前は29歳の末席与力で、口をきくたびに緊張して舌がうまくまわりませんでした」
「われのときには緊張しないとみえる」
「恐れいり――」
「恐れいることはない。それだけ甲羅を経たということよ」
「はっ」

「探索の基本は、聞きこみと事実に事実を重ねたほころびの発見――これの繰り返しだ。午前中、3人の者に近辺の寺をまわらせ、人別のなくなっている者たちをあぶりだす――」
「はっ」

食事を終え、身支度をととのえていると、女中が、
「お迎えが参っております――」
(こう 20歳)の来訪を告げた。

2年前のときのように、武家のむすめの外出を気どった薄い水色の揚げ帽子で髪を蔽っていたが、さすがにおんなだ、20歳の色気が躰じゅうからふきだしているのがうかがえた。

ゆうべ、脱ぎ場で脱がれたら、あのままですんでいたかどうか、平蔵は自信がなかった。

浦和宿をはずれて岸村へ入ると、そこは〔白幡(しらはた)〕の元締のむすめ、すれちがう村人がおに丁寧に腰を折ってのあいさつを欠かさなかった。

「たいした人気(じんき)なんだな」
「いいえ、おやじどのへのお義理です」
「左様に心得ているだけでもえらい」

「いっしょに歩いていたお武家さまは何者と、午後のうちに10ヶ村で噂が渦巻き、明日の朝には火盗改メのお頭さまと、ご身分が割れていましょう?」
「ほう――」
「本陣の〔星野〕の者たちからですよ。口どめなさっていないでしょう?」
「そうか、ぬかったな」
「いいえ。〔白幡〕の元締どのは、箔(はく)がついて大満足です」

「箔が、のう――おにとっても、箔がつくか?」
「どうでしょう。ついてくれるなら、虫のほうがありがたいかも――」
艶な視線を平蔵になげかけた。

西に見える富士には、白い雪の帽子が似合っていた。

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2012.06.06

平蔵、初仕事(5)

脱ぎ場より浴室のほうが行灯の数が多かった。

前も隠さないお(こう 20歳)の裸身が浴室へ踏みこむと白さがより輝やいたようにおもえたので、平蔵はおもわず人差し指で唇を封じた。

手桶で湯船から汲んでざっと下腹にあびせ、左腕で平蔵の肩をつかんで裸身を支えて隣に沈み、含み笑いの唇を平蔵の耳へ寄せ、小声で、
「2年ぶりの共湯、うれしい」
ささやいたが、肌をつけないだけのこころづかいは忘れていなかった。

「脚が1寸ほども伸びたようだな」
お世辞半分なのに、すっと立ち、
(へい)さんも立って――比べましょ」

仕方なしに平蔵も立ったが、さすがに向いあうのははばかられ、横にならんだ。

が自分の股の付け根から平蔵の太ももへ見えない線を引き、
さんのほうが3寸(9cm)ほど脚長だけど、背丈は7寸(21cm)もちがうんだから、脚は……?」
「おの勝ちだな」

向きあい、お互いに相手の下腹までもない湯線でたゆたっている黒鬚に、さすがに気恥ずかしくなり、同時に躰を沈めたのがまたおかしく、声をださないで笑った。

どうしようかと迷っていたふうだったお江が、脱ぎ場のほうへ視線をすえたままそっと、
奈々(なな 20歳)さんとは、まだ――?」
「――つづいておる」

「――だろうとおもってました。元締がいいました。どんな男を選ぼうがおの勝手だが、さんのご出世の邪魔だけはしてはいけないって――〔音羽(おとわ)〕のからも遠まわしにいわれました」

洗うふりで湯を顔にかけ、
「でも、こうして共湯していただけて、胸のつかえがとれました。30歳になって、風呂場でのわたしたちのこの姿をおもいだしたら、きっと笑いがとまらないでしょうね」
涙声であった。

