平蔵、初仕事(13)
「長谷川さま。申しわけない」
宴を始める前に、〔白幡(しらはた)〕の長兵衛(ちょうべえ 50歳)が謝った。
上座にしつらえられた平蔵(へいぞう 42歳)、松造(よしぞう 36歳) の席から折れて、長兵衛、お江(こう 20歳)の膳がならべられていた。
「元締。お手をおあげください。それでは宴が始まりませぬ」
平蔵がとりなしたが、
「いや。面目次第もございません。うちの者たちが盗みの衆をかばったりはしておらんと信じておりやす」
ますます、大きな躰をちぢめた。
「お身内の衆としても、漠然とした話なので、おもいだせなかったのであろうよ」
「お江のほうはいかがでしたか? 朝から身内のものたちの聞きこみにかかりっきりで、お江とはまだ口をきいていなかった不ざまで――」
「われのほうも、お江さんに結果を告げておらなんだので、あわせてお聴きねがおう」
白幡村で養生しているのは、20年ほどまえにちょっとしたかかわりがあった秀五郎(ひでごろう)という70歳の老人だが、この老人の知りあいで針ヶ谷村生まれの友蔵というのが、女(め)たらしだと告げてくれた。
それで配下を針ヶ谷村へやって索(しら)べさせたら、〔大調(おおづき)屋〕に盗人が押しこんだころに村へ戻ってぶらぶらしていたことがわかったが、あの晩から姿を消してしまってい、せっかくの手がかりりが途切れてしまった。
「長谷川さま。そのおんなたらしは、針ヶ谷村とおっしゃいましたか?」
「さよう」
「齢恰好は――?」
「30がらみ……」
「ちょっとお待ちを。ひょっすると、その友蔵とやらの幼ななじみだったのが、うちの身内にいるかもしれません。お江、資作(すけさく)を呼んでこい」
はたしして、30がらみの小頭・資作は幼な友だちで、友蔵の名を告げられると、
「あれは人間のくずでございますよ。おんなをたぶらかしては捨てて食ってる奴で、男の風上にもおけやせん」
太い眉を寄せ、吐いてすてた。
「たしかに非道な男だが、誰の下で働いているといってなかったかな?」
「2ヶ月ほど前に八雲神社の祭礼で会ったときには、いまは上州の、あんまりしられてない村――ええと、鹿でもない、猪でもない――そうだ、[熊倉(くまくら)〕の惣十(そう じゅう) という首領の下で重宝されていると、自慢してやした」
【ちゅうすけ注】〔熊倉〕の惣十は、『鬼平犯科帳』では、さほど主要な首領としては描かれてはいない。おまさが引きこみとしてほんのしばらく勤めたぐらいで、そのあと、ひとり働きに近い友蔵が性技を活かした引きこみもどきをおこなったのであろう。
〔熊倉〕一味が火盗改メに捕縛された記録もない。
ということは、平蔵が火盗改メ・助役(すけやく)になっての最初の仕事は、〔大調屋〕へはいった盗賊の首領の名前と侵入の手口を明らかにしただけで終わったということである。
が、口約束どおり、3日のうちにそれをやってのけただけで、先手・弓の2番手の組下たちは畏敬してしまい、その後の働きぶりがまるで異なってきた。
秀五郎が寄こした煙草入れには、小判が50枚(800枚)はいっていたが、平蔵は幕府には報告せず、戸袋へ投げこんだままにしておき、天明8年10月2日に本役に就いてから密偵になった〔小房(こぶさ)〕の粂八(くめはち)に船宿〔鶴や〕の運営をまがたとき、
「密偵でお金で困っている者がいたら用立ててやれ」
毎年の年賀に、粂八は残額をこっそり報告していたが、そのたびに平蔵は、
「あれは、そなたに託したのだ。答申には及ばぬ」
寛政7年(1795)の年賀では、残金23両2分(376万円)と報告したが、平蔵側の記録にはのこっていない。
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