「40歳では思いだしもしなくなっているであろう」
「いいえ――明日の朝は七ッ(午前8時)にお迎えにまいります」
さっと湯船から出、躰も拭わないで浴衣を羽織り、姿を消した。

(これで終わったのなら、おはずいぶんと大人になったものだが――)

油が尽きたか、行灯の一基がじりじりと音を発して灯を消すと、浴室にあるものの影がとたんに濃さを増したようにおもえた。

相良侯の光明がとどかなくなったみたいだ)

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2012.06.05

平蔵、初仕事(4)

「元締の本貫(ほんかん)が、ここから下(しも)寄りの白幡村だってことは、長谷川さま、ご承知ですね?」
「知っておる」
(こう 20歳)の問いかけに、平蔵(へいぞう 42歳)がうなずいた。
母親が高麗系の血をひいているといっていたから、本貫という言葉も素直に聴けた。

「焼き米坂のあたりであろう?」

438_300

焼米坂の店 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「はい。その人が死の国からのお迎えを待っているのは、あたしと手習い所がいっしょだったお(よし)ちゃんの実家なんです」
「お……?」
「ごめんなにさい。おちゃん、お嫁にいって子持ちで……」

の話は枝葉が多くてなかなか先へすすまない。
要点をかいつまんで記す。

小作農家であるおの実家に1年前、70歳がらみの老人がやってき、50両(800万円)というお金をさしだし、いまの家族は知らないだろうが、55年ほど前にこの家の暮らしがきつくて家出した、三男の秀太(しゅうた)と名乗り、川越の蔵元でずっと働かせてもらい、これだけのものを貯めこんだが、寄る齢なみには勝てない、死ぬなら生まれた村でとかんがえ、帰ってきた。裏の納屋にでもひと部屋建て増し、そこで死なせてもらえないだろうか。50両はその建て増し費用と3年間の食事代と身のまわりの世話賃として修めてもらいたい。余った金はこの家で好きなように使ってもらえばいい。
別に10両を葬式・お布施として預けておくと申し出た。
村の古老に確かめると、秀作という三男はたしかに家出したと証言された。
で、その秀作じいさんは半年前から胃の腑に悪いものができたらしく寝込んでいると。

「おどの。そのご老躰に、明日の朝方にでも会えるように手くばりしてもらえないかな? われのほうから見舞いに参じる」

長兵衛(ちょうべえ 50歳)元締が末むすめのおに酒をいいつけると、今宵は本陣に配下の者が待っているから、明日の晩に――と謝絶した平蔵が座を立った。
門の外まで父娘の見送りを背に、早くも暮れはじめた町中を、〔星野〕へ戻る。
参勤往来のない時期なので、〔星野〕は隣や向いの部屋を空にして待っていた。


夕食には酒を1本ずつつけた。
「これ以上は、おのおのの宿へ引き上げてから足すように……」
小島与大夫(よだゆう 38歳)次席与力がいいふくめてから、首尾を報告した。

事件は、4日前の夜中4ッ半(11時)すぎ、卯右衛門・お増(うえもん 45歳・ます 40歳)夫妻の寝室で、黒装束の男2人が匕首(どす)で主人の頬をたたいて目覚めさせたところからはじまった。
夫妻が起き上がったところへ、あちこちの部屋から寝巻きのままの上から縛られた手代、小僧、女中の5人がつれてこられ、首領らしい男が卯右衛門に小金庫をあけさせ、有り金の250両(4000万円)を持参の黒い袋へ入れると、全員の脚をしばりあげ、灯火の始末をきちんとつけてから 店の表戸をくぐって引き上げた。

「次席。被害額は430両(6880万円)ではなかったのか?」
確かめると、
「180両(2880万円)は、帳場の角火鉢の隠し抽(ひ)き出し入れてあったのをうっかり盗まれたとおもいこんで届けたと申しておりました」

「どこから侵入したのかな。戸締りはちゃんとしていたであろうに――」
「それが奇妙なのですが、締まりが解けていたのは、賊たちが出ていった表戸のくぐりだけであったそうです」

「賊たちに見覚えは?」
「まったく思いあたらないと申しておりました」
「うーむ」
平蔵小島次席を解放し、密偵の瀬兵衛(せべえ 42歳)に〔大調(おおづき)屋〕の評判を報告させた。
瀬兵衛は同業のところをまわって酒を含みながら評判を集めたらしく顔が赤く、膳につけられていた銚子をそっと高井同心の膳へ移してから、
「同業の酒扱いの者たちは口をそろえて商売は手がたくまわしてい、大きな借りはないと申しておりました。町内のつきあいも悪くはないようです。ただ、町内の呑み屋の内儀が、飯炊きのお丹(たん)ばあさんが色好みでねえと危ながっていたのがちょっとひっかかりました」

「おばあさん――? 幾つだ?」
「後家で、孫が7人もいる50がらみとか――」
「苦労であった。きょうの飲み代は高井次席からもらっておくように」

陣屋での鈴木重平太(じゅへいた 26歳)の調べでは、ここ5年間は盗難はなかったが、蕨村と大宮村に3件ほど、いずれも100両にとどかない被害があった。
額が小さいが、未解決のままなのが気がかりだと陣屋でいっいた。

密偵・〔南百(なんど)〕の駒増(こまぞう 36歳)と〔越生(おごせ)〕の万吉(まんきち 23歳)は、旅籠の数が多すぎ半分しか廻りきれなずに時間ぎれになったから、あす残りをまわってあわせて報告するということで食事になった。

空腹に飯をかきこみながら、平蔵松造(よしぞう 36歳)をのけた6人は、1刻ばかりのこんな聴きこみで、はたして3日で片がつくのかと不審の念にとらわれていた。


平蔵が湯につかっていると、脱ぎ場で人の気配がした。
うかがうと、裸身のおんなであった。
2年前の再現か。

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2012.06.04

平蔵、初仕事(3)

浦和宿の本陣〔星野〕に着いたのは、七ッ(午後4時)ちょっと前であった。
師走とはいえ、七ッはまだ陽がある。

平蔵(へいぞう 42歳)の部屋へ集まり、分担をきめた。

これから賊に襲われた酒問屋〔大調(おおづき)屋〕卯右衛門方で主人ほかから当夜の次第を訊きとるのは、次席与力・小島与大夫(よだゆう 38歳)と同心・高井半蔵(39歳)。

近所での〔大調屋〕の評判をあつめるのは〔麦塚(むぎづか)〕の瀬兵衛(せべえ 42歳)。

陣屋と問屋場でここ数ヶ年の盗難を聞きだすのは鈴木重平太(じゅへいた 26歳)。

すべての旅籠で事件当夜の宿泊人を調べるのは〔南百(なんど)〕の駒蔵(こまぞう 36歳)が上手(かみて)から、下(しも)からは〔越生(おごせ)〕の万吉(まんきち 23歳)。

当時の中山道での上(かみ)下(しも)は、京都寄りが上、江戸よりが下ときまっていた。

「われは松造(よしぞう 36歳)とちょっと内密の用事があるので出かけるが、1刻(2時間)後の六ッまでには戻っておる。夕食はここで。高井鈴木は脇本陣へ。密偵たちはふつうの旅籠(はたご)をとるように……」

それぞれが散っていくと、平蔵は着流しに着替え、ひと筋西、玉蔵院門前のしもうた屋を訪(おとの)うた。
刺を通すと、お(こう 20歳)がころげるほどのあわただしさで玄関口へあらわれた。
平蔵に抱きつかんばかり寄りそい、腕をにぎり 、
長谷川さまですね? ほんとうに平蔵さまですね?」
引っ張るように奥へいざない、
「元締。長谷川さまがお見えになりました」

白幡(しらはた)〕の元締・長兵衛(ちょうべえ 50歳)は落ち着いて迎え、
「封簡は昼ごろに落手いたしやしたが、こんなに早くお越しとはおもってもおりやせんでした。ま、お席へどうぞ。その節は、おがすっかりお世話になりました」

「こんどは、われのほうが世話をかけます。書簡にも書きましたが、本通の〔大調屋〕酒店の事件をわれの組が突然に担当する羽目になりましてな。元締のお力を借りなければ、われの初仕事が実をむすびませぬ」

「で、どのようなことをいたしやしょうや?」
「配下の方々の耳に、この15年がほどのあいだに人別を捨てて無宿になった者の噂が入っていたら、教えていただきたい。決してこちらにご迷惑がおよぶようなことにはいたしませぬ」
「あすにでも、みなの衆に問いあわせてみやしょう」

「もう一つ。〔大調屋〕から5丁四方の町内になにを生業(なりわい)をしているかわからないのに、けっこうな暮らしぶりをしている者があったら、教えていただきたい」
「わかりやした」

「つぎのこれは、役目の上のことではありませぬ。われひとりにかかわることなのですが、この宿場から出て行き、なん10年かぶりに戻ってき、療養なりなんなりをしている者がいたら、名前、齢、風体を教えていただきたい」
「そんな人、一人、しってる!」
が叫ぶように声をあげた。

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2012.06.03

平蔵、初仕事(2)

本郷追分の酒店の前では、見送りの筆頭与力・(たち) 朔蔵(さくぞう 32歳)のほかに、6人ばかりが平蔵(へいぞう 42歳)を待っていた。

与力
次席・小島与大夫(よだゆう 38歳)

同心
 留め方・高井半蔵(はんぞう 39歳)
 廻り方・鈴木重平太(じゅうへいた 26歳)

密偵
 〔麦塚(むぎづか)〕の瀬兵衛(せべえ 41歳)
 {南百(なんど)〕の駒造(こまぞう 36歳)
 〔越生(おごせ)〕の万吉(まんきち 23歳)

密偵は、埼玉郡(さいまたこえおり)まわり育ちの者がえらばれていた。

顔なじみではあったが、どのような経緯で密偵になったかについては、平蔵はこの旅の宿で聴きとるつもりであった。

松造(よしぞう 36歳)と〔何百〕の駒造がなにやら親しげに言葉を交わしているのを視野の片隅にいれながら、
筆頭に、
「なにかあったら、本陣の〔星野〕へ遣いをよこすように……」
「承知いたしました。お早いお帰りをお待ちしております」

駒込片町で、
「白山神社へ武運を祈っていこう」
左の参道へ折れて広い境内へはいった。
樹木が多く、人目から隠れた。

なにごとか祈願しおえると、
「これから先は別かれて道中し、浦和の本陣で七ッ(午後4時)に落ちあう。まず、小島与力と瀬兵衛が先発せよ。板橋の茶店で行きあっても、言葉をかわしてはならぬ。二番手は高井と万吉。われと松(よし)の後駆(しんがり)を鈴木と駒蔵がおさえよ。では、気をつけて行け」

白山神社から浦和は、戸田の渡しをいれて4里30丁(19km)ほどであった。
板橋宿で茶、蕨(わらび)宿で昼をとっても、七ッ前には浦和宿にはいる。

平蔵松造にしてみると、4度目の往還となった。

駒造とはどういうなじみだ?」
「発覚(ばれ)ましたか。甲州路でちょぼをやっていたころの知りあいです。殿が火盗改メにお就きになったとき、ご門のところで出会い、駒蔵が密偵になっている運の不思議を知りました」
「だれの手先と申していたかな?」
「同心筆頭の厨子敬太郎 けいたろう 40歳)さまの手先だともうしておりました」
「ふむ」

板橋宿の先の小豆沢(あずさわ)村で、平蔵が小豆沢神社の椎(しい)の巨木の霊力をいただいて行くといい、右におれた。
巨樹は、大人3人が手をつないでやっと指先が触れあうほどの太い幹であった。
幹に両掌をびったりとつけ、目をとじ、なにごとが口のなかでつぶやいていたが、双眸(ひとみ)がひらいたときは、雑念がすべて散り落ち、さばさばした面持ちで、
「3日がうちに片がつくぞ」
松造にささやいた。

ふだんから神仏をないがしろにはしない平蔵を見てきた松造であったが、今日はとりわけ鬱積でもあるのか、白山神社で永くかしずづいたり、小豆沢神社では椎の巨樹から力をさずかったりで、ちょっと気になっので、
「小豆沢って社号は、村名からきたのでしょうか?」
別のことに託して訊いた。

「いいづたえでは、平将門がこのあたりを押領していたころ、貢ぎ物の小豆(あずき)を積んだ舟が神社の下、荒川の入江で沈んだのが村名になったということだ。村人たちが引き上げた小豆で牡丹餅でもつくって祝ったのであろうよ。験(げん)のよい社号なのだ」

中山道へ戻った平蔵は、昨夜おそく、白石恭太郎(きょうたろう)同心から、埼玉郡(さいたまこおり)にかかわりのある盗賊は、〔墓火(はかび)〕の秀五郎(ひでごろう 70歳近い)老首領のみとの報告をうけていた。
それで、20年近くも前の事件を反芻しながら、浦和へ向かっていた。

参照】2008年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎] () () () () () (

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2012.06.02

平蔵、初仕事

「仕事だ。先に帰る。与惣兵衛(よそべえ)どのにはとくと謝っておいてくれ」
久栄(ひさえ 35歳)に告げ、手洗いにもでも立つふりをよそおい、そっと抜けだした。

道々、浦和の町の景色と、ちょっとした思い出を反芻していた。

もっとも近い記憶は2年前の夏、香具師(やし)の元締・〔白幡(しらはた)の長兵衛(ちょうべえ 48歳=当時)とむすめのお(こう 18歳=当時)にまつわる一件であった。

(おも、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん)どんのところでの修行を終えて浦和へ戻り、おんな元締として腕を磨いているところであろう)

参照】2012年12月25日~[松代への旅] () () () (

(われが出張(でば)れば、〔白幡)一統の手が借りられるのだが、組の者たちではそうもいくまい)

平蔵(へいぞう 42歳)は、きびしくしなければらない歳末の警備の時期に、ひそかに胸のうちで、江戸を抜けだして浦和で盗賊を追う算段をしていた。

役宅となっている三ッ目通りの屋敷へ戻ってみると、筆頭与力・(たち) 朔蔵(さくぞう 32歳)以下、数人の与力と10人をこす同心が待ちかまえていた。

浦和の事件は、中山道ぞいの仲町の酒問屋〔大調(おおつき)屋〕卯右衛門(うえもん)方へ、3日前の夜に数人の賊が押しいり、主人夫婦をはじめ店の者たちをしばりあげ、小金庫を開けさせて430両(6880万円)を奪ったという報らせにより、昨日の昼に堀 組が出向くことに決まっていた。

冬場、助役(すけやく)が任命されているときに、江戸の線引き外の大名領でない土地の事件は、本役・助役双方の組頭が相談して受け持ちをきめるしきたりであった。

ところが昨夜、浅草・馬道の白粉屋〔白椿屋〕が盗賊に押し入られたので、堀 組はそちらで手いっぱいになったため、浦和のほうは長谷川組でこなしてほしいということにしたらしい。

「よし、わかった。明朝発つから与力1人、同心2人、密偵3人を選抜しておいてくれ」
「それだけで足りましょうか?」
「賊は5,6人ということであったな。盗人宿へ踏みこむようなことにでもなったら岩槻藩から人手を借りればよい。明朝六ッ半(午前7時)に本郷追分の中山道の入り口で落ち合おう。3泊ほどの旅支度でくるように……」

「お言葉ですと、お頭もご出役くださいますので……」
筆頭が口ごもりながら訊いたのへ、
「当然だ。 のじいさんは風邪がまだ癒(いえ)ていないのであろうよ。弓の2番手の真の力を示してやる絶好の機会だ」
平蔵がけろりといってのけた。

朔蔵と例繰方同心・白石恭太郎(きょうたろう 45歳)を書見の間へ招き、
「明朝までに、まだ挙げられていない武蔵国埼玉郡(さいたまこおり)の村・川・山の名を通り名としている盗人を洗い出しておいてくれ」

参照】2009年12月11日[赤井越前守忠晶(ただあきら)] (


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2012.06.01

義父・大橋与惣兵衛親英が布衣(ほい)

「父上。なぜ、ことしは3回も大橋のおじいちゃまのところへごあいさつにあがるのですか?」
あと10日で8歳になる銕五郎(てつごろう)が、袴と紋付羽織を召使に着せてもらいながら、不平がありげな口調で、父・平蔵(へいぞう 42歳)に問いかけた。

「今日は、大じいさまが布衣(ほい)をお許されになったお祝いなのだ」
「父上は布衣のお祝いはなさらないのですか?」
「われは(てつ)が4歳の暮れにすませた」
「覚えておりませぬ。ご納戸町の栄(えい)叔父上は?」
正満(まさみつ 43歳 4070石)どのは布衣ではなく、もっと位が上の装束をお召しになる」

納戸町の長谷川家へは、10年後に銕五郎が養子に入った。
いま、父子が話題にしている大橋与惣兵衛親英(ちかひで 74歳 200俵)は、平蔵の妻・久栄(ひさえ 35歳)の実父であった。

銕五郎が今年3回目の訪問といったのは、正月と、7月26日に新番の組頭から船手頭に栄進したときに、少ない親類が寄って祝った。
3回目の今日は、船手頭ならよほどのことがないかぎり暮れにゆるされることがわかっている布衣の祝宴であった。

参照】2007年5月8日[「布衣(ほい)」の格式


大橋家はむすめばかり、養女もふくめて5人だが、尋常な内室としてつづいているのは久栄だけであった。
それだけに親戚が集まってもなんとなく白々しい雰囲気がぬぐえない。
そのことは、子どもながら銕五郎にもわかるらしい。
久栄のそばから離れようとしない。

参照】2008年9月19日[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] () () () () () () () (

もっとも、当の親英は、もともと人ぎらいなのか、寂しい集まりを苦にはしていない。


大橋家は、和泉橋通りを北へ2丁ほどいったところにあった。
禄高が低いために門も両柱のみの簡単なもので、常駐の門番もいないが、布衣となったらそうはいくまい。。

親類といっても野間家からの養子・千之丞親号(ちかな 28歳)の実家と黒田家からの2人、それに後妻の実家・井口家ぐらいであった。

平蔵が祝辞を述べ祝賀の金包みをわたすと、親英が廊下へ連れだし、耳元へ口をよせ、
「陸奥(むつ)風はこともなかったか?」
「陸奥風? ああ白河おろしですか。こちらは両番(書院番と小姓組番 武官系)ですからね。むこうさんにとっては、痛くも痒くもない存在ですよ」
「気をつけろよ。相良侯へのうらみは相当に深いという噂だからな」
「ご忠告、ありがたく承りました」

宴会の部屋へ戻っても、親しく話しかけてくる者いないし、しょうこともなく辰蔵(たつぞう 18歳)と盃の応酬をしていると、久栄が告げた。
「非常の知らせとかで、同心の鈴木重平太(じゅへいた 26歳)どのがお見えです」

玄関にでてみると、
昨夜、熊谷宿であった盗みの:件は、長谷川組であつかってもらいたいと、堀組の筆頭与力・佐島忠介(ちゅうすけ 50歳)からこちらの(たち) 朔蔵(さくぞう 38歳)筆頭へ申しいれがあったが、引き受けていいものか、お頭のおゆるしをいただいてこいとのことで……と、この寒さに汗をぬぐいながら告げた。

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